第60話:月光の隠れ里と、クリスタルの記憶
#### 静寂の楽園
古森の守護者に道を開かれ、一行が足を踏み入れた先は、人の言葉では到底言い表せないほどの、幻想的な光景が広がる谷だった。
夜ではないというのに、空には穏やかな月が浮かび、その優しい月光が、谷全体を青白く照らし出している。建物は、木材を組んで作られたものではない。巨大な樹木そのものが、緩やかな曲線を描きながら、住居や橋、塔といった形へと成長しているのだ。小川には、水晶のかけらが敷き詰められているかのように、清らかな水が流れ、その岸辺には、見たこともない、淡く光る花々が咲き乱れている。どこからか、風が水晶の葉を揺らす、鈴のような音色が聞こえ、花の蜜とは違う、清浄で、魂を落ち着かせるような甘い香りが、谷全体を満たしていた。
「……ここが、エルフの隠れ里……」
アルフォンスが、呆然と呟く。誰もが、その、あまりにも完璧な楽園の光景に、言葉を失っていた。
だが、すぐに、一行は、この楽園を支配する、絶対的な「違和感」に気づいた。
音が、ないのだ。
鳥のさえずりも、先ほどまで聞こえていた鈴の音色も、ふっと途絶える。そして何より、これほどの里に、人の気配が、全くしない。
まるで、住人全員が、息を殺して、どこかに隠れているかのような、不気味なまでの静寂。あまりにも完璧すぎるが故に、まるで精巧に作られた『箱庭』の中に迷い込んだかのような、現実感のない恐怖が、一行の背筋を這い上がった。
#### 時が止まった都
「……おかしい。何かが、絶対におかしい」
ローランの指示で、一行は警戒しながら、里の探索を開始した。
アルフォンスとカエルが足を踏み入れた家の中は、まるで昨日まで人が暮らしていたかのように、生活の痕跡が生々しく残っていた。テーブルの上には、食べかけの果物と、美しい装飾が施されたハープ。寝室には、畳まれる途中の、絹のような衣服。
「……まるで、食事の準備をしている最中に、全員が神隠しにでも遭ったみたいだ」
カエルの囁きに、アルフォンスは無言で頷いた。彼の背筋を、経験したことのない、冷たい悪寒が駆け上っていた。戦場とは違う。死体すらない、この完全な『無』こそが、何よりも恐ろしい、と。
「アーク様、こちらへ!」
ローランの、緊迫した声に導かれ、一行は、里の中央広場へと集まった。
その中心に、天を突くようにそびえ立っていたのは、一本の、巨大な水晶の木だった。里を照らす全ての月光は、この**『月光樹』**から放たれているようだった。
だが、その光は、あまりにも弱々しく、まるで瀕死の病人の呼吸のように、不規則に、明滅を繰り返していた。
「……間違いない。この木の生命力が、この里そのものを支えている。そして、この木は、今、まさに死にかけている」
アークは、その月光樹が、親である世界樹の衰弱と、完全に同調してしまっていることを、直感した。
#### クリスタルの記憶
「エルフたちは、どこへ消えたんだ……?」
アルフォンスの、誰もが抱く疑問。その答えは、この月光樹にしかない。アークは、覚悟を決めた。
彼は、その巨大な水晶の幹に、そっと、両手で触れた。
「お願いだ。教えてほしい。君が見てきた、全ての真実を」
「**『樹木の記憶』**」
アークの意識が、光の奔流となって、月光樹の記憶の深淵へと、引きずり込まれていく。
――彼の脳裏に、数多の光景が流れ込む。
光景だけではない。数百年分の、喜び、悲しみ、そして、滅びゆく種族の、静かで、しかし、どこまでも深い絶望と、それでも未来に希望を託す、気高い祈りの感情が、何の緩衝材もなく、アークの魂へと直接叩きつけられる。
月光の下で、穏やかに歌い、暮らす、美しいエルフたちの姿。
やがて、世界樹の衰弱が始まり、月光樹の光が、少しずつ翳っていく。里に、不安と悲しみの影が落ちる。
そして、最後の日の記憶。
白髪の、気高いエルフの長老が、民を集め、静かに、しかし、力強く語りかける。
『我らの母なる樹の命、尽きようとしています。ですが、古の預言は、告げています。いつか、森の心を理解する、若き人の子が、世界樹の分霊と共に、この地を訪れる、と』
『我らは、その希望に、全てを賭けます。これより、我らエルフは、長き眠りにつきます。肉体を水晶へと変え、この月光樹と一つになり、最後の生命力を、その時が来るまで、保ち続けるのです』
その言葉と共に、エルフたちが、一人、また一人と、月光樹に触れていく。彼らの体は、美しい光と共に、透き通った水晶へと姿を変え、まるで樹の内部へと吸い込まれるように、同化していく。
それは、絶望の儀式ではない。未来への、あまりにも気高く、あまりにも悲壮な、祈りの儀式だった。
「……う……ぁ……」
アークは、膨大な記憶の奔流から、弾き飛ばされるように、現実へと意識を取り戻した。
彼の目から、一筋の涙が、静かに流れ落ちていた。
「アーク!」「大丈夫か、弟よ!」
仲間たちが、心配そうに駆け寄る。
アークは、震える声で、仲間たちに告げた。
「……エルフは、消えたりなんかしてない。彼らは……この木の中で、眠っているんだ」
彼は、弱々しく明滅を繰り返す、月光樹を見上げた。
その水晶の幹の、奥深く。注意深く見れば、無数の、人の形をした影が、静かに眠りについているのが、確かに見えた。
「彼らは、待っているんだ。世界樹を癒やし、自分たちを目覚めさせてくれる、救い手を……」
アークは、仲間たちを、そして、ウルの瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「――僕らを、待っているんだ」
一行の目的は、今、完全に変わった。
エルフから情報を得ることではない。
この、美しくも悲しい、気高き種族そのものを、滅びの運命から救い出すこと。
その、あまりにも重い使命。だが、一行の誰一人として、その重圧に怯む者はいなかった。
アルフォンスは、弟の肩に、力強く手を置いた。ローランは、静かに頷き、その覚悟を受け入れた。カエルは、ただ、その目に、揺りぎない忠誠の光を宿していた。
彼らは、言葉もなく、ただ、一つの決意を共有していた。
彼らは、静かに明滅を繰り返す、月光樹を見つめ続けるのだった。
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