第58話:病める森と、意思を持つ霧
#### 静寂の不協和音
エルフの隠れ里を目指す旅が始まって、数日が過ぎた。
アークたちは、ウルの示す方角を頼りに、これまで誰も足を踏み入れたことのない、辺境の森の最深部へと進んでいた。
だが、進めば進むほど、一行は、森が奏でる不協和音に気づき始めていた。
「……おかしい」
斥候を務めるカエルが、眉をひそめて呟く。
「鳥の声も、獣の気配も、全くしねぇ。まるで、森全体が息を殺しているようだ」
ローランも、険しい表情で周囲を見渡す。
「それだけではない。見ろ、あの木々を。本来、陽の光を嫌う陰性のシダが、日当たりの良い場所で、あの毒々しい花と絡み合って生えている。この森は……その理が、根本から歪み始めている」
甘い香りに誘われて近づけば、その花弁が虫を捕らえる食虫植物だったり、美しい鳴き声の鳥かと思えば、その羽には麻痺毒があったりと、自然界における『信頼』のルールそのものが、崩壊しているかのようだった。
アークは、その原因を痛いほど理解していた。
世界樹の衰弱。それは、ただ一本の巨木が枯れるという話ではない。森の生態系全体を支える、巨大な心臓が弱り、世界の法則そのものが、バランスを失い始めているのだ。
そんな、生命の不協和音が満ちる混沌の中、アークの肩の上で、ウルだけが、一点をじっと見つめていた。彼の魂だけが、このノイズの海の中から、か細く、しかし、どこまでも清らかな、エルフの里が奏でる「生命の旋律」を、正確に捉えていた。
#### 意思を持つ霧
一行が、苔むした岩が連なる谷間へと差し掛かった、その時だった。
どこからともなく、乳白色の濃い霧が流れ込んできた。それは、あっという間に周囲の視界を奪い、仲間たちの姿すら霞ませる。
「ただの霧ではない! 魔力を感じる! 全員、警戒しろ!」
ローランの鋭い声が響く。
その言葉を証明するかのように、霧の中から、あり得ないはずの「声」が聞こえ始めた。
「……なぜ、私を見捨てたのだ……」
ローランの耳に、かつて、彼の身代わりとなって死んだ、若き戦友の声が響く。
「……お前さえいなければ、俺は……!」
カエルの脳裏に、彼を蔑み、村から追い出した、父親の顔が浮かぶ。
そして、アルフォンスは、ロックバグとの死闘で、盾を構えながらも、恐怖に足が震えていた、無力な自分自身の幻影を見ていた。
「……弱い。お前は、弱い。弟がいなければ、お前など、何の役にも立たない!」
心の奥底に封じ込めていた、最も聞きたくない言葉。その幻聴に、アルフォンスの呼吸が乱れ、その顔から血の気が引いていく。
(違う…!俺は、強くなったはずだ…!ローラン殿との地獄の訓練を乗り越え、この剣で、アークを守ると誓ったじゃないか…!)だが、心の奥底で囁く声は、冷酷な真実を突きつけてくる。お前の力は、全て弟が与えたものだ。お前自身には、何もない、と。
世界樹の魔力が乱れ、霧散する過程で生まれた『惑わしの霧』。それは、旅人の心の弱さを映し出し、内側から蝕む、意思を持つ罠だった。
#### 森の視点
「兄さん! ローランさん! しっかりして! 全部、幻だ!」
アークの叫び声も、仲間たちの耳には届いていないようだった。
このままでは、精神が持たない。アークは、この絶望的な状況を打破するための、唯一の可能性に賭けた。
彼は、霧の中で、ひときわ巨大な生命力を放つ、千年杉の巨木へと駆け寄ると、そのごつごつとした樹皮に、両手を強く押し当てた。
(お願いだ、森の賢者よ。僕に、あなたの『目』を貸して!)
「**『森との同調』**!」
アークの意識が、まるで水に溶けるインクのように、千年杉の中へと深く、深く沈んでいく。
彼の視界が、暗転する。
そして、次に目を開けた時、彼は、もはやアーク・ライナスではなかった。
彼の意識は、森全体に張り巡らされた、巨大な根と、菌類のネットワークそのものと化していた。
人間の五感という矮小な枷が外れ、森の呼吸、木々の光合成、地中の水脈のうねり、生命が生まれ、そして朽ちていく悠久のサイクルそのものが、彼の魂へと流れ込んでくる。
霧に惑わされる、ちっぽけな人間の視点ではない。この森の、全てを知る、**「森の神」**の視点。
その、圧倒的な情報奔流の中から、アークは、この谷の魔力の流れが、一点だけ、不自然に渦を巻いている場所を発見した。
「……見つけた!」
#### 絆という名の道標
アークは、同調を解くと、まだ幻覚に苦しむ仲間たちの元へと駆け寄った。
彼は、ロープを取り出すと、自分と、仲間たちの体を、固く結びつけた。
「僕から、絶対に離れないで! 僕が、みんなを連れて行く!」
アークは、先ほど森の視点で得た「地図」と、ウルの魂が示す、微かな「光」だけを頼りに、一歩、また一歩と、仲間たちを引っ張っていく。
やがて、一行は、霧の中心、小さな洞窟へとたどり着いた。
その奥で、青白い、不気味な光を放っていたのは、魔力の乱れによって、異常なまでに巨大化した、苔の塊だった。これこそが、この『惑わしの霧』の源泉。
アークは、その苔に、そっと手を触れると、今度は、穏やかな魔力を注ぎ込んだ。
「**『植物育成(小)』**」
乱れた魔力の奔流を、鎮めるように、整えるように。
すると、苔が放っていた妖しい光は、次第に穏やかなものへと変わり、周囲を包んでいた濃霧が、嘘のように、すうっと晴れていった。
「……はっ! 俺は、一体……」
正気に戻ったアルフォンスは、幻覚に動揺していた自分を恥じ、弟の前で、ぐっと唇を噛み締めた。
だが、アークは、そんな兄に向かって、心からの笑顔で言った。
「ありがとう、兄さん。兄さんたちが、幻覚と戦って、耐えてくれたから、僕は安心して、魔法に集中できたんだ。僕一人じゃ、絶対にこの霧は抜けられなかったよ」
その言葉に、アルフォオンは救われた思いだった。ローランは、静かに頷き、内心で感服していた。(……我々は、とんでもない若君に仕えたものだ。ただ力があるだけではない。人の弱さを受け止め、それを力に変える、真の王の器……)カエルもまた、無言ながら、その目に深い信頼の色を宿してアークを見つめていた。
最初の試練を乗り越え、一行の絆は、より強く、本物になった。
彼らは、互いの背中を信じ、再び、まだ誰も見たことのない、森の、さらに奥深くへと、その歩みを進めるのだった。
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