第57話:旅立ちの支度と、陽だまりの約束
#### 神聖なる羅針盤
書斎の空気は、新たな冒険を前にした、静かな熱気に満ちていた。
巨大な地図を前に、ローランが唸る。
「エルフの隠れ里、か。古文書には『月の谷』と記されてはおりますが、その具体的な場所は、数百年以上もの間、誰にも知られておりませぬ。この広大な森を、闇雲に探すのは……」
絶望的なまでの、大海撈針。誰もが言葉を失う中、アークは、膝の上で心配そうにこちらを見上げる、小さな相棒に、優しく語りかけた。
「……ウル。君には、わかるかい? この森の、どこに行けば、君のお母さんと同じ、清浄で、温かい生命の匂いがする場所があるか」
その問いに、ウルは、静かに目を閉じた。すると、彼の全身の毛が、淡い、神聖な光を帯びて、ふわりと逆立つ。書斎の空気が、まるで古の森の奥深くのような、清浄なものへと変わった。
やがて、目を開けたウルの瞳には、星空のような、深遠な光が宿っていた。彼は、地図の上、森の最も深く、最も暗い一点を、その小さな前足で、とん、と叩いた。叩かれた地図のその一点が、まるで水面に落ちた雫のように、緑色の光の波紋を、一瞬だけ広げた。
『あっちの方から、微かに、でも、とても綺麗な、母様と似た匂いがする』
その、魂に直接響く声。
世界樹の分霊であるウルが持つ、生命力を感知する能力。それこそが、この絶望的な探索行における、唯一無二の**「神聖なる羅針盤」**だった。
方針は、決まった。
この、村の未来、いや、世界の未来を賭けた冒険に赴くパーティも、自ずと定まった。
羅針盤となる**アーク**と**ウル**。不動の護衛隊長**アルフォンス**。賢者であり軍師の**ローラン**。そして、森でのサバイバルと斥候を担う、狩人の**カエル**。
少数精鋭。最高のチームが、ここに結成された。
#### 陽だまりの村の総力戦
アークたちの旅立ちが決まると、村は、一つの家族のように動き出した。
それは、領主の命令ではない。自分たちの手で掴んだ平和を、その象徴であるアークと共に守りたいと願う、村人全員の、心からの総力戦だった。
「へっ、任せとけ! てめぇらの命を守る、最高の道具を、この俺が打ってやらぁ!」
ダグの鍛冶場からは、昼夜を問わず、力強い槌の音が響き渡った。アークの魔法が通りやすいように、聖浄樹の枝を芯材に使った特製の盾、フロストウルフの牙を先端に使い、カエルの癖に合わせて重心を調整した、必殺の矢尻。これまでの冒険で得た全ての素材が、最高の技術で、仲間たちを守る武具へと生まれ変わっていく。
「腹が減っては、戦はできないからね! 世界一の冒険には、世界一の携帯食料がなくっちゃ!」
セーラの厨房は、村の女たちの活気で満ち溢れていた。『太陽のリンゴ』とウルが見つけた滋養のハーブを練り込んだ、一つで三日は戦えるという『英雄のレーション』。彼女たちの愛情が、旅の活力を支える、温かいカロリーへと変わっていく。
そして、アーク自身も、その魔法で、仲間たちを支えた。
彼は、ダグが仕上げたばかりの革の背嚢や、防水加工を施したテントの布地に、そっと手を触れる。
「**『植物素材の最適化』**」
彼の魔力が、素材の植物繊維そのものを再構築し、最適化していく。まるで、革の表面に、目に見えない緑色の回路が駆け巡るかのように、淡い光が走り、素材の構造式そのものが、内側から書き換えられていく。背嚢は羽のように軽くなり、テントの布地は絹のようにしなやかで、鋼のように強靭になった。
#### 新たなる約束
出発の朝。
『陽だまりの湯』の前に、村人全員が集まっていた。
パーティの一人ひとりに、村人たちが、手作りの餞別を渡していく。
その輪の中で、フィンが、もじもじしながら、アークの前に進み出た。
彼が、はにかみながら差し出したのは、彼と子供たちが、自分たちの手で漉いた「ライナス和紙」で作った、一枚のお守りだった。
そこには、まだぎこちない、しかし、心のこもった文字で、こう書かれていた。
『――アーク兄ちゃん、ウル。ぶじに、かえってきてね』
「……ありがとう、フィン。最高の、お守りだよ」
アークは、その温かい紙を、大切に懐にしまうと、フィンの肩を、ぽん、と叩いた。
「フィン。僕が帰ってくるまで、この村の、みんなのこと……頼んだぞ」
それは、領主の跡継ぎから、未来のリーダーへの、信頼の言葉。
フィンは、一瞬、息を呑んだ。子供の肩にはあまりに重い、未来という名の信頼。その重圧に、足が震えそうになる。だが、彼は逃げなかった。憧れの兄の、真っ直ぐな瞳。背後で、自分を信じて見守る村人たちの温かい視線。その全てが、彼の恐怖を、誇りへと変えてくれた。
フィンは、涙をぐっと堪え、この村の全てを背負う覚悟を決めて、人生で、最も力強く、こくりと、うなずいた。
仲間たちの、全ての思いを背負って。
一行は、村人たちの温かい声援を背に、未知なる森の奥深くへと、その第一歩を、力強く踏み出した。
それは、世界の真理へと挑む、壮大なる冒険の、静かなる幕開けだった。
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