第51話:盤上の駒、動き出す時
#### 【ザターラ / 銀月商会】
中立都市ザターラの商人ギルドは、不満と諦観の淀んだ空気で満ちていた。
「今月も、ゲルラッハ様の通行税が引き上げられたそうだ」
「もはや商売上がったりだ。あの男の贅沢のために、我々は働いているようなものだ」
「だが、逆らえばどうなるか……見せしめにされた『鉄兜商会』の惨状を忘れたのか」
長年、代官ゲルラッハに搾取され続けてきた商人たちは、出口のない怒りを、ただ酒場で愚痴としてこぼすことしかできなかった。
その、重苦しい空気を切り裂くように、一人の女性が、静かに、しかし、圧倒的な存在感を放ちながらギルドの中央へと歩み出た。
銀月商会当主、ディアナ・シルバー。
彼女の登場に、全ての商人が息を呑み、その視線が一斉に彼女へと注がれる。
「皆様、いつまで、鎖に繋がれたまま肥え太ることを『安定』と呼び、自らの牙が抜かれたことに気づかぬ家畜でいることにお甘んじになるおつもりですの?」
ディアナの、鈴を転がすように美しく、しかし、鋼のように鋭い声が、静まり返ったギルドに響き渡る。
その、あまりにも挑発的な言葉に、商人たちのプライドが根底から揺さぶられる。
「なんだと!」「ディアナ殿、いくらなんでも言い過ぎでは!」
ざわめきが怒号に変わる中、ディアナは動じない。彼女は、ただ、女王のように微笑んだ。
「わたくしは、もうやめにしますわ。ゲルラッハの支配する道を通らずとも、安全に、そして、より早く、富を運ぶ方法を見つけましたので。時代は、変わりますのよ。このディアナ・シルバーが、変えてみせますわ。古い地図に固執する者は、ただ、時代の濁流に飲み込まれていくだけですことよ」
彼女は、全てを語らない。ただ、商人たちの心に、「希望」という名の、抗いがたい毒を、ゆっくりと、しかし、確実に注ぎ込んでいった。
#### 【忘れられた王の道 / ライナス男爵領】
その頃、アークは、もう一つの戦場で、静かに歴史を動かしていた。
兄アルフォンスと『緑の番人』たちを率い、『忘れられた王の道』の本格的な改修工事に着手していたのだ。
「いいかい、みんな。僕らが創るのは、ただの道じゃない。商人たちが、安心して、喜んで使ってくれる、最高の『商業インフラ』だ!」
アークは、古の石畳が続く道の中心に立つと、その両手を、大地に深く突き刺した。
「**『植物成形(大)』**!」
彼の意志に応え、大地が脈動する。道沿いに並ぶ、何百本という木々の根が、まるで巨大な蛇のように蠢き、自らの意志を持つかのように動き始めた。ある根は、道を狭めていた巨大な岩盤を、力強く押し戻し、固定する。またある根は、危険な崖の縁に、自然の造形とは思えぬほど精巧で、頑丈な「手すり」を編み上げていく。
「す、すげぇ……」
同行していた番人の若者が、その神の御業に、ただ呆然と立ち尽くす。
「驚いている暇があったら、手を動かせ!」
兄アルフォンスが、その背中を力強く叩く。彼の指揮の下、番人たちは、アークが創り出した安全な道の上で、浮石を取り除き、障害物を撤去していく。
そして、アークは、仕上げに取り掛かった。
彼は、特殊な性質を持つ苔の種を道全体に蒔くと、その上に、再び魔力を注ぎ込む。
「**『植物育成(大)』**!」
緑色の光の波が、道全体を駆け抜ける。苔は、爆発的な速度で繁殖し、石畳の僅かな凹凸を、完璧に埋め尽くしていった。そこに出現したのは、馬車の振動を優しく吸収する、緑色のビロードのような、奇跡の**『苔のハイウェイ』**だった。
さらに、アークは道の要所要所に、新たに『種子合成』で生み出した**『宿場樹』**の苗を植えていく。それは、幹に清浄な水を蓄え、枝には馬の飼料となる栄養価の高い実を無数につける、まさに「生きたサービスエリア」。夜になれば、その樹皮に共生させた『月光苔』が、旅人たちの道を、優しく照らし出すだろう。
アークが、たった一人で、ほんの数日で成し遂げたこと。それは、一国の王が、数万の民と数十年をかけても成し遂げられるかどうかという、国家レベルのインフラ革命であった。
彼が創り出したのは、道ではない。
それは、生命そのものが旅人を歓迎し、もてなす、有機的な**『経済回廊』**だった。
#### 【ザターラ / 商人ギルド】
数日後。ディアナは、再び商人ギルドに姿を現した。
彼女は、葛藤する商人たちに、最後の一枚のカードを切る。
「『忘れられた王の道』の初回の通行権、そして、かのライナス男爵領でしか獲れないという、あの『奇跡のポーション』と、未知なる調味料の優先購入権。これらをセットにして、最初に、わたくしの手を取ってくださる、勇気あるお一方にのみ、破格の条件でご提供いたしますわ」
商人たちが、ごくりと喉を鳴らす。
ゲルラッハへの恐怖と、目の前にぶら下げられた、抗いがたいほどの莫大な利益。その天秤が、彼らの心の中で、激しく揺れ動く。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、このギルドで、最も古株で、最も慎重派として知られる、白髭の長老商人、バルドだった。
彼は、目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、ゲルラッハの傲慢な顔ではない。若い頃、夢と野心だけで荷馬車を引いていた、己の誇り高き姿だった。(……いつからだ。わしは、挑戦者ではなく、ただ飼いならされるだけの家畜に成り下がったのは)。彼は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、老獪な商人の計算ではなく、失われた誇りを取り戻そうとする、若き日の闘志の光が、再び宿っていた。
「……ディアナ嬢。いや、ディアナ殿。この老いぼれも、時代の変わり目くらいは、見誤りとうない。その話、このバルド、乗らせていただこう」
その一言が、堰を切った。
ギルドで最も信頼の厚い重鎮の決断を皮切りに、「我も!」「私も!」と、商人たちが、雪崩を打ってディアナの元へと殺到した。
盤上の駒は、全て、彼女の筋書き通りに動き出した。
彼女は、自らの執務室に戻ると、窓から、ゲルラッハがいるであろう、北の空を静かに見つめた。彼女の脳裏には、もはや金貨の計算などなかった。ただ、これから始まる最高のゲームを前に、チェスプレイヤーが、完璧な『詰み』の一手を見つけた時のような、背筋が粟立つほどの、純粋な歓喜だけがあった。
その美しい唇が、獰猛な三日月の形に、ゆっくりと歪んでいく。
「さあ、第一楽章の始まりですわ、代官様。あなたのための、鎮魂歌のね」
経済という名の、静かなる戦争の火蓋は、今、確かに切られたのだった。
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