第48話:銀月の女当主と、沈黙の鑑定
#### 蜘蛛の糸
闘技場の熱狂が嘘のように静まり返った、宿屋の一室。
アルフォンスは、未だ興奮冷めやらぬといった様子で、ローランと祝杯を交わしていた。
「見たか、アーク! ローラン殿のあの剣捌き! まるで、若返ったみたいだった!」
「はっはっは。アルフォンス殿にそう言っていただけるとは、この老いぼれも、まだ捨てたものではありませぬな」
その傍らで、アークは一人、窓の外に広がるザターラの夜景を静かに見つめていた。その瞳には、勝利の喜びよりも、次の盤面を読むチェスプレイヤーのような、冷静な光が宿っている。
(餌は、撒いた。あとは、一番賢くて、一番腹を空かせた魚が、この餌に食いついてくるのを待つだけだ)
コン、コン。
控えめだが、有無を言わさぬ響きを持ったノックの音が、部屋の扉を叩いた。
ローランが扉を開けると、そこに立っていたのは、銀色の刺繍が施された、上質な仕立ての制服をまとった、一人の青年だった。その佇まいは、ただの使い走りではない、高度な教育を受けた者のそれだった。
「――ローラン殿、そして、アーク様でいらっしゃいますね」
青年は、完璧な礼をすると、アークに向き直り、一枚の封蝋された招待状を、恭しく差し出した。
「我が主、『銀月商会』当主、ディアナ・シルバーが、皆様を晩餐にお招きしたい、と。馬車を、表にご用意しております」
その、あまりにも迅速で、あまりにも的を射た誘いに、アルフォンスは息を呑んだ。だが、アークは、全てを予期していたかのように、静かにうなずいた。
「……お誘い、感謝します。すぐ、準備をしましょう」
#### 銀月の城
銀月商会の本店は、ザターラの商業地区の中心に、まるで女王のように鎮座していた。
悪趣味な金や宝石で飾り立てられた他の商会とは一線を画す、白亜の石と、磨き上げられた銀の装飾で統一された、洗練された建築物。それは、この城の主の、揺るぎない美意識と、絶対的な自信を物語っていた。
アーク、アルフォンス、ローランの三人が通されたのは、最上階にある、広大な応接室だった。
床には、北方の国でしか獲れないという、純白の毛皮の絨毯。壁には、歴史的な価値を持つであろう、古の絵画。そして、窓の外には、ザターラの夜景が、宝石箱のように広がっている。
その、圧倒的なまでの富と権力の象徴を前に、アルフォンスは、無意識のうちに、ゴクリと喉を鳴らした。
「ようこそ、ライナス男爵家の皆様。わたくしが、ディアナ・シルバーですわ」
部屋の奥の、柔らかな長椅子から、一人の女性が、ゆっくりと立ち上がった。
亜麻色の髪を、うなじで緩やかにまとめ、月光を思わせる、銀色の瞳を持つ、若く、そして、あまりにも美しい女性。
だが、その外見とは裏腹に、彼女が放つ空気は、百戦錬磨の商人だけが持つ、鋭く、そして、相手の全てを見透かすかのような、侮れないものだった。
#### 交渉の盤上
挨拶もそこそこに、ディアナは、単刀直入に本題を切り出した。
「まずは、ローラン殿。本日の闘技場でのご活躍、実に見事でしたわ。まるで、20年は若返ったかのような、神業の剣技でした」
そして、その銀色の瞳が、アークを、まっすぐに射抜く。
「――そして、その奇跡を起こしたのが、あなたがローラン殿に渡した、あの安物の葡萄酒の瓶。そうではございませんこと、アーク様?」
「……ご明察の通りです、ディアナ様」
アークは、もはや子供のふりをしなかった。彼は、一人の交渉相手として、堂々と彼女と対峙する。
「わたくしども銀月商会は、あの『若返りの霊薬』の、この大陸における独占販売権を、希望いたします」
ディアナは、優雅に微笑みながら、一枚の羊皮紙をテーブルの上に滑らせた。そこに書かれた金額は、アークの父が、一生かけても稼ぐことのできないであろう、天文学的な数字だった。
「まずは、手付金として、これだけお支払いいたしましょう。辺境の男爵家にとっては、悪いお話ではないはずですわ」
アルフォンスが、その金額に、息を呑む。
だが、アークは、その羊皮紙に一瞥もくれることなく、静かに首を横に振った。
「ディアナ様。大変、魅力的なお話です。ですが、僕らが、命がけで山を越えてきたのは、ただ、目先の金貨のためではありません」
そして、彼は、この交渉の、本当の切り札を、テーブルの上に置いた。
「僕らが、あなたに提供できるのは、あのポーションだけではありません。例えば……この世界の、全ての料理の歴史を、根底から塗り替える、『黒い水の宝石』と、『大地の黄金』。そんなものが、もし、この世に存在するとしたら……あなたは、それに、どれほどの値をつけますか?」
アークの、あまりにも思わせぶりな言葉に、ディアナの銀色の瞳が、キラリと、興味の光を宿した。
彼女は、アークという少年が、単なる田舎の貴族の子供ではないことを、確信した。彼は、自らが持つ「価値」を、完璧に理解し、それを、最大の武器として交渉の場に臨んでいる。
「……面白いことを、おっしゃるのね」
ディアナは、楽しげに、くすりと笑った。
「ですが、アーク様。言葉だけでは、信じることはできませんわ。わたくしに、あなたの言葉が真実であるという、証明を、見せていただけますかしら?」
彼女は、そう言うと、部屋の隅に置かれていた、一つの鉢植えを指し示した。
それは、南方の国から取り寄せたという、極めて高価で、希少な盆栽だった。だが、ザターラの気候が合わなかったのか、その枝は力なく垂れ下がり、葉は、ほとんどが茶色く変色して、枯死寸前の状態だった。
「この子を、救うことができますか? もし、できるというのなら、わたくしは、あなたの言葉を、信じましょう」
それは、この交渉の行方を決める、最後の試練だった。
#### 沈黙の鑑定
アークは、静かに立ち上がると、その枯れかけた盆栽の前に、膝をついた。
彼は、詠唱もしない。ただ、その、乾いた幹に、そっと、右手を触れただけだった。
アークの瞳が、深く、深く、緑色に輝く。
『**植物鑑定**』。
彼の脳内に、この盆栽が持つ、全ての情報が、膨大なデータとなって、流れ込んでくる。
「……この子は、樹齢、およそ150年」
アークは、目を閉じたまま、語り始めた。その声は、もはや少年のものではなく、まるで、樹木そのものが、数百年の記憶を静かに語り聞かせるかのような、不思議な深みを帯びていた。
「故郷を離れた、寂しさで、一度、大きな病気をした。でも、前の持ち主の人が、必死に看病してくれて、なんとか持ち直した。……土の中の、水の流れが悪い。根が、息苦しそうに、助けを求めてる。それに、この土地の光は、この子にとっては、少しだけ、強すぎるみたいだ。肌が、ヒリヒリするって、泣いてる」
その言葉に、ディアナの顔から、笑みが消えた。
アークが語る内容は、この盆栽を育ててきた、彼女自身しか知り得ない、あまりにも個人的で、あまりにも正確な「カルテ」そのものだったからだ。
「――そして、何より」
アークは、ゆっくりと目を開けた。その深緑の瞳には、まるで植物の感情に共感しすぎたかのような、深い慈愛と、ほんの少しの哀しみが宿っていた。
「この子は、寂しがってる。あなたが、最近、忙しくて、あまり、この子のことを見てあげられていないから」
その、最後の言葉が、ディアナの、商人の仮面を、完全に打ち砕いた。
彼女は、息を呑み、言葉を失う。
アークは、静かに立ち上がると、今度は、両手で、その盆栽を、優しく包み込んだ。
「**『植物育成(中)』**」
彼の両手から、穏やかで、温かい新緑の光が、溢れ出す。
それは、ただ魔力を注ぎ込むだけの、乱暴な魔法ではない。先ほどの『鑑定』で得た情報に基づき、根に必要な水分を、葉に必要な養分を、そして、その心に必要な「励まし」を、完璧なバランスで与える、生命そのものへの、外科手術だった。
みるみるうちに、奇跡が起こる。
茶色く枯れていた葉が、その先端から、鮮やかな緑色を取り戻していく。力なく垂れ下がり、茶色く変色していた枝が、天に向かって、力強く伸びていく。そして、固く閉ざされていた蕾が、ゆっくりと、しかし、確かに綻び始め、美しい、小さな白い花を、一輪、また一輪と、咲かせていった。
ほんの数十秒で、枯死寸前だった盆栽は、その生涯で、最も美しく、最も生命力に満ち溢れた姿へと、完全に生まれ変わっていた。
ディアナ・シルバーは、その、あまりにも神々しい光景を前に、完全に、言葉を失っていた。
彼女は、戦慄していた。目の前の少年が持つ力は、金儲けの道具などという、矮小なものではない。これは、無から有を、死から生を創り出す、神の領域の力そのものだ、と。商人としての血が、最高の「投資先」を見つけたと歓喜の悲鳴を上げる。だが同時に、一人の人間としての魂が、歴史の転換点という、金では買えぬ「未知」を前にして、歓喜に打ち震えていた。
やがて、彼女は、我に返ると、ゆっくりと、アークの前に進み出た。
「……アーク様。わたくしの、負けですわ」
彼女は、これまでの商人の顔ではない、一人の人間としての、心からの敬意を込めて、深く、深く、その頭を下げた。
「どうか、わたくしに、そして、この銀月商会の全てに、あなたの本当のお話……あなたが、その力で、この世界に何を創り出そうとなさっているのかを、お聞かせ願えませんでしょうか」
彼女は、アークを、自らの執務室へと、案内した。
それは、辺境の少年と、中立都市の若き女傑が、単なる取引相手ではなく、世界の未来を共に動かす、真の「パートナー」となった、その歴史的な瞬間だった。
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