第34話(幕間):兄の剣、守るべき背中
アルフォンス・ライナスは、最近、焦っていた。
原因は、たった一つ。
彼の、五歳(もうすぐ六歳になるが)の、最愛の弟、アーク・ライナスだった。
その日も、アルフォンスは、一人、屋敷の訓練場で木剣を振っていた。
「フッ、フッ……!」
彼の世界に響くのは、己の荒い息遣いと、木剣が空を切る、孤独な風切り音だけ。
一方、彼が目を向けた先のアークの世界は、村人たちの感謝と笑い声、ダグと語り合う槌の音、父やローランとの真剣な議論の声といった、**温かく、活気に満ちた「世界の音」**に満ちている。
その音の対比が、アルフォンスが感じている心理的な「孤独」と「疎外感」を、より一層、切なく、そしてリアルなものにしていた。
(アークは、すごい。僕の、自慢の弟だ。だが、僕は……?)
フロストウルフが森に現れた時も、代官の私兵が村に来た時も、自分は何もできなかった。ただ、アークの知恵と魔法に守られるだけだった。兄として、嫡男として、これ以上の屈辱があるだろうか。
訓練を終えたアルフォンスが、村の中を歩く。
彼の目に、アークが創り出した「平和」の光景が映った。元気に笑いながら駆け回る子供たち。『陽だまりの湯』から聞こえてくる、老人たちの楽しげな声。そして、家の食卓で、心配することなく、息子の帰りを待つ、全快した母の笑顔。
その、あまりにも尊い光景を前に、アルフォンスは、自らの成すべきことを見出した。
彼は、血が染む木剣を、そっと地面に置いた。そして、天を仰ぎ、誰に言うでもなく、静かに、しかし、決して砕けない意志を込めて、誓った。
(アークが、未来を「創る」天才なら、俺は、その未来を、あらゆる暴力から「守る」、最強の剣になる!)
その日の夕刻。
アルフォンスは、ローランの元を訪れ、その前に、騎士が王に誓うように、深く膝をついた。
「ローラン殿! どうか、俺を、本当の意味で鍛え直してください!」
「……ほう」
「この村を、俺の家族を、そして、俺の弟が創る未来を、命を賭して守り抜くための、本物の**『戦う力』**が欲しいのです!」
ローランは、その真っ直ぐな瞳を、静かに、しかし、厳しく見つめ返した。
そして、彼の覚悟を試す、最後の問いを投げかけた。
「アルフォンス殿。真の戦場に立つということは、その手に、人の命の重みを背負うということ。時には、非情な決断を下し、その手を汚す覚悟も必要になる。平和の中で育った貴方に、その修羅の道を歩む覚悟が、本当にあるのか?」
その問いに、アルフォンスは、一瞬たりとも、迷わなかった。
「あります!」
その、曇りなき即答を聞き、ローランの脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。
ローランは、目の前の少年の瞳に、かつての主君の面影を見ていた。国を守るため、民を守るため、自らの全てを捧げることを厭わない、真の王族だけが持つ、「公」の光。
そして、自分が生涯をかけて仕えたいと願った、本物の「戦士」の光だった。
「よかろう。だが、覚悟せよ。我が訓練は、生半可な覚悟では、地獄の方が生ぬるいと感じるほどぞ」
「望むところです、師匠!」
その日から、アルフォンスの、本当の戦いが始まった。
泥にまみれ、息も絶え絶えになりながら、ローランとの、地獄のような訓練を繰り返す日々。
かつての、貴族の子息らしい滑らかだった彼の手のひらは、今や、いくつも豆が潰れ、血が滲んだ、若き戦士の手に変わり果てていた。全身を、経験したことのない激痛が襲う。
だが、その顔には、苦痛ではなく、自らの居場所を見つけた、至上の喜悦の笑みが浮かんでいた。
未来を「設計」する弟。
その未来を「守護」する兄。
辺境の未来を支える、ライナス男爵家の二本の柱は、今、それぞれの場所で、天に向かって、力強く伸び始めた。
***
最後までお読みいただき、ありがとうございます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、フォローをいただけますと、執筆の励みになります。




