第2話:最初の設計図と、温もりの奇跡
あの日から、アークの生活は一変した。
昼間は五歳の子供として、兄と共に剣の素振りをしたり(全く才能はなかったが)、父の仕事を手伝ったりして過ごす。
そして夜、家族が寝静まる頃、アークだけの秘密の時間が始まるのだ。
「ふぅ……っ、く……!」
ベッドの上で、アークは小さな木の欠片に右手をかざしていた。
毎晩欠かさず続けている『魔力筋トレ』だ。
体内の魔力を、最後の一滴まで絞り出す。脳が痺れるほどの疲労感に襲われ、意識が途切れる寸前で手を止める。そして、深い眠りの中で魔力が回復するのを待つ。
地味で、苦しいだけの鍛錬。
だが、その成果は確実に現れていた。
最初の頃は、木の欠片をわずかに震わせるだけで魔力切れを起こしていたのが、数ヶ月も経つと、手のひらの上でゆっくりと回転させられるようになった。さらに、木の表面を少しだけ滑らかにしたり、角を丸くしたりといった、ごく簡単な『植物成形(小)』の真似事までできるようになったのだ。
最大魔力量が増え、魔力の操作も少しずつ上達している。
その手応えが、アークの心を支えていた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
秋が深まり、朝晩の空気が肌を刺すようになってきたある夜。
隣の部屋から、母のか細い咳が聞こえてきた。
父が心配そうに声をかけ、母が「大丈夫よ」と気丈に答える声が続く。
そのやり取りに、アークはぎゅっと唇を噛みしめた。
母の体調は、寒くなるにつれて悪化している。
このまま本格的な冬を迎えれば、どうなってしまうのか。薬草を見つけるにしても、まずは母の体力をこれ以上消耗させない環境が必要だった。
(……この家は、寒すぎるんだ)
前世の設計士としての知識が、問題点を明確に弾き出す。
石と木で造られたこの家は、一見すると頑丈そうに見える。だが、その実態は隙間だらけの欠陥住宅だった。壁板の継ぎ目、窓枠の歪み。そこから容赦なく冷気が入り込み、室内の暖かい空気を奪っていく。
これでは、病人の療養環境としては最悪だ。
(断熱……。そうだ、まずは母さんの部屋の断熱改修からだ)
やるべきことが決まった。
問題は、どうやってそれを実行するかだ。
五歳の子供が、突然「家の修理をする」と言い出しても、誰も本気にはしないだろう。
「……父さん、お願いがあります」
翌日の朝食後、アークは意を決して父に声をかけた。
父は怪訝な顔をしながらも、屈んでアークと視線を合わせてくれる。
「なんだ、アーク」
「母さんの部屋の壁、僕に修理させてください。木の魔法で、隙間を埋められるかもしれない」
父の目が、わずかに見開かれた。
隣で聞いていた兄のアルフォンスが、ぷっと吹き出す。
「お前、何言ってんだよ。お前の魔法って、木の欠片を震わせるくらいだろ? 壁の修理なんてできるわけないじゃないか」
「アル!」
父が低い声で兄を制する。
父はアークの深緑の瞳をじっと見つめ、その奥にある真剣な光を探るようだった。
辺境では、戦闘能力こそが力の証。
父も元は名の知れた騎士であり、その価値観は骨の髄まで染み付いているはずだ。だから、アークの「ハズレ魔法」に期待などしていないだろうと思っていた。
だが、父の口から出たのは、意外な言葉だった。
「……好きにしてみろ。ただし、部屋を壊すようなことだけはするなよ」
「父さん!?」
驚く兄を尻目に、父はアークの頭を無骨な手で一度だけポンと叩き、仕事のために部屋を出て行った。
残されたアークは、熱くなる胸を必死に押さえた。
辺境では「役立たず」とされるこの力で、初めて誰かに真っ直ぐに信じてもらえた。それが、他の誰でもない、強くて尊敬する父だったことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。
その日の午後。
アークは、母の部屋で一人、壁と向き合っていた。
母は体調が良かったため、ギデオンと一緒に村のセーラの元へ、先日採れた木の実を届けに行っている。絶好のチャンスだった。
「よし……やるぞ」
壁板の継ぎ目にそっと手を触れる。
頭の中に、明確な『設計図』を思い描いた。
木の繊維が、生き物のように絡み合い、膨張し、隙間を完全に塞いでいくイメージ。
(いける……!)
体内の魔力を、ゆっくりと、丁寧に右手へと注ぎ込む。
手から溢れ出した穏やかな新緑の光が、壁板へと吸い込まれていった。
ミシミシ……ミシッ……!
まるで家が息をしているかのような、有機的な音が響く。
アークの手が触れた部分から、まるで生命が吹き込まれたかのように、乾いた木材の表面に艶が戻っていく。古い木の繊維がみるみるうちに潤い、有機的に絡み合い、まるで元から一つの木であったかのように、ミリ単位の隙間を完璧に塞いでいった。
「はぁ……はぁ……っ」
魔力の消費が、想像以上に激しい。
今まで木の欠片を相手にしていたのとは、規模が違う。
それでも、アークは集中を切らさなかった。前世で、何百枚、何千枚と設計図を引いてきた集中力が、五歳の身体に宿っていた。
壁一面の隙間を塞ぎ終える頃には、アークは立っているのもやっとの状態だった。
だが、休むわけにはいかない。最大の難関である、窓枠が残っている。
ガタガタと音を立てる木製の窓枠。
ここから入り込む冷気は、壁の比ではない。
「……やるしかない」
ふらつく足で窓際に寄り、同じように手を触れる。
今度は、より精密なイメージが必要だった。
歪んだ窓枠を、閉めた時に寸分の狂いもなく噛み合うように『成形』する。
新緑の光が、再びアークの手から放たれる。
ギチギチ、と木が軋む音が、先ほどよりも大きく響いた。
歪んだ木材が、ゆっくりと、だが確実に正しい位置へと矯正されていく。
「……できた……」
全ての魔力を使い果たし、その場にへたり込んだアークの額からは、玉のような汗が流れ落ちていた。
けれど、彼の顔には達成感に満ちた笑みが浮かんでいた。
部屋を見渡すと、見た目はほとんど変わらない。
だが、室内の空気は明らかに違っていた。今まで常に感じていた、肌を撫でるような隙間風が、完全に消え失せている。
「ただいま戻りました……あら?」
そこに、母が帰ってきた。
部屋に入るなり、彼女は不思議そうにきょろきょろと辺りを見回す。
その後ろから入ってきたギデオンも、驚いたように目を見開いた。
「まあ……アーク、あなたが……? ……本当に、風が……隙間風が止んでいるわ……。ああ、なんて暖かいのかしら」
母はアークのそばに駆け寄り、その小さな体を優しく抱きしめた。
「ありがとう、私の可愛い魔法使いさん」
母の震える声と、抱きしめる腕の力から、喜びが痛いほど伝わってくる。
ギデオンもまた、皺くちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして、涙ぐんでいた。
夜、仕事から帰ってきた父と兄も、変わり果てた部屋の暖かさに絶句していた。
兄は「お前の魔法、こんなこともできたのかよ……」と尊敬の眼差しを向け、父は何も言わなかったが、アークの頭をいつもより少しだけ長く、優しく撫でてくれた。
その夜、隣の部屋から聞こえてくる母の寝息は、驚くほど穏やかだった。
咳き込む声は、一度も聞こえてこない。
自分の力が、確かに家族を救う一歩になった。
その事実が、アークの心に何よりも温かい火を灯した。
(次は、『食』だ)
穏やかな母の寝息を聞きながら、アークはベッドの中で、次の計画に思いを馳せる。
この痩せた土地でも、冬の間も、皆が腹いっぱい食べられる美味しいものを。
前世の知識と、この木魔法があれば、それも決して夢ではないはずだ。
アークの最初の奇跡は、誰にも気づかれないほど静かに、しかし確かに、この貧しい男爵家に温もりをもたらしたのだった。
***
最後までお読みいただき、ありがとうございます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、フォローをいただけますと、執筆の励みになります。




