第17話:母に捧げる奇跡と、新たな約束
夕日に染まる村の入り口で、アークが差し出した小さなガラス瓶。
その中で瑠璃色に輝く雫は、この場に集った者たちにとって、あまりにも重い意味を持っていた。
「……よく、戻った」
父はそれだけ言うと、アークの肩を一度だけ強く掴んだ。その無骨な手から、言葉にならない万感の思いが伝わってくる。
屋敷へと戻る道すがら、アークは兄に、そして父に、小さな相棒「ウル」を紹介した。ローランが静かに頷いてその言葉を肯定すると、父は何も言わず、ただその存在を認めた。
屋敷の広間。ローランは領主である友人に、元騎士として簡潔に、しかし真実を報告した。
「ライナス卿。あなたのご子息、アーク様は、我々の想像を遥かに超える知恵と、そして、自然の理すら捻じ曲げる、不可思議な力をお持ちです。あの方はもはや、ただの子供ではございません」
ローランの重い言葉が、広間に響き渡る。
父は何も答えなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じ、友の言葉が持つ、あまりにも重い意味を、噛み締めるように受け止めていた。再び目が開かれた時、彼のアークを見る眼差しは、もはや単に息子を見るそれとは、どこか違っていた。
母の寝室には、静かで、穏やかな空気が流れていた。
ベッドの周りには、父と、アルフォンス、そしてアークが立っている。ギデオンは、部屋の隅で、まるで祈るかのように固唾を飲んで成り行きを見守っていた。
この瞬間のために、全てがあった。
アークは、ゆっくりと母の枕元に膝をつくと、懐から大切に守り抜いてきたガラス瓶を取り出した。
コルクの栓を抜くと、洞窟の聖域で感じた、清浄で、生命力に満ちた香りがふわりと広がった。それだけで、長年この部屋に染み付いていた薬草の匂いや、病の淀んだ空気が、洗い流されていくようだった。
父が、眠る妻の頭をそっと持ち上げて支える。
アークは、震える指でガラス瓶を傾け、瑠璃色に輝く雫を、一滴だけ、母の乾いた唇へと落とした。
雫が、母の唇に触れた、瞬間。
奇跡は、静かに、しかし、確かに始まった。
瑠璃色の雫は、淡い光となって母の全身へと広がっていく。それは、どこまでも穏やかで、自然な生命力の回帰。母の呼吸が、深く、安らかな寝息へと変わっていく。肌に温かい健康な色が満ちていき、眉間の苦悶のしわが、ゆっくりと解けていく。
その光景を、誰もが息をすることも忘れ、見つめていた。
父は、何年ぶりかに見る、妻の本当に安らかな寝顔に、一筋の涙を静かに伝わせた。兄のアルフォンスは、声を殺して泣いていた。ギデオンも、その肩を震わせている。
アークは、その光景を、目に焼き付けていた。
(……よかった)
心の底から、そう思った。この瞬間のために、自分は、この世界に再び生を受けたのだ、と。
どれほどの時間が経っただろうか。
ベッドの上で、母の睫毛が、ぴくりと震えた。
ゆっくりと、その瞼が開かれていく。
「…………あなた……? アル……? それに、アーク……?」
その声は、アークがずっと聞いてきた、か細く、掠れた声ではなかった。凛とした、どこまでも澄んだ、美しい声だった。
「まあ……。私の声……」
母は、不思議そうに自分の喉に手を当てた。長年、自分の体を縛り付けていた、薄氷のような膜が、跡形もなく消え去っている。呼吸をするたびに感じていた胸の重みがない。体が、まるで羽のように軽い。
「なんて、軽いのかしら……」
「母さん!」
アルフォンスが、泣きじゃくりながら母に抱きつく。父も、ベッドのそばに膝をつき、妻の手を、震える両手で固く、固く握りしめた。
母は、枕元にいる、一番小さな息子の姿を、愛おしそうに見つめた。
「……アーク。あなたが、また……助けてくれたのね。ありがとう、私の、勇敢な小さな魔法使いさん」
母の温かい手が、アークの頬を優しく撫でる。
その時、アークの足元で、今まで気配を消していたウルが、おずおずとベッドに近づいてきた。
病から解放され、生命力に満ちた母には、ウルの放つ、清浄で、聖なる気配が、はっきりと感じ取れたのだ。
彼女は、ウルに向かって、そっと手を差し伸べた。
「あなたが、この子を守ってくれたのね。ありがとう。私の息子を、守ってくれて」
ウルは、信頼しきった様子で、その手に自分の小さな頭をすり寄せた。家族の輪の中に、新しい、もふもふの仲間が、確かに受け入れられた瞬間だった。
その夜。
アークは、久しぶりに家族全員で囲む、温かい食卓を心から楽しんでいた。
だが、長い冒険と、魔力の枯渇で、彼の小さな身体は限界だった。彼は、母の隣で、心地よい眠りに落ちていった。
夢と現の狭間で、アークは、誰かに袖を優しく引かれるのを感じた。
そっと目を開けると、心配そうに自分を覗き込む、ウルの漆黒の瞳があった。
ウルは、アークが目を覚ましたのを見ると、一度、安堵したように「きゅぅ」と鳴いた。
そして、その小さな前足で、アークの袖を、きゅっと掴んだ。そして、窓の外の、月明かりに照らされた、どこまでも続く深い森の闇を見つめ、どこか悲しげに、寂しげに、こう鳴いた。
「…………きゅぅん……」
言葉は、ない。
だが、アークには、その明確な「お願い」が、痛いほど伝わってきた。
(僕の、お母さんは、助かったけど)
(森の、母様は、まだ、ずっと、苦しんでいるの)
母を救うという、アークの個人的な冒険は、終わった。
だが、その先にある、本当の使命。
瀕死の世界樹を救い、この辺境の森すべてを、死の瘴気から解放するという、あまりにも壮大な物語の扉を、今、ウルの小さな手が、確かに開いたのだった。
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