第16話:夜明けの誓いと、奇跡の雫
意識が、冷たい闇の底からゆっくりと浮上してくる。
最初に感じたのは、自分の頬を、ぺろぺろ、と優しく舐める、小さく湿った舌の感触だった。
うっすらと目を開けると、視界いっぱいに、心配そうな漆黒の瞳が映った。子熊の妖精――ウルが、アークの顔を覆いかぶさるようにして、必死に覗き込んでいたのだ。アークが意識を取り戻したことに気づくと、その瞳にぱっと喜びの光が灯り、「きゅぅーん!」と安堵と歓喜が入り混じった、甘えるような鳴き声を上げた。
「……ウル」
掠れた声でその名を呼ぶと、ウルはアークの首筋に顔を擦り付け、その温もりを確かめるように何度も「きゅぅ、きゅぅ」と鳴いた。
アークがゆっくりと体を起こそうとすると、全身を凄まじい虚脱感が襲う。魔力を根こそぎ使い果たした後の、魂が空っぽになったかのような、深い疲労。
洞窟の中を見渡す。入り口では、ローランが自分の腕に慣れた手つきで包帯を巻き直しながら、外への警戒を続けていた。
「ぐぅ……」
不意に、アークの腹が情けない音を立てた。
それに気づいたウルは、ぱっと顔を上げると、洞窟の隅へとちょこちょこと走っていった。そして、口いっぱいに瑞々しい赤色の木の実を咥えて戻ってくると、アークの手にそれを押し付けるように置いた。
アークが恐る恐る一つ口に含むと、蜜のような甘さと、森の恵みそのもののような爽やかな酸味が口いっぱいに広がった。そして、ただ美味しいだけではない。その果汁が、空っぽだった魔力槽を、じんわりと癒やし、満たしていくのを感じた。
ウルは、ただの食料ではなく、魔力回復の効果を持つ特別な木の実を、本能で見つけ出してきたのだ。
「目が覚めたか。丸一日、眠っていたぞ」
ローランが、アークのそばに膝をついた。
「……よく、生きていてくれた」
普段の彼からは想像もつかないほど、素直な安堵の言葉。その声が、昨夜の戦いの激しさを物語っていた。
ローランは、現状を簡潔に報告した。約束の期限は、今日の夕暮れまで。急いで帰還しなければ、父が捜索隊を組織してしまう。
アークは、討ち取られたフロストウルフの死骸に目を向けた。その瞳が、きらりと輝く。
「ローランさん、すごいよ、これ!」
アークは、まるで宝の山を見つけた探検家のように、次々とその価値を分析していく。
「この毛皮! 最高の防寒具で、最高の断熱材だよ!」
「この牙と爪! ダグさんに見せたら、きっと飛び上がって喜ぶよ!」
そして、アークはフロストウルフの体内に残された、淡い青色に輝く石を見つけ出した。
「魔石だ。冷気の魔石。これがあれば、夏でも食料を保存できる『氷の箱』が作れる……!」
その瞬間、アークの脳裏に、一つの未来予想図が稲妻のように閃いた。
食料の長期保存。それは、この村を永遠に飢餓の恐怖から解放することを意味する。それは、アークイモの安定供給と並ぶ、村の存続を賭けた最重要課題への、完璧な解答だった。
ローランは、魔物の死骸を前に臆することもなく、村の未来図を描く五歳の少年の姿に、畏怖すら覚えていた。
「……お前さんの頭の中は、本当にどうなっているんだ」
時間がない中、ローランが手際よく三体分の素材を剥ぎ取る。ウルも、鼻をクンクンさせて、質の良い部分をアークに教えるなど、手伝いをした。
全ての準備を終え、一行はついに帰路についた。ウルが、森の安全なルートを先導してくれるおかげで、帰路は驚くほどスムーズに進んだ。
そして、太陽が西の山稜に沈み、空が茜色に染まる頃。
約束の期限、ギリギリに。
三人は、見慣れた村のはずれへと、たどり着いた。
村の入り口には、父と、兄のアルフォンス、そしてフィンを始めとした村人たちが、固唾を飲んで森の入り口を見つめていた。捜索隊が出発する、まさにその寸前だったのだ。
傷だらけのローランと、疲れ切ったアーク、そしてその足元に寄り添う不思議な生き物。
その三人の姿を認めた瞬間、フィンが「アーク!」と叫びながら、真っ先に駆け寄ってきた。
父は、アークの頭からつま先までを厳しい目で見つめ、その無事を確かめると、張り詰めていた肩の力が、ほんの僅かに、しかし確かに抜けるのがわかった。彼は一度、ぐっと喉を鳴らして何かを堪えると、感情を押し殺した声で言った。
「……約束は、守ったな」
だが、その声は、微かに震えていた。
アークは、父の前に一歩進み出た。
そして、懐から、小さなガラス瓶を、震える手で取り出す。
「父さん。……ただいま」
ガラス瓶の中で、数滴の瑠璃色の液体が、沈みゆく夕日の最後の光を浴びて、まるで生きているかのように、神秘的な輝きを放っていた。
『月雫草の雫』。
父にとって、それは過去の雪辱であり。
兄にとって、それは弟の誇りであり。
仲間たちにとって、それは信じて待った祈りの答え。
そしてアークにとって、それは、母を救う唯一の希望だった。
任務達成を告げる瑠璃色の輝きに、その場にいた誰もが、息を呑んだ。
絶望的な試練を乗り越え、少年は、確かに奇跡をその手に掴んで、帰ってきたのだ。
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