第159話:陽光の帰還と、ただいま僕の陽だまり
#### 魂の帰還
静寂。
兄の誇り、仲間たちの誓い、そして世界中で芽吹き始めた新しい物語の温もり。その全てが、彼の魂を現実という名の岸辺へと、優しく、優しく導いていく。
最後に聞こえたのは、最も懐しく、最も信頼する相棒の、喜びと安堵に満ちた「きゅぅん」という魂の鳴き声。それが、最後の扉を開く、温かい鍵となった。
アークは、ゆっくりと、その重い瞼を開いた。
最初に映ったのは、ぼんやりと霞む、見慣れた自室の木目の天井。次に、心配そうに、そして、これ以上ないほどの愛情を込めて自分を覗き込む、兄アルフォンスの、涙に濡れた顔。その足元で、喜びのあまり全身の毛を逆立たせ、震えながらこちらを見上げる、愛しい相棒、ウルの姿だった。
体が、鉛のように重い。だが、五感は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。
窓の外から聞こえてくる、活気に満ちた、しかし、どこまでも穏やかな街の音。自分が眠る前にはなかった、エルフたちの澄んだ歌声が、子供たちの笑い声に混じっている。
セーラの厨房から漂う、醤油と味噌の、懐しくも、より深みを増した香ばしい匂い。
自分が眠っている間に、世界が、自分が夢見た以上に、温かい場所になっていることを、彼は、その魂で理解した。
「……にい……さん……?」
やっとの思いで紡ぎ出した声は、ひどく掠れていた。
その、あまりにも懐かしい響きを聞いた瞬間、アルフォンスの、強靭な精神で張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。彼は、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、弟の、温かい手を、震える両手で固く、固く握りしめた。
「……ああ。ああ……!おかえり、アーク。……本当に、よく、帰ってきた……!」
その手から伝わる、兄の、あまりにも温かい魂の感触に、アークは、自らが、本当に帰ってきたのだということを、ようやく実感した。
#### 陽だまりの凱歌
兄の、喜びと安堵に満ちた呼びかけが、最初の奇跡の音だった。
その魂の響きに呼応するかのように、領主の館から、あまりにも強く、あまりにも懐かしい生命の光が、祝福の狼煙のように天へと放たれたのだ。
その光を、『陽だまりの教会』の鐘楼で最初に感じ取ったのは、聖女ミカエラだった。
彼女は、一瞬息を呑んだ後、その目に歓喜の涙を浮かべ、鐘を突く若者に、魂の全てを込めて叫んだ。
「鳴らしなさい!この街の、全ての民に聞こえるように!――我らが太陽が、お戻りになられた、と!」
カン、カン、カーン!
それは、これまで聞いたこともない、力強く、そしてどこまでも喜びに満ちた鐘の音だった。
畑を耕していた農夫が、鍬を持つ手を止め、空を見上げた。工房で槌を振るっていた職人が、その音に耳を澄ませた。アカデミーで学んでいた子供たちが、一斉に窓の外へと駆け出した。
街中の全ての人々が、その鐘の音が意味する、たった一つの奇跡を理解した。
領主の館は、歓喜の奔流に飲み込まれた。
最初に部屋に駆けつけた父と母は、ただ涙を流しながら、痩せた息子の体を固く抱きしめた。かつて息子に命を救われた母が、今度は、目覚めたばかりの息子の体を、慈しむように温かいスープで満たしていく。父は、言葉少なに、しかし、その無骨な手で、二人の息子の頭を、代わる代わる、誇らしげに撫で続けた。
やがて、仲間たちが、次々と部屋を訪れた。
「てめぇ、この寝坊助が!どれだけ心配させやがんだ!」
ダグが、いつものように悪態をつきながらも、その赤く潤んだ目を、必死にごしごしと擦っている。ミカエラは、胸の前で手を組み、その奇跡に、静かな感謝の祈りを捧げていた。ローランは、「ふむ、ようやくお目覚めですかな、若き創造主殿」と軽口を叩きつつも、その声が隠しきれぬほど震えていた。
アークは、一人ひとりの顔を、ゆっくりと、目に焼き付けた。
永い眠りの代償として雪のように真っ白になっていた髪は、仲間たちの想いをけ取った証として、完全に、あの美しい陽光の金色を取り戻していた。そして、その瞳は、森の深淵を思わせる深緑と、世界樹の叡智を宿した白銀が混じり合う、唯一無二の輝きを放っていた。
眠る前の記憶と比べ、誰もが、逞しく、自信に満ちた、素晴らしい顔つきになっている。特に、目の前で、不器用に、しかし最高の笑顔を浮かべる兄アルフォンス。その魂からは、かつて彼を蝕んでいた劣等感の影など微塵も消え去り、代わりに、巨大な陽だまりそのもののような、絶対的な王の風格と、揺るぎない自己肯定の輝きが放たれていた。彼は、自分が眠っていた時間の長さを悟り、そして、その間に、兄と仲間たちが成し遂げたことの、あまりにも偉大な軌跡に、ただただ胸を熱くするのだった。
#### ただいま、僕の陽だまり
その日の夕刻。
まだ起き上がることもままならないアークのベッドの周りには、小さな食卓が用意されていた。
そこに運ばれてきたのは、豪華な料理ではなかった。
湯気の立つ、温かいアークイモのスープ。焼きたての、素朴な黒パン。そして、搾りたての、新鮮な牛乳。全ての始まりとなった、あの日の食卓の再現。
アークは、兄に支えられながら、震える手で、ゆっくりと木のスプーンを握った。そして、その、あまりにも懐かしい香りのスープを、一口、そっと口に運んだ。(……ああ、温かい……)芋の、優しい甘み。土の、力強い香り。そして何より、この一杯に込められた、セーラの、仲間たちの、温かい想い。その、あまりにも優しい味が、永い眠りで凍てついていた彼の魂を、内側から、ゆっくりと溶かしていく。
「……美味しい」
その、か細く、しかし、心の底からの呟きに、その場にいた誰もが、ただ、静かに涙を拭った。
アークは、その、あまりにも温かい光景を、ただ、黙って見つめていた。兄に支えられ、ベッドの上に半身を起こしたまま、その食卓に加わった。
母の、優しい問いかけに、
彼は、全ての始まりの日のように、少しだけはにかんだ。
「ううん。スープが、あまりにも美味しくて。それに、みんなの顔を見ていたら、なんだか、すごく、幸せだなって」
「ただいま、兄さん。――そして、ただいま、僕の陽だまり」
その言葉に、足元で丸くなっていたウルが、全てを理解したように「きゅぅん」と一つ、幸せそうに鳴いた。主の、完全なる帰還。それこそが、彼にとっての、世界の完成だった。
創造主は、帰ってきた。
自らが創り、そして、兄が守り抜いてくれた、世界で一番、温かい場所へ。
二人の英雄が、再び手を取り合う時、陽だまりの物語は、新たなる、無限の可能性を秘めたページを、静かに、そして力強く、めくったのだった。
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