第157話:小さな先生と、世界で一番温かい授業
#### 陽だまりの街の、最初の朝
リーリエの、陽だまりの街での最初の朝は、驚きと、戸惑いと、そして、生まれて初めて感じる、胸の奥がくすぐったくなるような温かい匂いで始まった。
故郷の村で毎朝彼女を叩き起こしていたのは、壁の隙間から吹き込む、肌を刺すような冷たい風と、遠くで聞こえる狼の物悲しい遠吠えだった。
だが、この街で彼女の眠りを優しく揺り起こしたのは、窓の隙間から差し込む、あまりにも優しい黄金色の陽光と、どこからか聞こえてくる、子供たちの楽しげな笑い声、そして、彼女がその正体を知らない、甘く香ばしい匂いだった。
アカデミーの、彼女のために用意された小さな個室。そこには、ふかふかのベッド、清潔な衣服、そして、机の上には、一輪の野花が飾られた小さな花瓶まで置かれていた。過分なほどの、温もり。その全てが、彼女に「お前は、ここにいていいんだよ」と、優しく語りかけてくるようだった。
リーリエは、故郷を発つときに弟のノアが握らせてくれた、不格好な木彫りの小鳥を、ぎゅっと握りしめた。
(……ノア。兄ちゃん、頑張るからな)
今日から始まる、未知なる『授業』。その不安を、弟への想いだけを頼りに、彼女は必死に振り払った。
#### 最初の授業・厨房の熱気
リーリエが、若き学長フィンに連れられて向かった、最初の『教室』。それは、彼女が想像していた、静まり返った講義室ではなかった。
「へい、いらっしゃい!未来の小さな錬金術師さん!」
湯気と、活気と、そして、あの温かい匂いの源。料理長セーラの、太陽のような笑顔が、彼女を出迎えた。
「さあさあ、座って!……と言いたいところだが、うちは実践主義でね!生命を育てる第一歩は、生命を美味しくいただく喜びを知ることからさ!土を触る前に、まずは包丁の握り方から、あたしがみっちり仕込んでやる!」
リーリエは、生まれて初めて、自分よりも大きなアークイモと格闘した。セーラは、ただ手順を教えるだけではない。
「いいかい?このニンジンは、甘えん坊だから、玉ねぎの優しさと一緒に煮込んでやると、もっと素直に甘くなる。こっちのハーブは、ちょっと気難しいお嬢様だから、最後に入れて、香りを立たせてやるのがコツさね」
まるで、野菜たち一人ひとりの『心』と対話するかのように、楽しげに語るセーラ。リーリエは、いつの間にか、包丁を握る恐怖も忘れ、夢中になっていた。料理とは、生きるための、苦しい義務ではなかった。それは、たくさんの命と対話し、一つの、新しい喜びを創り出す、魔法そのものだったのだ。
#### 二番目の授業・心の言葉
次にミカエラが待っていたのは、『陽だまりの教会』だった。
だが、そこに、威圧的な神像も、難解な聖典もなかった。ただ、聖浄樹が編み上げた美しいドームから、ステンドグラスのように、柔らかな光が降り注いでいるだけだった。
「ようこそ、リーリエさん」
ミカエラは、聖女の威厳ではなく、ただ、優しい姉のような笑みを浮かべて、一枚の、真っ白な『ライナス和紙』と、木炭のペンを、彼女の前に差し出した。
「あなたの弟君は、あなたの帰りを待っています。あなたの物語が、彼にとって、何よりの薬になるはずです。さあ、その、世界で一番温かい想いを、言葉にして届ける練習を始めましょう」
リーリエは、ミカエラに手を引かれ、生まれて初めて、自らの名前を、紙の上に記した。
『リーリエ』
それは、お世辞にも上手とは言えない、震える線だった。だが、それは、彼女が、この世界に、自らの意志で刻んだ、最初の確かな一歩だった。
次に、彼女は、弟の名を記した。
『ノアへ』
その三文字を書き終えた瞬間、彼女の胸に、故郷への、そして、愛しい弟への想いが、堰を切ったように込み上げてきた。
#### 三番目の授業・小さな先生
その日の最後の授業は、アカデミーの隣にある、ガラス張りの小さな温室で行われた。
そこには、兄アルフォンスに支えられながら、アークが、穏やかな笑みを浮かべて待っていた。その足元では、主の目覚めが嬉しくてたまらないといった様子で、ウルが嬉しそうに尻尾を振っている。
「やあ、リーリエ。疲れただろう」
リーリエは、伝説の創造主を前に、緊張で体が石のように固まった。だが、アークの次の言葉は、彼女の予想を、あらゆる意味で裏切るものだった。
「さて、と。じゃあ、始めようか。**リーリエ先生**の、最初の授業を」
「……え?」
「君の、その花の先生は、僕じゃない。君自身なんだから」アークは、悪戯っぽく笑った。「だから、教えてほしいんだ。今朝、君は、あの子に何をしてあげたんだい?お水をあげた?それとも、何か、お話をしてあげたのかい?」
リーリエは、戸惑いながらも、小さな声で答えた。
「……はい。あの、今朝、セーラさんに教わった、スープの作り方を……お話しました。ノアも、きっと、このスープを食べたら、元気になるかなって……」
彼女が、そう語りかけた、瞬間だった。
温室の中央、小さな鉢に植えられた『月光花』の芽が、これまでよりも、ほんの少しだけ、強く、そして温かい光を、ふわり、と放ったのだ。まるで、彼女の言葉に、嬉しそうに応えるかのように。
アークは、その光景を、満足げに見つめていた。
「……ほらね。素晴らしい授業だったじゃないか、先生」
彼は、リーリエの頭を、優しく撫でた。
「いいかい、リーリエ。生命は、水や、太陽の光だけじゃ育たない。誰かを想う、君のその温かい心が、この花の、そして、君の弟君の、世界で一番の栄養になるんだ。君は、もう、この花の、最高の先生だよ」
それは、創造主から、名もなき少女への、最初の『権能移譲』の儀式だった。アークが創ったのは、花の芽ではない。一人の少女の心の中に、『自らの手で、陽だまりを創り出せる』という、揺るぎない希望の種を、植え付けたのだ。
その夜、リーリエは、自室の机で、生まれて初めて、弟への手紙を書いていた。
たどたどしい文字で、今日一日の、驚きと、喜びと、そして、温かいスープの味を、夢中で綴っていく。
『――兄ちゃんは、この街で、お日さまの匂いがするお花を、育てる練習を始めました。このお花が咲いたら、きっと、ノアの夜も、明るく照らしてくれるはずです。だから、待っていてね。兄ちゃんが、必ず、陽だまりを、持って帰るから』
その手紙の横で、小さな鉢植えの『月光花』が、主人の、温かい想いに応えるかように、これまでで一番、優しい光を放っていた。
北から来た小さな蕾が、陽だまりの街で、その最初の花弁を、確かに綻ばせた瞬間だった。
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