第146話:王女の菜園と、届けられた感謝
#### 奇跡の余韻
王宮庭園に咲いた、たった一輪の桜。
その、あまりにも静かで、あまりにも気高い奇跡は、その場にいた全ての者の心を、深く、そして静かに揺さぶっていた。
旧体制派の貴族たちは、遠巻きにその光景を見つめ、言葉を失っていた。自分たちの常識では到底理解できない、武力でも財力でもない、未知の『理』。その絶対的な力の前に、彼らがこれまで信じてきた権威という名の鎧が、音もなくひび割れていくのを感じていた。
侍医長エラードは、歓喜に涙する王女の傍らで、静かに戦慄していた。(これは、ただの魔法ではない。心の在り方が、生命の理そのものに干渉する……。陽だまりの思想とは、医学と哲学の、最終到達点なのかもしれぬ)
そして、何よりも深く、その奇跡を受け止めていたのは、アンネリーゼ王女自身だった。
「……咲いた……」
彼女の魂からの喜びは、これまでにないほど強い光となって、時と空間を超えていく。彼女は、アルフォンスに向き直ると、その蒼い瞳に、初めて、誰かに与えられるだけではない、自らの意志の光を宿して言った。
「アルフォンス様。わたくしも、何かをしてみたいです。この木が、もっと元気になるように。わたくしの手で、何かを、生み出してみたいのです」
#### 王女の小さな菜園
その、あまりにも尊い願いに応え、アルフォンスは侍医長エラードと相談し、王宮庭園の、陽光が最も降り注ぐ一角に、王女のための小さな家庭菜園を造ることを提案した。
国王は、娘の、生まれて初めて見せた能動的な意志に、涙を流してそれを許可した。
リオンが、陽だまりの街から秘密裏に取り寄せた、聖浄樹の土を一握り、王宮の痩せた土に混ぜ込む。ミカエラは、王女が扱いやすいようにと、子供用の小さな鍬と如雨露に、温かい祝福の光を授けた。
アンネリーゼ王女は、生まれて初めて、その白い手で土の温もりに触れ、小さな種を蒔いた。土の匂いに顔を綻ばせ、小さな芽の成長に一喜一憂する日々。最初は、侍女に支えられながらのおぼつかない手つきだったが、土の感触、水の冷たさ、そして、自らの手で生命を育むという、原初的な喜びに、次第に夢中になっていった。
彼女が蒔いたのは、陽だまりの街からフィンが届けてくれた、特別な野菜の種。厳しい冬を越すためのものではなく、ただ、その彩りの美しさと、優しい甘さのためだけに、アークが品種改良した『虹色ニンジン』と『雫トマト』だった。
#### 最初の収穫
数週間後。王女の小さな菜園は、奇跡のような、最初の収穫の時を迎えた。
彼女が、毎日毎日、愛情を込めて水をやり、その成長を見守り続けた野菜たち。土の中から顔を覗かせた『虹色ニンジン』は、赤、黄、紫と、まるで宝石のように輝き、『雫トマト』は、朝露そのものが固まったかのように、瑞々しい深紅の実をつけていた。
その日、王宮の一室で、ささやかな収穫祭が開かれた。
王女は、侍女の手を借りながら、自らが収穫した野菜で、シンプルなサラダを作った。そして、その最初のフォークを、父である国王の口元へと、はにかみながら差し出した。
「お父様……あーん……」
国王は、その、あまりにも愛しい娘の仕草に、威厳も何もかも忘れ、ただ、一人の父親として、そのフォークを口に含んだ。
野菜の、驚くほどの甘さと、生命力に満ちた味。だが、それ以上に、娘の、成長と、その優しい心が、彼の魂を震わせた。
彼は、その場で、声を上げて泣いた。それは、ただ娘の成長を喜ぶ父の涙ではなかった。彼が、王として守るべき国の民が、とうの昔に忘れてしまっていた、土に触れる喜び、自らの手で生命を育む尊さ、そして、ただ「美味しい」と笑い合える、ささやかな幸福。その全てが、この一口に凝縮されていた。王としてではなく、一人の人間として、彼は思い出していたのだ。国を豊かにするとは、金貨や領土を増やすことではない、と。
遠巻きに見ていた旧体制派の貴族たちですら、その前では、もはや何も言うことができず、ただ、静かに頭を垂れるだけだった。彼らの脳裏に浮かぶのは、権謀術数に明け暮れる自らの子供たちの、愛を知らぬ乾いた瞳。それに比べ、目の前の光景は、なんと温かく、なんと気高いことか。彼らが信じてきた権威とは、この、あまりにも純粋な光の前で、これほどまでに無力だったというのか。その静かな敗北感が、彼らの頑なな心を、内側から静かに溶かし始めていた。
その夜、王女は、自分の菜園で最も美しく育った、一輪の小さな黄金色の花を摘むと、旅立ちの準備を進めるアルフォンスの元を訪れた。
「アルフォンス様……」
その顔には、もはや病の影はなく、年相応の、快活な輝きが宿っていた。
「これは、アルフォンス様のおかげで咲いた、陽だまりの花です。どうか、あなた様の眠れる弟君の元へ、届けてください。わたくしの、感謝の気持ちです、と」
#### 創造主の見る夢
その、あまりにも純粋で、あまりにも気高い感謝の光は、時と空間を超え、眠れる創造主の魂にも、確かに届いていた。
アークの夢の中に、兄と、満面の笑みを浮かべる少女が、小さな、しかし色とりどりの菜園で笑い合う、陽だまりそのもののような光景が、鮮やかに映し出される。
現実世界。
眠るアークの枕元で、七つ目の黄金の花が、まるで祝福の鐘を鳴らすかのように、完璧な形で、その花弁を咲き誇らせた。
そして、彼の、雪のように真っ白な髪の中に、また一本、確かな金色の筋が、力強く生まれる。
それだけではなかった。
これまで、兄が咲かせた希望の花を掴むかのように、固く握り締められていた彼の指が、まるで、夢の中で、王女が届けた感謝の花を、そっと受け取るかのように、ゆっくりと、しかし、確かに開かれていったのだ。
回復が、精神的な領域から、より確かな物理的な領域へと、さらに一歩、移行し始めたことを、その奇跡は、静かに告げていた。兄の英雄的な活躍が彼の魂を奮い立たせたように、今度は、見知らぬ少女からの、あまりにも純粋な『感謝』の想いが、彼の肉体を、優しく癒やしていく。陽だまりとは、与えるだけではない。与えられた温もりが、巡り巡って、新たな奇跡を生むのだ。
その奇跡の光を、主の傍らで丸くなっていたウルだけが見逃さなかった。彼は、主の確かな回復の兆しに、ただ、その漆黒の瞳を潤ませ、喜びをかみ殺すように「きゅぅん」と一つ、小さく鳴いた。
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