第145話:王女の小さな冒険と、枯れ木の奇跡
#### 謁見の間の静寂
アンネリーゼ王女の、数ヶ月ぶりの、あまりにも純粋な笑顔。
その、たった一つの奇跡が、壮麗な謁見の間の、全ての空気を塗り替えてしまった。
国王は、これまで見たことのなかった娘の、生き生きとした表情に、ただ、言葉を失い、その目に温かい涙を浮かべていた。侍医長エラードは、我がことのように深く頷き、その奇跡の光景を目に焼き付けている。
そして、アルフォンスたちを貶めるための罠を仕掛けた旧体制派の貴族たちは。彼らは、自らが撒いた毒が、最高の解毒剤によって無力化されただけでなく、自分たちの主君の心を、完全に敵へと奪われてしまったという、信じがたい現実に、ただ顔を青ざめさせることしかできなかった。
「――アルフォンス・ライナス卿」
国王の、威厳に満ちた声が、静寂に響いた。
「そなたたちの忠誠、そして、我が娘への心遣い、誠に感謝する。陽だまり連合からの見舞いの品、確かに受け取った。つきましては、王女の療養のため、しばらくの間、そなたたち使節団に、この王宮に滞在することを、余が名において、公式に要請する」
それは、単なる滞在許可ではない。北の果ての、名もなき連合の使節団が、レナトゥス王家公認の『賓客』となったことを、大陸の全てに示す、歴史的な瞬間だった。
#### 王女の小さな陽だまり
その日から、王女の私室は、世界で最も小さな、しかし、最も温かい『陽だまり』へと姿を変えた。
窓辺には、セーラが魂を込めて創り上げた、宝石のように輝く砂糖菓子や、黄金色のジャムの小瓶が並べられる。王女は、侍女が驚くほどの食欲で、その、生まれて初めて味わう「幸福の味」を、毎日、少しずつ、楽しんだ。
夜には、ミカエラが、その澄んだ声で、陽だまりの教会で子供たちに読み聞かせているという、美しい挿絵の入ったエルフの絵本を、ゆっくりと読んで聞かせた。
そして、昼下がりには、リオンが、中庭の木々を指差し、森の賢者であるエルフだけが知る、木々の名前の由来や、鳥たちとの会話の方法を、静かに語って聞かせた。
王女の世界は、急速に、色と、音と、そして温もりを取り戻していった。
そして、ある晴れた日の午後。
アルフォンスが、いつものように『陽だまりの騎士の譚詩曲』を読み聞かせていると、王女は、物語から顔を上げ、一つの、切実な願いを、そのか細い唇に乗せた。
「……アルフォンス様。わたくし、お外に、出てみたいです。あなた様の物語にあった、『聖浄樹』の並木道のような場所を、この目で、見てみたいのです」
侍医長エラードは、そのあまりにも無邪気な願いに、血相を変えて反対した。「なりませぬ、王女殿下!外の空気は、殿下の御身にはあまりにも…!」
だが、アルフォンスは、その言葉を、静かに手で制した。彼は、王女の、その蒼い瞳の奥に宿る、揺るぎない、強い『生』の光を見ていた。ここで、この光を摘み取ってはならない。
「……エラード殿。俺を、信じてはいただけませんか」
その、若き王の、あまりにも誠実な瞳に、老侍医長は、もはや何も言うことができなかった。
#### 王宮庭園の奇跡
アルフォンス、ミカエラ、リオンは、アンネリーゼ王女を伴って、彼女がこれまで、窓の外から、ただ眺めるだけだった王宮の庭園へと、その第一歩を踏み出した。旧体制派の貴族たちが、遠巻きに、その、あまりにも異様な光景を、侮蔑と好奇の入り混じった目で見つめている。
庭園は、王家の権威を示すかのように、完璧に手入れされていた。だが、その美しさは、どこか生命力に欠け、まるで精巧な造花のようだった。
王女は、初めて外の空気に触れ、初めて土を踏みしめるその感触に、最初は戸惑っていた。だが、アルフォンスが、その大きな手で、彼女の小さな手を優しく握りしめると、彼女は、安心したように、一歩、また一歩と、自らの足で歩みを進め始めた。
やがて、一行は、庭園の一角にある、一本の、ひときわ古く、そして枯れかけた桜の木の前で、足を止めた。
「……この木、わたくしが生まれる、ずっと前から、毎年、春になると、それは見事な花を咲かせていたそうです。ですが、わたくしが病に伏せてから、ここ数年は、一度も、花をつけてくれないのです……。まるで、わたくしの心を、映しているみたいに」
その、あまりにも悲しい言葉。
アルフォンスの脳裏に、弟の顔が浮かんだ。(アークなら、きっと、あっという間に、この木を満開にしてみせるだろう。その圧倒的な生命力で、理不尽な死すらも捻じ伏せて。……だが、俺は違う。俺は、創造主じゃない)
一瞬、彼の心に、かつての無力感が影を落とす。だが、彼はすぐに首を振った。(いや、だからこそ、俺にしかできないことがある。俺は、生命の理を創ることはできない。だが、その声を聞くことはできる。陽だまりの街の仲間たちの顔を、この連合が紡ぎ始めた、温かい物語を、この木に語り聞かせることなら、できる)
彼は、弟の模倣をするのではなく、自分だけの、自分らしいやり方で、この小さな魂の願いに応えることを、決意した。
彼は、剣を抜くでもなく、魔法を唱えるでもなく。ただ、その、ごつごつとした桜の古木の幹に、自らの手を、そっと触れた。
そして、心の中で、木に語りかけた。陽だまりの街の仲間たちの顔を、この連合が紡ぎ始めた、温かい物語を。
(聞こえるか。俺たちの、陽だまりの音だ。お前は、一人じゃない)
その隣で、ミカエラが、静かに祈りを捧げる。リオンが、森への感謝の古謡を、口ずさむ。
三人の、温かい想いが、一つになった、その瞬間。信じられない奇跡が、起こった。アルフォンスが注ぎ込む『陽だまりの物語』という生命の温もりを、ミカエラの『聖なる祈り』が天へと届け、リオンの『森への感謝』が、大地の根へと響き渡る。天と地と人が、一つの完璧な調和を奏でたのだ。
枯れていたはずの桜の古木の幹が、微かに、温かい光を放ち始めたのだ。そして、固く、固く閉ざされていた、無数の蕾の一つが、まるで、永い眠りから目覚めるかのように、ゆっくりと、その花弁を綻ばせ始めた。
それは、満開の桜ではない。
たった一輪の、しかし、あまりにも気高い、生命の再生の証。
「……咲いた……」
アンネリーゼ王女の、その蒼い瞳から、歓喜の涙が、止めどなく溢れ出した。
#### 創造主の見る夢
その、あまりにも温かい奇跡の光景は、時と空間を超え、眠れる創造主の魂にも、確かに届いていた。
アークの夢の中に、兄が、見知らぬ一人の少女を優しく支え、そして、枯れ木に、一輪の希望の花を咲かせる、誇らしい光景が映し出される。
現実世界。
眠るアークの枕元で、六つ目の黄金の花が、まるで祝福の鐘を鳴らすかのように、完璧な形で、その花弁を咲き誇らせた。
そして、彼の、雪のように真っ白な髪の中に、また一本、確かな金色の筋が、陽光のように生まれる。
それだけではなかった。
これまで、ぴくりとも動かなかった彼の指が、まるで、夢の中で、兄が咲かせた希望の花を、そっと掴むかのように、ゆっくりと、しかし、確かに握り締められたのだ。
回復が、精神的な領域から、物理的な領域へと、確かに移行し始めたことを、その奇跡は、静かに告げていた。
その奇跡の光を、主の傍らで丸くなっていたウルだけが見逃さなかった。彼は、主の確かな回復の兆しに、ただ、その漆黒の瞳を潤ませ、喜びをかみ殺すように「きゅぅん」と一つ、小さく鳴いた。
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