第142話:王女の陽光と、盟主の決意
#### 王都の陽光
静寂。
オルゴールの最後の残響が、薬草と乾いた花の匂いに満ちた王女の私室に、静かに溶けていった。
天蓋付きのベッドの上で、アンネリーゼ王女は、その雪のように白い頬を、一筋の温かい涙で濡らしていた。彼女の、世界の全てを諦めてしまったかのような、哀しみの色しか宿していなかった瞳が、初めて、微かに揺らめいていた。
(……なに、この音……。宮廷楽団の、悲しい音楽とは違う。温かい……。まるで、アルフォンス様の物語で読んだ、陽だまりの光そのものが、音になったみたい……)
「……陽光の……音……」
その、か細く、しかし、確かな意志を宿した呟き。
それを聞いた侍医長エラードは、自らの耳を疑い、息を呑んだ。数ヶ月もの間、外界からのあらゆる刺激を拒絶し、食事すらままならず、ただ、虚ろに時を過ごすだけだった王女が、初めて、自らの意志で『外の世界』へと問いかけたのだ。それは、どんな高価な霊薬よりも、どんな高名な神官の祈りよりも、確かな奇跡だった。
「……若き使節殿」エラードは、興奮に声を震わせながら、フィンとエリアスに向き直った。「どうか、しばらく王都に滞在してはくれまいか。毎日、ほんの少しの時間で良い。王女殿下に、その、陽だまりの音色を、物語を、聞かせ続けてはいただけないだろうか。これは、侍医長としての命令ではない。ただ、一人の少女の未来を案じる、老いぼれの、心からの願いだ」
その、あまりにも真摯な懇願。フィンとエリアスは、顔を見合わせると、力強く頷き合った。彼らの使命は、もはやただの外交ではない。この、凍てついた王都の中心に、陽だまりの温もりを届けるという、より気高く、そして遥かに重要なものへと変わっていた。
#### 陽だまりの評議会
その報せは、ディアナが張り巡らせた情報網を通じて、瞬く間に、北の陽だまりの街にも届けられた。
『盟約の館』の円卓では、アルフォンスを中心とした連合の仲間たちが、この予想外の展開に、新たな戦略を練っていた。
『素晴らしい……実に素晴らしいですわ、アルフォンス様』
光の姿で参加するディアナが、会心の笑みを浮かべた。『王女殿下の御心を開いた。これ以上の外交的成果はございません。ですが、これは同時に、我らにとって、これ以上ない好機でもあります』
彼女は、怜悧な商人の顔に戻る。
『王女殿下は、我らが陽だまりの『文化』に、その魂を救われようとしている。ならば、我らが次に贈るべきは、オルゴールだけではございません。この陽だまりが生み出した、全ての温もりを、王宮の、その心臓部へと、直接届けるのです。文化とは、最も穏やかで、しかし、最も抗いがたい、最高の『武器』なのですから』
ディアナの提案は、明確だった。
セーラが、その腕によりをかけて創り上げた、太陽のリンゴのジャムや、滋養に満ちた保存食。ミカエラが、エルフの古謡を元に編纂した、子供向けの美しい絵本。そして、ダグとグンナルが、技術の粋を集めて創り出した、手のひらサイズの、精巧な木の玩具。
それら全てを、陽だまり連合からの、公式な『見舞いの品』として、王家へ献上するのだ、と。
#### 小さな陽だまり
王都での日々は、静かに、しかし、確実に、凍てついた城の空気を溶かし始めていた。
フィンとエリアスは、毎日、王女の私室を訪れた。
エリアスは、故郷の厳しい冬の物語や、岩の隙間に咲く、気高い紫の花の物語を、その実直な言葉で語り聞かせた。
フィンは、目を輝かせながら、『陽だまりの騎士の譚詩曲』を、英雄の力強い声色と、敵将の傲慢な声色を使い分け、まるで舞台劇のように、生き生きと演じてみせた。
最初は、ただ黙って聞いていただけのアンネリーゼ王女。だが、数日が経つ頃には、彼女の唇に、ほんの僅かな、笑みが浮かぶようになっていた。
そして、ある日の午後。
フィンの英雄譚が、アルフォンスが宿敵ギュンターを打ち破る、クライマックスに差し掛かった時。
王女は、か細く、しかし、確かな好奇心をその声に宿して、初めて、自らの意志で問いかけた。
「……その、アルフォンス様という方は……本当に、いらっしゃるの……?」
その、あまりにも小さな、しかし、あまりにも確かな一言。それを聞いた侍医長エラードは、傍らで薬草を調合する手を止め、自らの耳を疑い、息を呑んだ。数ヶ月もの間、外界からのあらゆる刺激を拒絶し、ただ、虚ろに時を過ごすだけだった王女が、初めて、自らの意志で『外の世界』へと問いかけたのだ。それは、どんな高価な霊薬よりも、どんな高名な神官の祈りよりも、確かな奇跡だった。
「はい!もろちんですとも!」フィンは、我がことのように、誇らしげに胸を張った。「僕の、たった一人の、自慢の兄ちゃんですから!」
その夜、侍医長エラードは、信じられない光景を目にすることになる。
アンネリーゼ王女が、数ヶ月ぶりに、自らの足でベッドから降りると、侍女の肩を借りながら、おぼつかない足取りで、窓辺へと歩み寄ったのだ。
彼女の目に映るのは、これまで見てきた、色褪せた灰色の中庭ではない。フィンの物語を通して心に描いた、陽だまりの街の、温かい人々の笑い声と、英雄の雄叫びが聞こえてくるかのような、活気に満ちた光景だった。
彼女は、窓ガラスに、そっと指で触れると、侍医長に、こう告げた。
その声は、もはや、か細いだけではなかった。一つの、揺るぎない『願い』が、そこにはあった。
「……エラード。わたくし、会ってみたい……。その、アルフォンス様に」
#### 盟主の決意
その、王女の『願い』は、陽だまり連合の全てを、動かした。
「……俺が、行く」
緊急の評議会で、アルフォンスは、静かに、しかし、有無を言わさぬ口調で、告げた。
「王女殿下への見舞いの品を届ける、陽だまり連合、最初の公式使節団。その長として、この俺が、自ら王都へ赴く」
「お待ちください、アルフォンス様!」ローランが、即座に制止した。「あまりにも、危険です!王都は、今や、我らの力を警戒する、旧体制派の巣窟!盟主たる貴方様が、その身を危険に晒すなど……!」
「だからこそ、俺が行くんだ」
アルフォンスは、ローランの目を、真っ直ぐに見据え返した。
「俺たちの連合が、ただの田舎貴族の寄り合いではないことを、俺たちの『顔』が、直接王宮に乗り込むことで、大陸の全てに示す。そして何より……病に伏せる、たった一人の少女の、ささやかな願いに、応えることができないような男に、この連合の盟主が務まるとは、俺には到底、思えん。それに……」
アルフォンスは一度言葉を切り、脳裏に眠る弟の顔を思い浮かべた。その顔は、いつも自分を信じ、そして、自分にできないことを軽々とやってのけた、偉大で、少しだけ遠い存在だった。だが、もう違う。
「俺の弟なら、きっと、迷わず行っただろうからな。……いや、違うな。**あいつの兄として、**俺が行く。それだけだ」
その、あまりにも気高く、あまりにもアルフォンスらしい決意。
その魂の輝きを前に、もはや、誰も、反対の言葉を口にすることはできなかった。
ディアナは、光の姿で、満足げに微笑んだ。『承知いたしましたわ、盟主様。ならば、王都までの道筋、そして、王宮での最高の舞台は、このディアナが、銀月商会の全てを賭けて、ご用意いたしましょう』
ミカエラもまた、静かに立ち上がった。「ならば、このミカエラも、お供いたします。王都の、光と影の全てを知る、あなた様の、最初の『剣』として」
#### 夜明けの兆し
その夜、アルフォンスは、一人、弟が眠る部屋の扉の前に、静かに立っていた。
「……行ってくるぜ、アーク。今度は、あんたの物語の、続きを、この俺が紡いでくる。あんたが目を覚ました時に、最高の土産話ができるようにな」
その、兄の誓いに、応えるかのように。
枕元に飾られた花瓶の上で、陽だまりの小鳥が、これまで聞いたこともない、喜びに満ちた、美しいさえずりを奏で始めた。
その歌声に呼応するかのように、三つの黄金の花が、一斉に、眩いばかりの光を放つ。
光は、これまでのように、ただアークの胸に注がれるだけではなかった。それは、一つの、凝縮された光の奔流となって、眠る彼の、固く閉ざされた**瞼**へと、集中した。
その、瞬間。
アルフォンスとウルが見守る前で、信じられない奇跡が起きた。
アークの、雪のように真っ白な睫毛に縁取られた瞼が、ほんの、ほんの僅かに、ぴくり、と痙攣したのだ。
それは、夢の中の無意識の動きではない。外の世界で生まれた、新しい希望の光に、その肉体が、確かに反応した、生命の兆候だった。
アルフォンスは、息をすることも忘れ、その光景に釘付けになった。
弟の魂が、帰ってきている。
この、温かい陽だまりの家へと、光を求めて、確かに。
夜明けは、もう、すぐそこまで来ていた。
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