第137話:最初の留学生と、氷を溶かす歌
#### 盟主の朝
『陽だまり文化交流協定』の設立が宣言されてから、数週間が過ぎた。
その朝、アルフォンス・ライナスは、西方の職人たちが魂を込めて仕立て上げた『盟主の服』に、初めて公式の場で袖を通していた。鏡に映る自分の姿は、まだどこか見慣れない。金糸銀糸の豪華さはない。だが、南の温かい羊毛、陽だまりの強靭な繊維、ザターラの気高い銀糸、そして西方の武骨な黒鉄。その全てが、一つの完璧な調和を保っている。
「……重いな。どんな鎧よりも、ずっと」
彼が感じているのは、服の物理的な重さではない。この一着に込められた、連合に生きる全ての人々の信頼と、未来への祈りの重みだった。
今日は、その重みを、彼が王として背負う最初の試練の日。協定に基づき、最初の『文化留学生』たちが、この陽だまりの街へ到着するのだ。
街の門前で、若き学長フィンと共にその到着を待つアルフォンスの背筋は、緊張で張り詰めていた。
「……大丈夫かな、フィン。俺たちのやり方、受け入れてもらえるだろうか」
「大丈夫ですよ、アルフォンス兄ちゃん!」フィンは、不安を振り払うように、力強く言った。「だって、僕らは、アーク兄ちゃんが創ってくれた、この陽だまりの物語を伝えるだけなんですから!」
#### 氷の使節団
やがて、街道の向こうから、一団のキャラバンが姿を現した。
彼らが掲げるのは、灰色の大地に、一本の槍が突き立つ紋章。大陸北東部の険しい山岳地帯を治める、『灰嶺男爵領』の使節団だった。
馬から降り立ったのは、アルフォンスと同年代くらいの、エリアスと名乗る実直そうな青年と、その供回りの人々。彼らの装束は、飾り気の一切ない、灰色と黒を基調とした、機能的なだけのもの。その瞳には、厳しい自然環境で生き抜いてきた者だけが持つ、深い警戒心と、揺るぎない伝統への誇りが宿っていた。
「ようこそ、陽だまりの街へ! 長旅、ご苦労だった!」
アルフォンスが、精一杯の笑顔で手を差し出す。だが、エリアスは、その手を握り返すことなく、ただ、深く、恭しく頭を下げただけだった。
「……お招き、感謝申し上げる。盟主殿」
その夜、盟約の館で開かれた歓迎の宴は、奇妙な静寂に包まれていた。
セーラが腕によりをかけて創り上げた、色とりどりの陽だまり料理。だが、灰嶺の使節団は、それを、ただ黙々と、表情一つ変えずに口へと運ぶだけだった。彼らの故郷では、食事は生きるための儀式であり、楽しむためのものではなかったのだ。
人間とエルフが、同じテーブルで笑い合っている光景。聖女であったはずのミカエラが、子供たちに料理を取り分けている姿。その全てが、彼らの常識から、あまりにもかけ離れていた。文化の壁は、アルフォンスが想像していた以上に、高く、そして冷たかった。
#### 沈黙の教室
翌日、本当の意味での交流が、アカデミーで始まった。
教壇に立つフィンは、緊張しながらも、目を輝かせて語り始めた。
「これが、僕らの街の歴史を変えた『活版印刷機』です! この機械があれば、一つの物語を、千の、万の心に、同時に届けることができるんです!」
彼は、アークから学んだやり方で、生徒たちに問いかけ、共に考え、共に学ぶという、対話式の授業を試みた。
だが、灰嶺の若者たちは、ただ、硬い表情で、フィンの言葉を一言一句、羊皮紙に書き留めるだけだった。質問はない。笑顔もない。彼らにとって、学びとは、師の言葉を、ただ、絶対のものとして受け入れる行為だったのだ。
授業が終わった後、フィンは、人気のない廊下で、一人、深くうなだれていた。
(……ダメだ。僕じゃ、アーク兄ちゃんの代わりは、務まらない……)
師が創り上げた理想の学び舎で、自分は、ただの一人も、その心を動かすことができなかった。その無力感が、彼の肩に、重くのしかかっていた。
その姿を見つけたアルフォンスは、フィンの隣に座ると、何も言わず、その背中を、力強く叩いた。
「……フィン。お前は、アークになる必要はない」
アルフォンスは、不器用な、しかし、どこまでも温かい声で言った。
「あいつは、太陽だ。だが、太陽だけじゃ、大地は乾いちまう。雨も必要だし、風も必要だ。お前は、お前のやり方で、彼らの心に、種を蒔けばいい。……焦るなよ、フィン。俺たちのやり方は、時間がかかるんだ」
#### 氷を溶かす歌
その夜、再び開かれた晩餐会は、昨日と同じく、重い沈黙に支配されていた。
アルフォンスは、意を決すると、立ち上がった。
「……エリアス殿。そして、灰嶺の皆さん。俺たちの言葉や、料理が、皆さんの心に届かないのなら。もう一つの、俺たちの『心』を、聞いてもらえないだろうか」
アルフォンスの合図で、ミカエラとリオンが、聖堂から運び込まれたオルガンと、愛用の竪琴の前に、静かに立った。
最初に響いたのは、リオンの竪琴。それは、森の奥深くで、風が若葉を揺らすような、どこまでも自由で、生命の息吹に満ちた旋律だった。
次に、ミカエラのオルガンが、その旋律を、まるで大地が全てを支えるかのように、荘厳で、温かい和音で包み込んでいく。
天を目指す祈りと、大地を巡る喜び。二つの、全く異なる音楽が、ぶつかり合うことなく、互いを尊重し、高め合い、一つの、完璧な『陽だまりの聖歌』となって、ホールを満たしていった。
その歌には、言葉はなかった。
だが、それは、どんな言葉よりも、雄弁に物語っていた。
辺境の、貧しい村の、厳しい冬の記憶。
一人の少年が灯した、小さな希望の光。
仲間たちと共に、汗を流し、笑い合い、時には涙した、国づくりの日々の全てが、そこにはあった。
灰嶺の使節団は、最初は、硬い表情で、その音楽を聞いていた。
だが、やがて、一人の老人が、その節くれだった指で、無意識に、テーブルを叩いてリズムを取り始めた。
エリアスの、固く閉ざされていた瞳が、ゆっくりと閉じられる。その頬を、一筋、彼自身も気づかぬうちに、温かい涙が伝っていた。
彼らの魂は、この歌の中に、自らの故郷の、あの厳しく、しかし、どこまでも気高い、灰色の山の風景を、確かに見ていたのだ。
歌が終わった後、ホールは、しばし、絶対的な静寂に包まれた。
やがて、エリアスが、ゆっくりと立ち上がった。その声は、震えていた。
「……我らが故郷は、厳しい土地です。人々は、歌うことを、笑うことさえも忘れ、ただ、生きるためだけに、日々を過ごしてきた。だが……」
彼は、アルフォンスを、真っ直ぐに見つめ返した。
「その歌は……その旋律は、我らが、とうの昔に忘れてしまっていた、故郷の、本当の『心』の音でした。……盟主殿。どうか、お願いしたい。技術や、物語の前に。我らに、その『歌』を、教えてはいただけないだろうか」
氷が、溶けた。
アルフォンスは、その、あまりにも美しい瞬間に、ただ、胸を熱くしながら、力強く、頷き返した。
#### 黄金の開花
その夜、アルフォンスは、盟主の服をまとったまま、弟が眠る部屋を訪れていた。
窓から差し込む月光が、服に織り込まれた銀の刺繍を、キラキラと輝かせている。
「……どうだ、アーク。見てたか? お前が創った歌が、今日も、奇跡を起こしたぜ。国づくりってのは、剣や斧を振るうだけじゃねぇんだな。……難しい。だが、面白い。最高に、面白いぜ」
彼は、眠る弟に、今日あった全ての出来事を、誇らしげに語り聞かせた。
そして、彼が、枕元の花瓶に、そっと手を触れた、その瞬間。
兄の、誇りに満ちた魂の響きに、そして、遠い地で生まれた、新しい友情の温もりに応えるかのように。
これまで固く閉ざされていた、七枚目となる、**小さな、小さな黄金色の蕾が、まるで夜空に、新しい星が一つ生まれるかのように、音もなく、しかし、完璧な形で、その花弁を、完全に開いたのだ。**
七つの花弁を持つ、完璧な黄金色の花。その中心から、これまでにない、強く、そして、どこまでも優しい生命の光が溢れ出し、部屋全体を、まるで夜明けそのもののような、温かい輝きで満たした。
その光を浴びて、眠るアークの、雪のように真っ白な髪の全てが、一瞬だけ、淡い黄金色にきらめいた。まるで、失われたはずの、本来の色が、その内側から、再び蘇ろうとしているかのように。
アルフォンスは、その、あまりにも神々しく、あまりにも希望に満ちた光景に、息を呑んだ。
弟の目覚めが、もはや、遠い未来の夢物語ではないことを、彼は、その魂で、確かに感じ取っていた。
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