第123話:嘆きの螺旋と、堕ちた熾天使
#### 嘆きの螺旋
偽りの礼拝堂の奥に開かれた扉。その先に広がっていたのは、どこまでも深く、どこまでも暗い、巨大な螺旋階段だった。それは、まるで古の巨人が穿った傷跡のように、大聖堂の地下深くに広がる、広大な円形の奈落の壁面に沿って、下へ、下へと続いていた。
「……ひどい」
ミカエラが、息を呑んだ。
螺旋階段の壁には、無数の石像が、まるで壁の一部であるかのように彫り込まれている。だが、それは聖人像ではなかった。農夫、母親、商人、子供。名もなき、ごく普通の人々の像。その全ての顔が、魂の奥底から絞り出すような、絶望と、苦悶の表情に歪んでいた。
「『悔悛の螺旋』……」ミカエラは、震える声で呟いた。「かつて、教えに背いた異端者が、自らの罪を悔い改めるために歩かされた道。枢機卿様は、この神聖な道を、ただ人を絶望させるためだけの、悪趣味な回廊へと造り変えてしまわれたのです」
そして、何よりも一行の心を蝕んだのは、奈落の底から響き渡ってくる、あの、か細いすすり泣きだった。もはや、それは遠い音ではない。空気そのものを震わせ、骨の髄まで染み渡ってくる、魂への直接攻撃。それは、一行の心の中に、最も聞きたくない幻聴を呼び覚ます。
(お前は、本当に弟を守れるのか? いつも、守られてばかりではないか?)
アルフォンスの脳裏に、囁きが響く。
(お前が信じた光は、偽りだったのだ。お前は、神を裏切った。救いようのない、罪人だ)
ミカエラの耳元でもまた、かつての自分が、冷たく囁きかけていた。
彼は、その声を振り払うように、斧の柄を、ギリッと強く握りしめた。
#### 奈落の番人
どれほどの時を、下っただろうか。
一行は、ついに、螺旋階段の最下層、奈落の底に広がる、円形の広間へとたどり着いた。
その広間の奥。奈落を渡る、唯一の一本道である黒曜石の橋。その中央に、一体の、静かなる影が佇んでいた。
その影は、ミカエラの純白とは対極にある、光すら吸い込むかのような、漆黒の全身鎧にその身を包んでいた。その手には、禍々しいオーラを放つ、黒く、巨大な両手剣。
その、あまりにも異質で、あまりにも強大な気配に、アルフォンスは、全身の産毛が逆立つのを感じた。
だが、ミカエラは、その姿に、戦慄とは違う、深い哀しみにその顔を歪ませた。
「……レジス……卿……?」
それは、かつて、彼女の副官として、誰よりも彼女に忠誠を誓っていたはずの、あの騎士の名だった。
その声に応えるかのように、漆黒の騎士が、ゆっくりと顔を上げた。兜の奥で、かつて傲慢な光を宿していたはずの瞳が、今は、ただ、狂信と憎悪に満ちた、深紅の光を灯していた。
「……その名を、その穢れた唇で呼ぶな、裏切り者ミカエラ」
その声は、歪み、響き、もはや人のものではなかった。彼が纏う純白であったはずの鎧もまた、その内側から滲み出す瘴気によって、禍々しい漆黒へと変色している。
「枢機卿様は、我に、大いなる力を与えてくださった。神の教えを汚す、全ての不浄を断罪するための、聖なる力を! まずは、貴様からだ、ミカエラ! その身に宿る偽りの光ごと、この俺が、浄化してくれる!」
彼は、もはやただの騎士ではない。枢機卿への狂信の果てに、その身を、魂ごと、瘴気の力に捧げた、哀れな**『堕ちた熾天使』**だった。
#### 二つの正義の激突
レジスの巨体が、床を砕かんばかりの勢いで、ミカエラへと突撃する。
その、憎悪に満ちた一撃を、アルフォンスの『陽だまりの心臓』が、火花を散らして受け止めた。
「あんたの相手は、俺だ!」
アルフォンスは、この戦いがミカエラにとっての「過去との決着」であることを、その魂で理解していた。彼の役目は、敵を討つことではない。彼女が、その使命を、その悲しい決着を、誰にも邪魔されることなく果たせるよう、そのための『舞台』を、この身を盾として守り抜くこと。
戦いは、二対一の、熾烈な消耗戦となった。
ミカエラは、かつての同僚の、あまりにも変わり果てた姿に、心を痛めながらも、その聖剣を振るう。
「目を覚ましてください、レジス卿! それは、神の力などではない! あなたの魂を喰らう、ただの呪いです!」
「黙れ、異端者めが!」
レジスの剣が、ミカエラの言葉を、憎悪と共に薙ぎ払う。
アルフォンスは、その、あまりにも重い一撃一撃を、ただ、歯を食いしばり、耐え続けた。だが、レジスの力は、底なしだった。彼の体は、この奈落に満ちる『嘆き』そのものを、動力源としているのだ。
#### 生命の楔
絶望的な戦況。
その中で、アークは、いつもならウルの重みがあるはずの肩に、無意識に触れた。
そして、遥か遠くにいる相棒の魂を感じ、その温もりを力に変えるかのように、静かに決意を固めた。彼は、冷静に、その戦場の「理」を、見抜いていた。
(……レジス卿は、もういない。あれは、嘆きの人形が生み出す、哀しみのエネルギーを増幅させるための、生きた『中継器』だ。だったら、僕がやるべきことは、彼を倒すことじゃない)
「――彼の、偽りの大地との繋がりを、断ち切ることだ!」
アークは、レジスが立つ、黒曜石の橋そのものに、その意識を集中させた。
「**『生命の楔』**!」
次の瞬間、奇跡が起こった。
レジスの足元、無機質な黒曜石の橋、そのものを内側から食い破り、アークが創り出した『生命の道』の、黄金色の根が、眩いばかりの光を放って、噴出したのだ。
根は、レジスを攻撃しない。ただ、その両足を、まるで母親が、熱に浮かされる子を優しく諭すかのように、温かく、そして、抗いがたい力で、包み込んでいった。
奈落の底から、レジスへと流れ込んでいた、禍々しい瘴気の奔流が、その、あまりにも温かい生命の楔によって、完全に、遮断された。
「ぐ……あああああっ!? 我が、聖なる力が……!」
力を失い、よろめ Aduく、ただの騎士。
その、一瞬の隙。
「――今です!」
アークの叫び。
ミカエラは、その好機を、逃さない。
彼女の聖剣が、閃光となって走る。だが、その切っ先は、レジスの命を狙わなかった。
剣は、彼の両手剣を、甲高い音を立てて弾き飛ばし、その勢いのまま、彼の鎧の、全ての関節部を、寸分の狂いもなく打ち据える。ガシャン、という無機質な音と共に、レジスは、その場に膝から崩れ落ち、完全に、その戦う力を失った。
ミカエラは、地に膝をつく、かつての同僚を、深い、深い哀しみの目で見下ろした。その頬を、一筋だけ、温かい涙が伝った。それは、勝利の涙ではない。失われた魂への、あまりにも悲しい手向けの涙だった。
「……レジス卿。どうか、安らかなる沈黙の中で、真なる神の光を」
静寂。
そして、その背後で、これまで固く閉ざされていた、最後の扉が、ゴゴゴゴゴ……と、地響きを立てて、ゆっくりと、その重い口を開き始めた。
扉の奥。
どこまでも続く、暗闇の、その中心。
一つの、小さな玉座の上に、静かに座る、老人の影。
そして、その膝の上で、世界を泣かせ続ける、幼子の、か細い、か細い、すすり泣く声が、確かに、聞こえていた。その声が響いた瞬間、英雄たちの魂を奮い立たせていたはずの闘志の炎が、まるで冷たい水でも浴びせられたかのように、急速に萎んでいくのを、誰もが感じていた。
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