第122話:偽りの礼拝堂と、聖者の涙
#### 魂なき聖域
巨大な神の門が、アークの理に従い、ゆっくりと開かれていく。
三人の英雄が足を踏み入れた先に広がっていたのは、彼らの想像を、あらゆる意味で超越した空間だった。
そこは、あまりにも巨大で、あまりにも静謐な、大聖堂の身廊。天高くそびえる天井は、まるで夜空そのものを模したかのように、紺青色に塗られ、無数の銀の星々が描かれている。だが、その星々から降り注ぐ光は、どこまでも冷たく、生命の温もりというものを、一切感じさせなかった。
「……ひどい」
最初に、その違和感を口にしたのは、ミカエラだった。その声は、悲しみと、静かな怒りに震えていた。
「私が知る大聖堂は、もっと……陽光に満ち、人々の祈りの声で、温かい場所に満ちていたはずなのに……」
(違う。これは、私が祈りを捧げた場所ではない。神の慈悲ではなく、ただ、人を裁くためだけの、冷たい石の牢獄……)
彼女の言う通りだった。壁を彩る壮麗なステンドグラス。そこに描かれているのは、神々の慈悲の物語ではない。教えに背いた異端者が、業火に焼かれる様や、許しを乞う罪人が、聖者の足元で涙を流す、一方的な断罪の光景ばかりだった。
通路に並ぶ聖人たちの石像もまた、その顔に、慈愛の笑みはない。ただ、罪深き人間を、冷たく見下すかのような、絶対零度の侮蔑の表情を浮かべていた。
ここは、神殿ではない。
枢機卿ベネディクトゥスが創り上げた、**『恐怖』と『秩序』**だけを信仰させるための、巨大な、魂なき聖域だった。
#### 聖者の涙
一行が、その異様な空間を、警戒しながら進んでいく。
やがて、彼らの行く手を、一つの、ひときわ荘厳な礼拝堂が遮った。その奥にある扉だけが、次へと続く、唯一の道のようだった。
三人が、その礼拝堂へと足を踏み入れた、瞬間。
これまで固く閉ざされていた入り口が、背後で、ゴウ、と重い音を立てて、完全に閉ざされた。
そして、礼拝堂の壁際に並んでいた、八柱の精霊を模した聖人像の、その石の瞳が、一斉に、冷たい蒼い光を灯した。
『――神の家に、土足で踏み入る、愚かなる者よ』
天井から、まるで神の神託のように、枢機卿ベネディクトゥスの、感情のない声が響き渡る。
『汝らが信じる光が、真に聖なるものであるならば。我が聖人たちが流す、この『涙』の前でも、その輝きを保ち続けられるか、試すがよい』
その言葉と共に、八体の聖人像の、その石の瞳から、ぽつり、ぽつりと、一筋の、透き通った液体が流れ落ち始めた。
だが、それは、ただの涙ではなかった。
『嘆きの人形』が奏でる、魂を殺す呪詛そのものが、凝縮された**『聖者の涙』**。
涙が、磨き上げられた大理石の床に落ちた瞬間、その一点から、まるで黒いインクが染み込むように、生命力を失った、絶望の灰色が広がっていく。
礼拝堂は、瞬く間に、足の踏み場もない、死の涙に満たされた、絶望の池へと姿を変えた。
「くっ……!」
アルフォンスが、その灰色の染みに、斧の先端を僅かに触れさせただけで、まるで魂の一部を削り取られたかのように、顔を歪めた。
これは、物理的な攻撃ではない。ただ、そこに存在するだけで、生きる者の『希望』を、根こそぎ奪い去っていく、絶対的な精神攻撃。
一行は、完全に、この偽りの礼拝堂に、閉じ込められたのだ。
#### 三つの誓い
「……アルフォンス様!」
ミカエラが、叫ぶ。彼女の、聖なる力ですら、この、神の威光を笠に着た、純粋な『悪意』の前では、ただ、かろうじて身を守るので精一杯だった。
絶望的な状況。だが、アークは、静かだった。
彼は、兄とミカエラに、静かに語りかけた。
「大丈夫。これは、僕らを殺すための罠じゃない。僕らの『覚悟』を、試しているだけだ。僕らが、何のために、ここに立っているのか。その『理』を、この偽りの聖域に、叩きつければいい」
アークは、まず、兄に向き直った。
「兄さん。君が、その手に握る斧と盾は、何のためにある?」
アルフォンスは、一瞬、息を呑んだ。だが、彼は、もはや迷わない。彼は、ダグが魂を込めて打ち上げた『陽だまりの心臓』を、その胸の前に、力強く掲げた。
「決まってる! 俺の背後にある、全ての陽だまりを、そこに生きる仲間たちの、笑い声を、守るためだ! **俺の理は、『守護』!**」
その魂の叫びに呼応し、盾の紋章が、黄金色の、不屈の光を放った。その光に触れた『聖者の涙』が、ジュウ、と音を立てて蒸発していく。
次に、アークは、ミカエラへと向き直った。
「ミカエラさん。君が、その手に取り戻した剣は、誰のために振るう?」
ミカエラは、静かに、その白銀の聖剣を見つめた。脳裏に、かつて自らが信じた、冷たいだけの正義が蘇る。だが、彼女は、それを、力強く振り払った。
「私は、もはや、天の神のためには戦いません。地に生きる、迷える人々の魂を、偽りの教えから解放し、真なる救済へと導くために! **我が理は、『解放』!**」
彼女の聖剣が、これまでとは比較にならない、慈愛に満ちた、白銀の輝きを放ち、周囲の絶望を薙ぎ払った。
そして、最後に。八体の聖人像の、全ての視線が、アーク、ただ一人へと注がれた。
アークは、静かに、その場に膝をつくと、絶望の灰色に染まった、死せる大理石の床に、そっと、その小さな手を置いた。
彼の唇が、この聖域の、最後の理を、静かに、紡ぎ出した。
「――僕の理は、**『創造』**」
「**この、絶望に涙する、冷たい石の上にすら、陽だまりの花を、咲かせること**」
次の瞬間、アークの手のひらから、生命そのものと言うべき、深緑の光が、溢れ出した。
彼の手が触れた、その一点から。
死せる大理石を、内側から食い破り、一本の、あまりにも美しく、あまりにも気高い、黄金色の百合が、瞬く間に、その花を咲かせたのだ。
その花から放たれた、温かい生命力の波動は、どんな聖なる光よりも強く、どんな絶望の闇よりも深く、この偽りの礼拝堂の全てを、優しく、満たしていった。
パキィィィィィンッ!
一体の聖人像に、亀裂が走る。
それを皮切りに、八体の、偽りの聖人たちは、自らが流した絶望の涙に耐えきれず、次々と、その神聖な仮面を砕け散らせていった。
静寂。
そして、礼拝堂の奥、固く閉ざされていた扉が、ゴゴゴゴゴ……と、重い音を立てて、ゆっくりと、開かれていった。
三人の英雄は、その先に広がる、さらに深く、さらに暗い、神殿の闇を見据えた。
耳を澄ませば、聞こえる。
遥か奥から響いてくる、幼い子供の、か細い、すすり泣く声が。
「……行こう」
アークが、静かに告げた。
「あの子を、迎えに」
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