第119話:嘆きの雨と、陽だまりの防衛線
#### 世界が色を失う日
その異変は、何の変哲もない宿場町で、静かに始まった。
空を覆っていた灰色の雲から、ぽつり、ぽつりと、冷たい雨が降り始めたのだ。だが、それは、大地を潤す恵みの雨ではなかった。
雨粒が肌に触れた瞬間、魂の芯まで凍てつくような、理由のない『哀しみ』が、じわりと心を侵食していく。
希望、夢、愛情。人の心を温めていた全ての光が、この、冷たい『嘆きの雨』に濡れて、次々と、消えていく。
活気に満ちていた市場の喧騒は、意味のない雑音に変わった。畑を耕していた農夫は、その鍬を、力なく手放した。愛しい我が子を抱きしめていた母親は、その腕の中で、理由もなく、ただ静かに涙を流し始めた。
それは、枢機卿ベネディクトゥスが解き放った、古の聖遺物『嘆きの人形』が奏でる、魂を殺すための、静かなる鎮魂歌だった。
#### 最前線からの絶叫
その、魂の疫病は、アークが蒔いた『希望の種』をこそ、最も苛烈に蝕んでいった。
西方の職人公国では、フィンの青空教室から子供たちの笑い声が消え、ただ、か細いすすり泣きだけが響いた。南方の穀倉地帯では、『黄金の再誕』計画の槌音が完全に止み、職人たちが、ただ虚ろな目で、灰色に染まっていく空を見上げているだけだった。
そして、王都に最も近い場所で、教会の闇を探っていた老賢者ローランは、その異変を、誰よりも早く、そして正確に察知していた。
「……これは、ただの魔法ではない。世界の理そのものに干渉する、呪詛だ……!」
彼は、銀月商会の秘密の伝令を使い、震える手で、ただ一言だけの、絶望的な警告を、北の地へと送った。
『――世界ガ、泣イテイル』
#### 創造主の診断
陽だまりの街は、まだ、その雨の影響下にはなかった。だが、アークの書斎には、大陸全土から集められた絶望が、渦を巻いていた。
「……これが、教会の、本当の力……」
アルフォンスが、その、あまりにも理不尽で、抗いようのない攻撃に、唇を噛み締める。
「アーク様……」
ミカエラが、顔面を蒼白にさせながら、震える声で語り始めた。
「その『嘆きの人形』は、古の禁忌に触れる聖遺物。(……まさか、枢機卿様は、本気でこれを…! 教会の闇の、その最深部に封印されていたはずの、決して人の世に解き放ってはならぬ、神すら恐れた呪詛を…!)伝えによれば、遥か昔、大陸を襲った大疫病で死んだ、数千の民の『嘆き』そのものを、一体の人形に封じ込めたもの、と……。それは、肉体を殺すのではありません。魂の中に宿る『希望』を殺し、生きる意志そのものを、根こそぎ奪い去るのです」
アークは、静かに、その説明を聞いていた。
そして、彼は、椅子から立ち上がると、仲間たちと共に、街の中心、今や見上げるほどに成長した、二本の世界樹の若木が立つ、聖域へと向かった。
彼は、その、白銀の幹に、そっと、両手で触れた。
そして、自らの魂を、この星の、生命のネットワークそのものと、完全に同調させる。
「**『世界樹の脈動』**!」
アークの意識が、光となって、大陸全土へと、瞬時に広がった。
彼の視界に、この星の、もう一つの顔が映し出される。生命の輝きで脈打つ、美しい緑色の龍脈のネットワーク。
だが今、その美しいネットワークを、一つの、巨大な**『癌』**が、蝕んでいた。
王都の大聖堂を中心として、灰色の、カビのような汚染が、龍脈を伝い、猛烈な勢いで広がっている。それは、生命の輝きを喰らい、その場所を、絶望の灰色へと、染め上げていく。
彼は、見た。灰色の汚ensonに覆われた街で、人々が、光を失った瞳で、ただ、雨に打たれている姿を。
そして、その汚染の、最も濃い中心。大聖堂の地下深くで、一体の、小さな人形が、世界の全ての哀しみをその身に凝縮したかのように、黒い涙を流し続けている姿を。
#### 陽だまりの防衛線
アークは、ゆっくりと、目を開いた。
その、二色の瞳には、世界の哀しみを全て背負ったかのような、深い、深い慈愛と、それを弄ぶ者への、絶対零度の怒りが、同時に宿っていた。
「……これは、僕らが戦うべき呪いじゃない。僕らが、癒やすべき『傷』だ」
彼は、書斎に戻ると、仲間たちに、揺るぎない声で、告げた。
「このままでは、数日のうちに、嘆きの雨は、この陽だまりの街にも降り注ぐ。僕らは、防衛線を張る」
アークは、大陸地図を広げると、その上に、新たなる『設計図』を、描き始めた。
「第一に、**『希望の灯台』**。カエランさん、フィン。あなた方に託した『聖浄樹の種子』を、今すぐ、その土地の中心に植えてください。それは、大陸全土を覆う絶望の闇の中に、僕らの陽だまりの光を灯し続ける、反撃の狼煙となる灯台です」
「第二に、**『魂の予防接種』**。ディアナさん。大陸中に広がる『風の譚詩曲』の歌い手たちに、伝えてください。嘆きを歌うのではなく、希望を歌え、と。僕らの歌は、この哀しみの雨に対する、魂の予防接種です。人々の心が、完全に折れてしまわないための、最後の防波堤になる」
「そして、最後に」
アークは、その二色の瞳で、兄アルフォンスと、聖女ミカエラを、真っ直ぐに見据えた。
「この雨を止める方法は、ただ一つ。その源泉を、破壊する。――兄さん、ミカエラさん。僕と、三人で、王都へ行きます」
「カエルさんには、ローランさんと合流し、僕らのための『道』を確保してもらいたい。僕らは、もう、隠れない」
(これまでは、隠れてきた。事を荒立てないように、静かに、と。だが、もう違う。奴らが、僕の仲間たちの心を、僕が創った陽だまりを、正面から踏みにじった。ならば、こちらも、礼儀を尽くして、正面から挨拶に行くまでだ)
彼は、地図の上、王都にそびえ立つ、大聖堂の絵を、力強く、指で叩いた。
「――僕らは、あの偽りの神殿の、正面の扉を、蹴破る」
それは、思想戦の終わり。
そして、世界の運命を賭けた、最後の戦いの、あまりにも力強い、宣戦布告だった。
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