第117話:焚書令と、物語の火種
#### 陽だまりの波紋
『陽だまりの騎士の譚詩曲』。
その、たった一冊の小さな本が、大陸に投じた波紋は、アークの想像すら遥かに超える速度で、世界を静かに、しかし、確実に揺らし始めていた。
ディアナの銀月商会が張り巡らせた交易路に乗り、その物語は、まず各国の王侯貴族や有力者たちの元へと届けられた。彼らは、その圧倒的な印刷技術と、辺境の英雄の胸躍る物語に感嘆し、こぞって『陽だまりの街』とのさらなる関係強化を望んだ。
だが、本当の変化は、その下で、もっと静かに、もっと温かく広がっていた。
ディアナの計らいで、いくつかの複製が、吟遊詩人や旅芸人の手に渡ったのだ。
レナトゥス王国の中央に位置する、ごく平凡な宿場町。
その日の夕暮れ、町の広場は、仕事を終えた人々や、目を輝かせる子供たちで、ごった返していた。
広場の中心で、一人の旅の吟遊詩人が、真新しい本を片手に、その物語を、熱を込めて語り聞かせている。
「――その騎士の盾は、ただ硬いだけではなかった! 仲間を、故郷を、そして、そこに生きる人々の笑顔を守りたいという、温かい想いそのものが、鋼鉄の盾となっていたのだ!」
子供たちは、固唾を飲んで物語に聞き入り、大人たちは、飢えと重税に喘ぐ自分たちの日常を忘れ、その英雄譚に、一時の夢を見ていた。物語は、人々の乾いた心に、希望という名の、小さな火を灯していた。
#### 聖者の仮面
その、温かい光景を、無慈悲に引き裂いたのは、突如として広場に響き渡った、鉄の蹄の音だった。
広場を包囲したのは、白亜の鎧に身を包んだ、精霊教会の神殿騎士団。その瞳には、一切の感情が読み取れない。
その中心で、馬から降り立った一人の聖職者が、蛇のように冷たい目で、吟遊詩人と、彼が持つ本を見つめた。
「――異端の書である」
静かだが、有無を言わさぬ声が響く。
「神々の教えではなく、人の子の、矮小なる武勇を讃える、傲慢なる物語。民の魂を惑わし、秩序を乱す、最も危険な毒である。真なる神の御名において、この書を、この場にて浄化する!」
聖職者の号令と共に、騎士たちが、子供たちの手から、商人たちの荷から、全ての『譚詩曲』を乱暴に奪い取り、広場の中央に積み上げていく。
そして、一本の松明が、その山へと、無慈悲に投げ込まれた。
ゴウッ、と。
炎が、夜空を焦がす。
ついさっきまで、子供たちの瞳を輝かせていた英雄の物語が、ページが、挿絵が、黒く焼け焦げ、無惨な灰となって、夜空へと舞い上がっていく。
子供たちの、純粋な憧憬は、恐怖と涙に変わり、大人たちは、絶対的な権威の前に、ただ、なすすべもなく、うつむくしかなかった。
一人の少年が「返してよ!」と騎士の足元にすがりつくが、無慈悲に蹴り飛ばされる。その光景に、父親は拳を握りしめるが、隣に立つ妻子の震える肩を抱き寄せることしかできない。
吟遊詩人は、「神への反逆者」として、その場で捕縛された。(なぜだ? 私はただ、子供たちに勇気の物語を語っただけなのに…)彼の魂の叫びは、誰の耳にも届くことなく、闇の中へと連れ去られていった。
教会は、その圧倒的な力で、陽だまりの光を、恐怖の闇で、完全に塗りつぶしてみせたのだ。
その日、大陸中の全ての街で、同じ光景が、まるで統率された儀式のように、繰り広げられていた。精霊教会による、大いなる『浄化』――**焚書令**の始まりだった。
#### 共犯者たちの戦場
その報せは、瞬く間に、ザターラと、陽だまりの街にも届けられた。
ディアナの執務室。彼女は、大陸各地から送られてくる、焚書の報告書を前に、その美しい顔を、絶対零度の怒りに凍てつかせていた。
「……面白い。面白いじゃありませんか、枢機卿ベネディクトゥス。わたくしの、完璧な市場戦略を、これほど見事に、真正面から叩き潰してくださるとは」
彼女の銀色の瞳に、もはや商人の計算はない。自らの完璧な市場戦略を土足で踏みにじられた商人としての怒り。そして何より、自らが認めた唯一無二の共犯者の魂の結晶を汚されたことへの、絶対的な闘志の炎が燃え盛っていた。
陽だまりの街の書斎。
アークと、その仲間たちが、ディアナからの報告を、厳しい表情で聞いていた。
「ふざけやがって……!」
アルフォンスが、拳を机に叩きつけた。「俺たちの物語を、灰にしただと!? 今すぐ王都に乗り込んで、奴らの……!」
その、あまりにも熱い正義を制したのは、ミカエラの、静かで、しかし、誰よりもその本質を理解した声だった。
(……これが、私がかつて信じた『正義』の、本当の姿。なんと、醜悪で、なんと、哀しい…)
彼女は、心の内で湧き上がる痛みを押し殺し、仲間たちに、冷徹な事実を告げた。
「……それが、彼らの戦い方なのです。教会は、まず、魂を殺します。彼らは、この世界の『物語』を、数千年にわたって支配してきました。神々の物語、聖人の物語。その、絶対的な物語の前に、人の子の物語など、存在してはならないのです。本を焼くことで、彼らは、あなた方の物語を『無かったこと』にし、代わりに、『異端』という、彼らが望む物語を、世界に植え付けようとしているのです」
#### 物語の火種
全ての視線が、静かに盤面を見つめる、アークへと集まった。
アークは、しばらく、窓の外に広がる、平和な街並みを見つめていた。そして、ゆっくりと振り返ると、その口元に、不敵な、そして、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
「……彼らは、勘違いしているみたいだね」
「物語は、紙の上にだけあるものじゃない。物語は、人の心の中にこそ、生きているんだ」
彼は、仲間たちを見回し、この、新たなる戦争に対する、完璧な『逆襲の設計図』を、まるでチェス盤に、静かに、しかし確実に王手をかける駒を置いていくかのように、一つ、また一つと語り始めた。
「第一に、**物語を、歌にする**。本が焼かれるなら、歌を創ればいい。歌は、燃やせない。風に乗り、人の唇を伝い、どんな壁をも越えていく。リオン殿、エルフの皆さんの力を貸してください。世界中の誰もが口ずさみたくなるような、最高の『英雄の譚詩曲』を」
「第二に、**英雄を、旅させる**。物語が偽りだというなら、本物の英雄が、人々の前に姿を現せばいい。カエランさん、フィン、そして、ローランさん。あなた方に、僕の代理人として、大陸中の街を巡ってほしい。新しい農業技術を教え、子供たちに文字を教え、そして、焚き火を囲みながら、あなた方自身の言葉で、この陽だまりの物語を、語り聞かせてあげてほしい。生きた物語の力は、どんな教会の権威よりも強いはずだ」
「そして、最後に」
アークの、二色の瞳が、キラリと、悪戯な光を宿した。
「教会が、僕らの本を燃やすというのなら……**僕らは、世界中に、本を燃やすための『火』を、配って歩こう**」
彼は、一枚の、新しい設計図を広げた。そこに描かれていたのは、これまでの巨大な印刷機ではない。荷馬車で、簡単に運べるほど、小型で、簡素な、**『移動式ミニ印刷機』**だった。
「ディアナさん。この設計図を、あなたの秘密のルートで、大陸中の、信頼できる仲間たちの元へ届けてほしい。僕らは、もう、陽だまりの街だけで本を刷らない。世界中の、全ての街角を、僕らの工房に変えるんだ。教会が、巨大な一つの『聖典』で世界を支配しようとするなら、僕らは、無数の、名もなき人々の『物語』で、世界を埋め-尽くす。中央集権的な情報統制に対する、僕らなりの答えだよ。一つ燃やされれば、十の場所で、新しい物語が生まれる。教会が、全ての火を消しに回っている頃には、大陸は、もはや、物語の、燎原の火に包まれているだろう」
それは、あまりにも大胆不敵で、あまりにも鮮やかな、思想戦の宣戦布告だった。
アルフォンスは、その、弟の、悪魔的なまでの知略に、呆れながらも、心の底から誇らしげに笑った。
アークは、窓の外の、どこまでも続く世界を見据えた。
「彼らは、僕らの物語に、火をつけた。……面白いじゃないか」
「――その火が、やがて、自分たちの足元を燃やし尽くす、巨大な『火種』になることを、教えてあげよう」
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