第116話:最初の読者と、静かなる波紋
#### 陽だまりの贈り物
工房は、インクの真新しい匂いと、紙の温かい手触り、そして、歴史が動く瞬間に立ち会った者たちだけが分か-ち合える、静かな興奮に満ちていた。
『陽だまりの騎士の譚詩曲』。
その、記念すべき最初の百冊が、美しい山となって、工房の中央に積まれている。それは、もはやただの印刷物ではない。この街の、全ての仲間たちの汗と、誇りと、そして、未来への祈りが込められた、魂の結晶だった。
「……さて、ディアナさんやヴォルコフ侯爵には、見本として数冊送るとして。残りは、どうする、アーク? ザターラの市場で売れば、それこそ金貨の山になるだろうが」
ダグが、自らが作り上げた印刷機を、満足げに撫でながら尋ねる。
だが、アークは、穏やかに首を横に振った。
「ううん。この、最初の物語は、売らないよ」
彼は、積まれた本の中から、一番最初に刷り上がった、まだインクの香りが強い一冊を、大切そうに手に取った。
「この物語の、本当の価値を知っている人たちに、最初に読んでほしいんだ。お金のためじゃない。未来のための、最初の『種蒔き』としてね」
その日の午後。
『ライナス・アカデミー』の、陽光が満ちる大きな教室は、子供たちの、ざわめきと好奇心で、はちきれそうになっていた。
教壇に立つのは、若き学長フィンと、創造主アーク。
そして、その後ろの壁際に、アルフォンスが、落ち着かない様子で、腕を組みながら立っている。
アークは、集まった子供たちの、キラキラとした瞳を、一人ひとり見つめながら、静かに語り始めた。
「みんなは、英雄の物語が好きかな? 遠い国を救った王様や、悪いドラゴンを退治した、伝説の騎士様の物語。でもね、今日、みんなに読んでもらうのは、そんな、遠い世界の人の話じゃないんだ」
彼は、その手に持った本を、高々と掲げた。
「これは、僕らの街の、僕らのすぐ隣にいる、一人の、とても優しくて、とても強い『お兄ちゃん』の物語だよ」
アークの言葉と共に、フィンとアカデミーの先生たちが、子供たち一人ひとりに、その、真新しい本を、手渡していく。
子供たちは、生まれて初めて、自分だけの『本』という宝物を手にして、息を呑んだ。貴族の子供しか手にできないと聞かされていた、あの、魔法の塊。その、すべすべとした紙の手触り、美しい挿絵、そして、整然と並んだ、不思議な文字の森。
#### 英雄の誕生
最初は、静かだった教室が、やがて、小さな声で、物語を読み始める音で満たされていく。
一人の、まだ文字を覚え始めたばかりの、小さな男の子が、隣の席の上級生に助けてもらいながら、たどたどしく、しかし、熱を込めて、その一節を読み上げた。
「――くろがねの、きしは、たった、ひとりで、たちむかった。その、せなかには、たいせつな、なかまたちの、いのちがあったから……」
その、あまりにも純粋で、あまりにも真っ直ぐな声。
壁際で、その声を聞いていたアルフォンスの肩が、微かに震えた。
(……やめろよ。そんな、大げさなもんじゃ、ねぇだろ……)
照れくささと、誇らしさが入り混じった、経験したことのない感情が、彼の胸を熱くする。
やがて、物語がクライマックスに差し掛かる。
教室のあちこちで、子供たちが、挿絵に描かれた、斧を構える英雄の姿に、感嘆の声を上げた。
「すげぇ……! アル兄ちゃんだ!」
「かっこいい……! 僕も、アル兄ちゃんみたいに、強くなれるかな!」
その、憧憬に満ちた、無垢な瞳が一斉に向けられ、アルフォンスは、ついに耐えきれず、顔を真っ赤にしながら、そそくさと教室を逃げ出していった。
だが、彼の心の中には、確かな、そして、どこまでも温かい一つの感情が、確かに芽生えていた。
(俺は、英雄なんかじゃない。だが……この子供たちの目に映る『英雄』を、裏切るわけにはいかねぇ。それこそが、アークが俺に託した、剣や斧とは違う、新しい『盾』の形なのかもしれない)
英雄とは、ただ敵を倒す者ではない。未来を担う子供たちに、夢と、勇気を与える、最初の道標なのだ、と。彼は、自らが、そのあまりにも重く、尊い役割を弟によって与えられたことを、ようやく心の底から受け入れた。
#### 共犯者の波紋
その、同じ頃。
遥か遠く、中立都市ザターラの、銀月商会本店。
ディアナ・シルバーは、届けられたばかりの『陽だまりの騎士の譚詩曲』を、商人としての、冷徹な目で検分していた。
(……紙の質、インクの乗り、そして、何より、この圧倒的な製造コストの低さ。これは、もはや『商品』ではないわ。**『文化』そのものを、根底から作り変える、規格外の兵器**よ)
(……ふふ、面白い。アーク様は未来への『種蒔き』と言ったけれど、わたくし流に言わせてもらえば、これは最高の『市場独占』のための布石よ。無料で配り、先に文化的な影響力を完全に掌握する。喉が渇いてから井戸を掘る愚かな競合相手には、もはや一滴の水も分け与えない)
彼女は、傍らに控える腹心の密偵、セリナを呼び寄せると、静かに、しかし、有無を言わさぬ口調で、いくつかの命令を下した。
「この本を、我が商会の全ての交易路に乗せ、大陸中の全ての街へ、届けなさい。ただし、売り物としてではありません。『陽だまりの街からの、新たなる時代の贈り物』として、まずは、全ての支配者層へ、無料で配布するのです」
「そして、セリナ。あなたには、特別な配達をお願いしたいわ」
ディアナは、ひときわ美しく装丁された数冊を、彼女に手渡した。
「各国の王族、有力貴族、そして……」
彼女は、最後の一冊を、まるで、最も危険な毒薬でも扱うかのように、指先でつまみ上げた。
「レナトゥス王国の、王都大聖堂。その、最も高い場所に座しておられる、**枢機卿様**の元へも、ね。……さて、古き神々は、この、人の子が創り出した、新しい『聖典』を、どう読まれるかしら」
その美しい唇に、最高のゲームの始まりを告げる、獰猛な三日月の笑みが浮かんだ。
#### 静かなる聖域の、黒き波紋
数週間後。
レナトゥス王国の王都、大聖堂。
その、最も奥深くにある、一般の信徒は決して足を踏み入れることのできない、巨大な禁書庫。そこに、一人の老人が、静かに佇んでいた。
枢機卿ベネディクトゥス。精霊教会の、事実上の最高権力者。
彼の前には、ディアナが送り届けた、一冊の『陽だまりの騎士の譚詩曲』が、開かれていた。
彼は、その物語を、一切の表情を変えることなく、読み終えた。
そして、ゆっくりと、その本を閉じた。
パタン、という、乾いた音が、神の沈黙を支配する聖域に、不吉に響き渡った。
(……なんと、悍ましい)
彼の、古木の如き顔に、初めて、深い、深い嫌悪の色が浮かんだ。
(神の教えは、教会という神聖なる『器』を通じてのみ、民に与えられるべき秩序。この本は、その秩序を破壊し、民に、自ら考えるという『傲慢』と、身分を弁えぬ『勇気』を与える、最も危険な思想の毒だ。そして、この毒を無限に複製する、悪魔の機械……)
彼は、全てを理解した。
『奇跡の聖庭園』を崩壊させた、あの忌まわしき『陽だまりの力』。
自らの最強の剣であったはずの『熾天使』を堕落させた、あの『陽だまりの村』。
その全てが、今、この一冊の本へと繋がり、一つの、巨大な「神への反逆」の設計図として、彼の前に、その悍ましい姿を現したのだ。
彼は、その本を、まるで汚物でも掴むかのように手に取ると、その、老齢とは思えぬ握力で、ゆっくりと、握り潰した。
ミシミシと、紙と背表紙が悲鳴を上げる。
彼の、昏く、深い瞳の奥で、絶対的な、そして、一切の慈悲もなき『正義』の炎が、静かに、しかし、確かに燃え上がっていた。
「……偽りの英雄が紡ぐ、偽りの物語の時代は、終わらせねばなるまい」
彼の、低い声が、静寂の禁書庫に、冷たく響き渡った。
「――真なる神の御名において、大いなる**『浄化』**を、始めるとしよう」
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