第114話:豊かさの代償と、文化の設計図
#### 陽だまりの黄昏
あれから、一年。
鉄鷲公国との戦いが、まるで遠い昔の御伽噺のように感じられるほど、大陸には穏やかな、しかし、確かな変革の季節が訪れていた。
自由都市『陽だまりの街』。
かつて辺境と呼ばれたその場所は、今や大陸中から、様々な目的を持つ人々が集まる、希望の坩堝と化していた。
アークが十歳の誕生日を迎えたその日、彼は一人、アカデミーの最も高い塔の上から、自らが創り上げた街並みを、静かに見下ろしていた。
街は、生きている。
『南方陽だまり連合』から訪れた商人たちの活気ある声。ダグの工房で、南方訛りの弟子たちが、北の若者たちと技術を競い合う、力強い槌の音。ミカエラの教会から流れる、人間とエルフの子供たちが共に歌う、澄み切った聖歌。
兄アルフォンスが率いる『聖域騎士団』の、頼もしい巡回の足音。
全てが、完璧な調和を保っていた。
飢えは、この大陸から、ほぼ根絶された。アークが夢見た、理想の世界。そのものが、確かに、ここにあった。
だが、アークの、深緑と白銀が混じり合う瞳には、満足の色だけではなく、新たな時代のうねりを見通す、賢者の憂いが、微かに宿っていた。
(飢えを克服した世界は、次に、どこへ向かうのだろう)
彼は、アカデミーの庭で、満腹のまま、ただぼんやりと空を見上げる子供たちの姿に、その答えのない問いを、重ねていた。
#### 西からの来訪者
その、穏やかな黄昏を破るように、一人の来訪者が、領主の館の門を叩いた。
男の名は、マルクス・ヴォルコフ。大陸の西方、鉱物資源と、大陸一の職人たちの技で知られる、職人気質の国『西方職人公国』を束ねる、壮年の侯爵だった。
書斎に通された彼は、アークの父ではなく、その隣に静かに座る、まだ幼さの残るアークの姿を認めると、その、鋼のように鋭い瞳で、真っ直гуに、値踏みするように見つめた。
「……貴殿が、この奇跡の街を創り上げたという、若き創造主、アーク・ライナス殿か」
その声には、媚びも、侮りもない。ただ、本物を見極めんとする、職人の棟梁のような、揺るぎない響きがあった。
「単刀直入に問おう。貴殿は、この大陸を、飢えから救った。だが、その結果、我ら西方の国は、今、静かに死につつある」
ヴォルコフ侯爵が語ったのは、豊かさがもたらした、新たなる『病』だった。
「食糧の価値が暴落し、我が国の鉱石や武具との交易バランスは、完全に崩壊した。だが、それよりも深刻なのは、人の心だ。若者たちは、苦しく、根気のいる職人の道を捨て、ただ、腹を満たすだけの、安易な日々に流れ始めている。何百年と受け-継がれてきた、我が国の誇りである『技』が、今、まさに途絶えようとしているのだ」
彼は、深く、頭を下げた。
「アーク殿。貴殿は、世界に、腹を満たす術を教えた。……ならば、教えてはくれまいか。その、満たされた腹で、空っぽになった魂を満たす術を」
その、あまりにも哲学的で、あまりにも根源的な問い。
アークは、心の中で静かに頷いた。(来たか。僕が、この一年、ずっと考えていた問いだ。飢えを克服した世界が、次に向き合わなければならない、本当の壁……!)
#### 文化の設計図
アルフォンスやローランが息を呑む中、アークは、その挑戦的な問いを、まるで待ち望んでいたかのように、静かな笑みで受け止めた。
「……面白い。ええ、もちろん、そのための設計図も、ありますよ、ヴォルコフ侯爵」
アークは、侯爵を、アカデミーの、さらに奥にある、一つの巨大な工房へと案内した。
そこでは、ダグと、エルフの工匠たちが、何やら巨大な、しかし、驚くほど精巧な『木の機械』を、秘密裏に組み上げている最中だった。
「侯爵。飢えがなくなった世界で、人々に与えられたもの。それは、**『時間』**です。僕が次に創りたいのは、その、あまりにも長大で、時に人を怠惰にさせる『時間』を、最高の喜びに変えるための、文化そのものですよ」
アークが、工房の片隅に積まれた、あるものを指し示す。
それは、雪のように白く、絹のように滑らかな、『ライナス和紙』の山だった。
「まず、**『器』**を創る。知識と、物語を、安価に、そして大量に、人々の手へ届けるための器。それが、この紙です」
そして、彼は、ダグたちが組み上げていた、巨大な機械の前に立った。
「次に、**『翼』**を創る。その器に、同じ知識、同じ物語を、寸分違わぬ形で、瞬く間に写し取り、世界中へと羽ばたかせるための翼。――ダグさん、見せてあげて」
「へっ、任せとけ!」
ダグが、誇らしげに、機械の一部を覆っていた布を取り払う。
そこに現れたのは、無数の、小さな木のブロックが、整然と並べられた、一枚の板だった。一つ一つのブロックには、アークが考案した、美しい文字が刻まれている。
それは、世界の歴史を、根底から覆す、あまりにも偉大な発明。**『木製活版印刷機』**だった。
「……これは……!」
ヴォルコフ侯爵は、その、あまりにも単純で、あまりにも革命的な発想に、戦慄した。
(同じものを、寸分違わぬ形で、無限に……? 馬鹿な! それは、神の領域! 我ら職人が、一生をかけて追い求める『一点物』の価値観を、根底から覆す……いや、違う! これがあれば、最高の『一点物』を生み出すための設計図を、万の職人に、同時に授けることができる! これは、技の『独占』ではない。技の『解放』だ!)
アークは、その驚愕を、楽しむかのように続けた。
「そして最後に、最も重要な、**『魂』**を創る。この翼に乗せて、世界中に届ける、中身そのものです」
「ローランさんの、失われた歴史の物語。アルフォンス兄さんの、胸躍る冒険譚。ミカエラさんの、新しい時代の教え。エルフたちが紡ぐ、魂を揺さぶる詩。セーラさんの、人々を笑顔にする、料理の記録。僕らの陽だまりに生まれた、全ての『物語』を、僕らは、本という形にして、世界中に届けるんです」
その言葉に、傍らで聞いていたアルフォンスが、誇らしげに胸を張り、ローランが、自らが紡ぐ歴史が世界に届く未来を思って、その目に深い感動の色を浮かべた。ダグは「へっ、俺の槌の音まで物語になるってのかよ」と、照れくさそうに頭を掻いていた。
#### 新たなる盟約
ヴォルコフ侯爵は、完全に、言葉を失っていた。
彼が求めたのは、経済の立て直しだった。だが、目の前の少年が提示したのは、文化による、世界の再創造そのものだった。
彼は、瞬時に理解した。次に世界を制するのは、剣でも、金でもない。この、**『物語』を制する者**だと。
「……アーク殿。いや、アーク様」
侯爵は、その場に深く膝をつくと、まるで王に誓うかのように、震える声で言った。
「……我が国には、大陸最高の職人たちがおります。その技を、どうか、あなたの、その偉大なる設計図のために、お使いください。我らは、あなたの『翼』を、鋼鉄で、より速く、より強固なものにしてみせましょう。その代わり……その、最初の『物語』を、どうか、我らが民にも……!」
アークは、その、あまりにも熱い申し出に、満足げに頷くと、差し出された、職人の、節くれだった大きな手を、その小さな手で、固く、固く握り返した。
「ええ、もちろん。共に創りましょう、侯爵。この、新しい時代の、最初のページを」
その日、陽だまりの街と、西方の職人公国との間に、歴史上、誰も見たことのない、新たなる盟約が結ばれた。
それは、富や軍事のための同盟ではない。
**文化と、物語によって、世界を、より豊かに、より面白くするための、共犯者たちの、あまりにも心躍る、最初の約束だった。**
アークは、工房の窓から、夕陽に染まる、どこまでも続く世界を見つめた。
彼の、二色の瞳には、これから自分たちが生み出す、無数の物語が、星々のように輝き、世界中の人々の、空っぽになった心を、温かく照らし出していく、確かな未来が、映っていた。
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