第113話:勝利の陽だまりと、新たなる盟約
#### 夜明けの戦場
夜明け。
昨日の死闘が嘘のように、南方の穀倉地帯には、穏やかな、しかしどこか神聖な静寂が満ちていた。
アークが創り出した『陽だまりの揺り籠』は、その役目を終え、一夜にしてその姿を変えていた。敵兵を分断した巨大な壁は、大地へと還り、その跡には、まるで奇跡の雨が降ったかのように、生命力に満ちた若草が、生き生きと芽吹いている。戦場は、死の匂いではなく、雨上がりの、清浄な土の香りに満ちていた。
それは、アークの力が、破壊ではなく、常に生命の再生へと繋がっていることの、何より雄弁な証明だった。
捕虜となった数千の鉄鷲公国の兵士たちは、その、あまりにも非現実的な光景を前に、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
彼らが覚悟していたのは、勝者による無慈悲な処刑か、あるいは屈辱的な奴隷の身分。
だが、彼らに差し出されたのは、剣ではなく、湯気の立つ、温かい麦粥の入った木の椀だった。
「……食え。腹が減っては、故郷にも帰れんだろう」
南方の、昨日まで殺し合っていたはずの兵士たちが、ぶっきらぼうに、しかし、その目に一片の侮蔑もなく、そう告げる。
一人の、まだ若い鉄鷲の兵士が、震える手でその椀を受け取った。彼は、飢えと恐怖で乾ききっていた喉に、その温かい粥を流し込む。
その、瞬間。
彼の、凍てついていた魂に、数年ぶりに、温かいものが流れ込んできた。それは、ただの食料ではない。敗者をも見捨てぬという、絶対的な『陽だまり』の温かさ。
兵士は、その場で崩れ落ち、ただ、子供のように、声を上げて泣いた。(故郷では、病気の妹に分け与える、硬いパンの一切れすら無かったのに……。なぜ、昨日まで殺し合っていた敵が、これほどの慈悲をくれるのだ……)
『蜂蜜』の作戦は、今、この戦場で、敵兵一人ひとりの魂を、その根底から、温かく溶かし尽くしていたのだ。
#### 砕かれた玉座
『陽だまりの砦』の司令部。
そこには、アルフォンス、カエラン、ミカエラ、そしてローランが、縄で縛られた、もはやただの男、ギュンターと対峙していた。
「……殺せ」
ギュンターは、その猛禽のような瞳から光を失い、虚ろに呟いた。「勝者の権利だ。この俺に、これ以上の屈辱を与えるな」
「あんたを殺しても、腹の足しにもならん」
アルフォンスは、冷たく言い放った。
その、言葉が紡がれた、まさにその時だった。
一羽の、疲れ果てた伝書鳩が、司令部の窓から転がり込んできた。それは、鉄鷲公国の紋章を刻んだ、緊急の使者。
ローランが、その足に結ばれた羊皮紙を解き広げ、読み上げる。その顔が、驚愕に歪んだ。
「……申し上げます。鉄鷲公国にて、政変。ギュンター大公の側近であった将軍たちが、民衆の支持を得て蜂起。大公の居城は陥落し、新政府樹立を宣言。新政府は、ギュンター大公の身柄を『国を追われた罪人』として、一切の関知をせぬこと。そして、南方の新政権に対し、これまでの非礼を詫び、**『黄金の雫』を仲立ちとした、対等な交易関係の締結を、正式に要請**してきた、とのこと……!」
その、あまりにも鮮やかすぎる結末。
ギュンターは、その報告を、信じられないといった表情で聞いていた。
敗北ではない。『拒絶』。
彼が、飢えから救うために戦ってきたはずの民そのものから、完全に、その存在価値を否定されたのだ。彼の力の源泉であった『飢え』が、陽だまりの『豊かさ』の前に、無価値なものと断じられた。
「……ああ……ああああ……」
ギュンターは、もはや怒りも、憎しみも浮かべられない、完全に魂が抜け落ちた顔で、ただ、虚しく呻いた。それは、一つの時代の、完全な終焉を告げる、断末魔だった。
#### 南方の盟約
鉄鷲公国の脅威が、完全に消滅した、その数日後。
『陽だまりの砦』には、南方の、全ての領主たちが、一堂に会していた。彼らは、あの奇跡の戦いを、自らの城から、固唾を飲んで見守っていたのだ。
彼らは、若き英雄カエランと、その背後に立つ、黒鉄の英雄アルフォンス、そして聖女ミカエラの前に、敬意と、そして畏怖を込めて、深く頭を下げた。
「カエラン殿。いや、カエラン卿。我らは、もはや貴殿を、ただの子爵家の若造などとは見なしておりませぬ。貴殿こそ、我ら南方を導く、新たなる『王』にふさわしい!」
一人の老伯爵が、そう進言する。
だが、カエランは、静かに、しかし、力強く首を横に振った。
彼は、アークから学んだ、新たなる時代の、全く新しい「国の形」を、その場にいる全ての者たちに、高らかに宣言した。
「――私は、王にはなりません。我ら南方が目指すべきは、一人の王が支配する、古い国ではない。ここに集った、全ての領主が、対等な立場で手を取り合い、知恵を出し合い、共に豊かになるための、新しい共同体。私は、そのための、最初の『礎』となりたい!」
「ここに、**『南方陽だまり連合』**の設立を、宣言いたします! 我らは、もはや互いを疑い、競い合うのではない! 北の仲間たちから授かった、この温かい光を、今度は、我らの手で、大陸全土へと広げていくのです!」
その、あまりにも気高く、あまりにも新しい、理想の国の形。
南方の領主たちは、一瞬の沈黙の後、地鳴りのような歓声と、惜しみない拍手で、その若きリーダーの誕生を、祝福した。これまで互いを牽制し合っていた老獪な伯爵たちが、いつしか若き日の理想を思い出したかのように、その目に熱い光を宿らせ、誰よりも力強く手を叩いていた。
#### 創造主の次なる一手
遥か北、陽だまりの街。
アークの書斎で、彼は、『契約の木』を通じて、その全てを、リアルタイムで感じ取っていた。
兄が、仲間たちが、自らが描いた設計図を、遥かに超える形で、最高の未来を創り上げていく。その、あまりにも温かい現実に、彼の胸は、熱いもので満たされた。
(……すごいよ、兄さん。カエランさん。ミカエラさん。みんな……)
彼は、窓の外に広がる、愛しい、陽だまりの街並みを見つめた。
飢えは、克服された。戦争の脅威も、一つの形として、退けられた。
彼の、最初の設計図は、今、完成した。
アークは、書斎の机に向き直ると、一枚の、真っ白な、新しい『ライナス和紙』を、その前に広げた。
その、雪のように真っ白な髪が、窓から差し込む陽光を浴びて、キラキラと輝いている。
彼の、二色の瞳には、もはや、目の前の敵を打ち破るための戦術ではなく、この、平和になった世界で生きる人々が、次に目指すべき、遥か彼方の、新しい『幸福』の形が、確かに映っていた。
彼は、羽根ペンを手に取ると、その、無限の可能性を秘めた、真っ白な紙の上に、次なる時代の、最初の、力強い一本の線を、静かに、引き始めた。
(飢えを克服した世界が、次に何をすべきか、わからなくなっている。……だったら、僕が教えてあげなくちゃ)
「――さあ、始めようか、みんな。この、豊かすぎる世界のための、新しい『幸福』の設計図を、描く時間を」
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