第112話:兄の戦斧と、砕かれる鷲の牙
#### 絶望の闘技場
静寂。
アークが創り出した『生きた迷宮』の中心、円形の闘技場と化したその聖域に、絶対的な静寂が満ちていた。
五千の軍勢は、その大半が迷宮の中で同士討ちを始め、あるいは戦意を喪失して膝を折っている。残されたのは、大公ギュンターと、彼を守る最後の親衛隊、わずか三十騎。
そして、その絶望的な包囲網の中心で、たった一人、夜明けの光を背負い、古の戦斧を肩に担ぐ、黒鉄の英雄、アルフォンス・ライナス。
「……はっ」
最初に、その静寂を破ったのは、玉座の上で、屈辱に顔を歪ませていたギュンターの、乾いた嘲笑だった。
「……面白い。実に面白い余興だ。まさか、この俺が、ただの田舎貴族の、それも若造に、一騎打ちを挑まれるとはな」
彼は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。その巨躯は、まるで手負いの熊のように、禍々しいまでの闘気を放っている。
「良いだろう。その、あまりにも愚かで、あまりにも無謀な勇気に敬意を表し、この俺が、直々に、その首を刎ねてやろう。貴様ら、手出しは無用だ。この男の死に様を、その目に焼き付けておけ。これが、飢えた鷲に牙を剥いた、愚かな獣の末路だとな!」
ギュンターは、従者から、自身の身の丈ほどもある、巨大な両刃戦斧を受け取った。その刃は、無数の戦で吸った血を物語るかのように、鈍く、黒い光を放っている。
#### 鋼鉄の交響曲
言葉は、もはや不要だった。
先に動いたのは、ギュンター。
大地が揺れた。それは、もはや人の踏み込みではなかった。巨大な城壁が、そのまま突進してくるかのような、圧倒的な質量と、暴力の奔流。
「死ねぇぇぇっ、田舎者があぁぁっ!」
振り下ろされた戦斧は、ただの斬撃ではない。風を裂き、空間そのものを歪ませるかのような、絶対的な破壊の意志。
だが、アルフォンスは、その嵐の前に、一歩も引かなかった。
彼は、ダグが魂を込めて打ち上げた『陽だまりの心臓』を、その身の前に、まるで大地に根を張るかのように、構えた。
**ゴウウウウウウウウウウンッ!**
世界が、音を失ったかのような、凄まじい衝撃音。
アルフォンスの足元の地面が、蜘蛛の巣のように砕け散り、その口から、ごぼりと、鮮血が溢れた。
「なっ……!?」
ギュンターの、猛禽のような瞳が、初めて驚愕に見開かれる。
(馬鹿な! この俺の、城壁すら砕く一撃を、ただの盾で、受け止めただと!?)
(――来い! ジャイアント・ロックバグとは比べ物にならん、本物の『神話』の重さだ! だが、今の俺は、もうあの時の俺じゃない! この背中には、世界の未来を創る弟がいる。この盾は、絶対に砕かせん!)
だが、その足は、一ミリたりとも、後ろへは下がっていなかった。
戦いは、一方的な猛攻となった。
嘲笑は、侮りから、苛立ちへ。そして、目の前の男が決して折れないことを悟るにつれ、その感情は、自らの絶対的な力が通用しないことへの、屈辱的な**『焦り』**へと変わっていった。
キンッ! ガンッ! ギャリリィィン!
甲高い金属音が、闘技場に、狂ったような交響曲を奏でる。アルフォンスの鎧が砕け、盾を持つ左腕は、もはや感覚を失いかけていた。全身から流れる血が、足元の土を、赤黒く染め上げていく。
砦の城壁の上で、カエランや南方の兵士たちが、固唾を飲んで、その、あまりにも壮絶な光景を見守っていた。
「アルフォンス様……!」
「……祈りなさい」ミカエラが、静かに言った。そのサファイアの瞳は、戦場の奥にある、常人には見えぬ理を捉えていた。
「……まさか。彼は、ただ耐えているのではない。あの獣の、全ての攻撃パターン、呼吸のリズム、そして、その魂の癖すらも、その身を代償に、読み解いているというのか……。全てを懸けた、ただ一度の反撃のために」
#### 陽だまりの理
「はぁ……はぁ……どうした、田舎者! もう終わりか!」
息を荒くしたギュンターが、嘲笑を浮かべる。だが、その瞳の奥には、隠しきれない焦りの色が浮かんでいた。何度叩いても、何度斬りつけても、目の前の男は、倒れない。それは、まるで、巨大な、温かい大地そのものを、殴りつけているかのような、虚しい徒労感だった。
その、一瞬の、心理的な隙。
アルフォンスは、それを見逃さなかった。
彼の、血に濡れた唇が、初めて、不屈の笑みの形に歪んだ。
「……終わりなのは、あんたの方だぜ、大公閣下」
アルフォンスは、これまでただ受け止めるだけだった盾を、初めて、能動的に動かした。彼は、ギュンターの次の一撃を、盾の縁で、僅かに逸らす。
そして、その体勢が崩れた、コンマ一秒の隙に、これまで大地に根を張っていた自らの体を、独楽のように回転させ、遠心力と、全身のバネを、右腕に握りしめた、古のドワーフアックスへと、完全に収束させた。
ローランとの地獄の訓練で、何万回と繰り返した、ただ、この一撃のためだけに、全てを懸けた、必殺のカウンター。
「――これが、陽だまりの理だァァァッ!」
ギュンターの目に映ったのは、もはや斧ではなかった。
それは、黒鉄の鎧を纏った男の、その魂そのものが凝縮された、**一つの、小さな『太陽』**。
#### 砕かれる鷲の牙
**ゴウウウウウウウウッ!**
二つの、絶対的な意志が、激突した。
ギュンターの戦斧が、アルフォンスの肩口を、深く抉る。
だが、それと、全く同時に。
アルフォンスのドワーフアックスは、ギュンターの、巨大な両刃戦斧の、その柄――幾多の戦場を血に染めてきた鋼鉄の牙の、その根元を、まるでガラス細工のように、いとも容易く粉砕していた。
「なっ……!?」
武器を失い、がら空きになった胴体。
そこへ、アルフォンスの、血に濡れた拳が、鎧を凹ませ、内臓を揺るガすほどの重い音を立てて、深々と叩き込まれた。
それは、ただの打撃ではない。弟が創った世界を守り抜き、ようやく胸を張って「ただいま」と告げるための、兄の、全ての想いが込められた、あまりにも温かい一撃だった。
「ぐ……はっ……」
ギュンターの巨体が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと、後ろへと倒れていく。
そして、地響きを立てて、完全に、沈黙した。
静寂。
闘技場を支配していた、絶対的な静寂。
それを破ったのは、砦の城壁から上がった、一人の、南方の兵士の、魂の絶叫だった。
「――勝った……」
その一言が、堰を切った。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
大地を揺るガし、天を衝くほどの、地鳴りのような大歓声。
兵士たちは、ただ、泣き、叫び、抱き合い、自らの手で掴み取った、奇跡の勝利を、その魂で味わっていた。
アルフォンスは、荒い息をつきながら、倒れ伏すギュンターを見下ろした。
彼は、とどめを刺さなかった。ただ、静かに、そして、絶対的な勝者として、告げた。
「これが、守る者の強さだ。奪うことしか知らん、あんたに、わかるか」
その、あまりにも気高い英雄の姿を前に、残された鉄鷲公国の親衛隊たちは、戦意を完全に喪失し、自らの武器を、ガラガラと、大地へと落としていった。
遥か北、陽だまりの街。書斎で、静かに目を閉じていたアークの、その唇に、誇らしげな笑みが浮かんだ。(見てるか、ウル。兄さんが、僕らの陽だまりを守ってくれたよ)。彼は、遥か森の奥にいるはずの相棒に、魂で語りかけるのだった。
(……うん。聞こえるよ、兄さん)
(君が奏でる、最高の、勝利の凱歌が――)
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