第111話:陽だまりの揺り籠と、絶望する鉄鷲
#### 漆黒の津波
夜明け。
地平線の彼方が、朝日で白み始めた、その瞬間。
一本の、長く、物悲しい角笛の音が、南方の穀倉地帯の静寂を無慈悲に切り裂いた。
それを合図に、地平線が、黒く、蠢き始めた。
それは、もはや軍隊ではなかった。大地を覆い尽くし、全てを飲み込む、**漆黒の津波**。五千の兵士が掲げる無数の槍先が、昇り始めた太陽の光を鈍く反射し、まるで巨大な獣の牙のように煌めいていた。その先頭では、おぞましい姿の合成獣が、大地を揺るがす咆哮を上げ、巨大な破城槌が、ゆっくりと、しかし確実に、絶望の象徴として『陽だまりの砦』へと迫ってくる。
その、あまりにも圧倒的な暴力の奔流を、遥か後方、黒鉄の玉座に座る大公ギュンターは、恍惚と眺めていた。
ギュンターの唇に、獲物の断末魔を聞く直前の、絶対的な捕食者の笑みが浮かんだ。彼の脳裏に映るのは、単なる勝利ではない。この、小賢しい南の猿どもが必死で築き上げた『希望』そのものを、根こそぎ喰らい尽くす、至上の愉悦だった。
彼は、傍らの将軍に、まるで晩餐の時刻でも尋ねるかのように、気だるげに問いかけた。
「蹂躙まで、あと、何分だ?」
「はっ! このまま進軍いたしますれば、ものの十分もかからず、城壁は崩れ、抵抗する者どもは、血の海に沈みましょうぞ!」
「そうか。ならば、存分に恐怖を味わわせてやれ。我が鷲の爪が、その喉笛を掻き切る、その瞬間までな」
ギュンターは、これから始まる一方的な蹂躙を思い描き、その唇を、満足げに舐め上げた。
#### 創造主の設計図
その、同じ瞬間。
遥か北、陽だまりの街の、静かな書斎で。
地図の上の、南方の戦場を示す一点に、そっと手を置いていたアークの、二色の瞳が、カッと、開かれた。
彼の魂は、数千キロの距離を超え、戦場の、その中心へと飛んだ。彼の視界には、もはや人間の兵士の群れなど映っていない。ただ、巨大なチェス盤の上を、無秩序に動き回る、黒い駒の群れだけが見えていた。
(……来たか)
彼の口元に、絶対的な支配者の、静かなる笑みが浮かぶ。
(僕の、設計図の、そのど真ん中へ)
その瞬間、アークの魂の呟きが、南の戦場に仕込まれた『心臓』へと、奇跡の号砲を鳴らした。
#### 陽だまりの揺り籠
鉄鷲公国軍の先頭が、砦まであと二百メートルという地点にまで迫った、その時だった。
**世界が、産声を上げた。**
ズズズズズンッ!
漆黒の津波が迫る、その足元で。リオンが決死の覚悟で平原の中心に植えた、たった一粒の**『聖浄樹の種子』**が、アークの魂を宿し、大地そのものが巨大な心臓であるかのように、一度だけ、大きく脈動したのだ。
次の瞬間、ギュンターを含む、全ての兵士の足元から、地響きを伴う轟音と共に、何千、何万という、黒鉄のように硬い『鉄鋼樹』の根と、聖なる光を放つ『聖浄樹』の蔓が、天を突く勢いで噴出した。
「なっ……なんだ、これは!?」
「地面が……! 地面が、生きているぞ!」
平原だったはずの場所は、ほんの数十秒で、その姿を、完全に変貌させた。
大地は隆起し、壁となり、行く手を阻む。ある場所では、底なしの深い谷が口を開け、またある場所では、鋭い木の槍が、無数に突き出す罠へと変わる。
それは、もはや戦場ではなかった。侵入者を拒絶し、その全てを飲み込むために絶えずその姿を変え続ける、**巨大な『生きた迷宮』**。
アークが、この日のために仕掛けた、最終防衛システム『陽だまりの揺り籠』が、ついに、その牙を剥いたのだ。
五千の軍勢は、その圧倒的な数の暴力故に、より悲惨な形で、迷宮の餌食となった。
完璧な楔のはずだった陣形は、内側から食い破られ、もはやただの烏合の衆。兵士たちは、互いの顔すら見失い、孤独な迷い人として、見えざる恐怖に悲鳴を上げるしかなかった。
完璧だったはずの陣形は、完全に分断され、兵士たちは、互いの位置すら把握できない、孤独な迷い人へと成り果てた。
「馬鹿な……! 魔法だと!? これほどの、大規模な魔法が、あるというのか!」
玉座の上で、ギュンターが、初めて焦りの声を上げた。その、猛禽のような鋭い瞳に、信じられないものを見る、動揺の色が浮かぶ。
だが、地獄は、まだ始まったばかりだった。
迷宮の壁の、その遥か上。
『陽だまりの砦』の城壁の上で、エルフの弓兵長リオンが、その千年の時を生きる瞳を、静かに細めた。
「――時は、満ちた。森の怒りを、思い知るが良い」
彼が、音もなく弓を引き絞る。だが、その矢が狙うのは、人の命ではない。迷宮の、いくつかの重要な結節点。
リオンの矢が地に突き刺さった瞬間、迷宮の壁から、幻惑の花粉を撒き散らす『惑わしの花』が一斉に咲き誇り、分断された兵士たちの間に、さらなる混乱と、疑心暗鬼を生み出していく。
「敵はどこだ!」「裏切り者だ! 後ろから斬られた!」
兵士たちは、もはや、見えない敵の影に怯え、同士討ちを始める始末だった。
戦場は、完全に、巨大な捕食者の胃袋の中と化していた。兵士たちの雄叫びは、恐怖の悲鳴へと変わり、その士気は、完全に崩壊した。
「……退け」
ギュンターは、屈辱に顔を歪ませ、奥歯をギリリと鳴らしながら、絞り出すように、その言葉を口にした。
「全軍、退けぇぇぇぇっ!」
#### 最後の舞台
だが、アークの設計図は、その王手を、逃さない。
撤退しようとする、ギュンターの本隊。その周囲の、迷宮の壁だけが、まるで意志を持つかのように、より高く、より強固な、円形の闘技場のような壁へと、変貌したのだ。
完全に、孤立させられた、王の部隊。
そして。
『陽だまりの砦』の、これまで固く閉ざされていた城門が、ギギギギギ……と、重い音を立てて、ゆっくりと、開かれていく。
その、開かれた門の中から。
まるで、この瞬間のために用意されたかのような夜明けの光を、その黒鉄の鎧の一身に浴びて。絶望の迷宮に差し込む、唯一の希望の光そのものとして、ただ一人、ゆっくりと姿を現す男がいた。
黒鉄の鎧を纏い、古のドワーフアックスを、その肩に担いで。
アルフォンス・ライナス。
彼の、蒼い瞳は、もはや、他の兵士など映していない。
ただ一点。
孤立した闘技場の中心で、屈辱と怒りに震える、敵の総大将、大公ギュンターだけを、絶対的な捕食者の目で、真っ直ぐに、見据えていた。
「――ようこそ、俺たちの陽だまりへ」
アルフォンスの、静かだが、その場にいる全ての者の魂を震わせる声が、響き渡った。
「さあ、始めようぜ、大将首。あんたと俺の、最後の戦いをな」
***
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