第108話:鋼鉄の城壁と、蜂蜜の囁き
#### 鋼鉄の使節団
南方の穀倉地帯、カエラン子爵領。
その、希望を失い、黄金色の墓標と化した麦畑がどこまでも続く、絶望の大地に、北からの使者たちが到着した。
先頭に立つのは、陽だまりの街の英雄、アルフォンス・ライナス。その傍らには、かつての『熾天使』の威光を、今は穏やかな慈愛のオーラへと変えた、聖女ミカエラが寄り添う。彼らが率いる百騎の『聖域騎士団』は、人間とエルフが共に肩を並べる、この大陸の誰もが見たことのない、理想の軍隊だった。
彼らの到着は、沈黙に支配されていたこの地に、数ヶ月ぶりに、力強い活気をもたらした。
「――これが、国境の砦か」
アルフォンスは、カエランと共に、鉄鷲公国との国境に築かれた砦を視察していた。だが、その顔は、厳しい。
「壁が低い。石材も脆い。何より、兵士たちの目に光がない。これでは、飢えた鷲の最初の一撃で、喰い破られるぞ」
その、あまりにも的確な指摘に、地元の守備隊長は、悔しげに顔をうつむけるしかない。
アルフォンスは、彼らを叱責しなかった。
彼は、その無骨な手で、守備隊長の肩を、力強く叩いた。
「だが、それも今日までだ。俺たちは、あんたたちを助けに来たんじゃない。**共に戦うために来た**。俺たちが持つ、最高の技術と、あんたたちが持つ、故郷を守るという覚悟。その二つが合わされば、どんな敵であろうと、恐るるに足らん」
その、若き英雄からの、あまりにも熱い言葉。乾ききっていた南の兵士たちの魂に、忘れかけていた「誇り」という名の火が、再び灯った瞬間だった。
その日から、国境は、一つの巨大な鍛冶場へと姿を変えた。
アルフォンスの指揮の下、聖域騎士団と南方の兵士たちが、共に汗を流し、新たな城壁を築き上げていく。
それは、ただ石を積み上げるだけの、古い城壁ではなかった。
リオン率いるエルフたちが、アークから託された設計図を元に、大地に『鉄鋼樹』の種子を植える。ミカエラが、その聖なる力で、大地の生命力を祝福し、その成長を促す。そして、その、天を目指して伸びる生きた木々の間に、ボルクたちが打った鋼鉄の骨格を組み込み、南方の兵士たちが、石材でその隙間を埋めていく。
魔法と、技術と、そして、人の汗。その全てが融合した、**生きた城壁**。
数週間後。そこには、かつての見る影もない、大陸中の誰もが見たことのない、難攻不落の**『陽だまりの砦』**が、その威容を誇っていた。
#### 蜂蜜の使徒
その、同じ頃。
遥か東、鉄鷲公国の、埃っぽい国境の街。
そこは、希望を失った人々の、濁った瞳と、飢えの匂いに満ちていた。
その、絶望の坩堝の如き酒場の一角で、一人の、見慣れない女が、静かにエールを煽っていた。
絹のように滑らかな黒髪に、どこか猫を思わせる、しなやかな身のこなし。彼女の名は**セリナ**。ディアナ・シルバーが、その絶対の信頼を置く、銀月商会最高の密偵。人呼んで**『蚕』**のセリナ。どんな社会の、どんな階層にも、気づかれずに己の糸を張り巡らせる、伝説の諜報員だった。
彼女の狙いは、この街の裏社会を牛耳る、強欲で、しかし、誰よりも現実主義者だという、闇ギルドの元締め、**グリゼルダ**だった。
セリナは、偶然を装い、グリゼルダが座るテーブルの横を通り過ぎる。その瞬間、彼女は、まるで手が滑ったかのように、懐から、一つの、何の変哲もない革袋を、彼の足元へと落とした。
中から、小さな小瓶が転がり出て、その栓が、ぽん、と心地よい音を立てて抜ける。
ふわり、と。
酒場の、淀んだ空気を、完全に浄化する、あまりにも芳醇で、あまりにも甘美な**『黄金の香り』**が、立ち上った。
「……てめぇ、何しやがる!」
グリゼルダの手下が、凄む。
だが、グリゼルダ本人は、その動きを、手で制した。彼の、全てを疑う、濁った目が、その香りの源である、小瓶に注がれていた。
「……なんだ、その酒は。嗅いだことのねぇ、匂いだ」
「あら、ごめんなさいな」セリナは、悪びれもせずに笑った。「ただの、故郷のどぶろくよ。南の方じゃ、最近、腐るほど獲れる麦で、こんなものを作って、貧乏人同士で慰め合ってるのさ」
その、あまりにもったいない言葉に、グリゼルダの眉が、ぴくりと動いた。
彼は、セリナから、半ば奪い取るように、その小瓶を手に取ると、中の、黄金色の液体を、一気に、喉へと流し込んだ。
そして、彼は、数秒間、完全に、石のように固まった。
#### 蜂蜜の囁き
「……う……おお……」
彼の、乾ききっていた魂に、太陽が、大地が、そして、忘れかけていた「豊かさ」そのものが、奔流となって流れ込んでくる。
「……こ、これは、なんだ……!? 酒じゃねぇ! 魂が、ひれ伏してやがる…!これ一本で、王侯貴族すら買えるぞ…!」
彼は、目の色を変え、セリナの腕を、力強く掴んだ。
「おい、女! これを、どこで手に入れた! ありったけ、出せ! 金なら、いくらでも払う!」
その、飢えた獣のような目に、セリナは、悪魔のように、妖艶に微笑んだ。
彼女は、グリゼルダの耳元に、そっと、その唇を寄せると、甘い、甘い、毒の言葉を、囁き込んだ。
「……だから、言ったでしょう? これは、南の国じゃ、今や、貧乏人ですら飲める、ただの慰めよ。あなたの国の、飢えた大公様が、血眼になって欲しがる『宝』が、南じゃ、ただの日常になりつつあるの」
「……もっと、欲しい? ええ、いいわよ。あなたのような、話のわかる人にだけ、こっそり、分けてあげても。その代わり……教えてもらえないかしら。この街の、兵士たちの動きや、食糧庫の様子。そんな、ささやかな世間話を、ね」
グリゼルダは、ゴクリと、乾いた喉を鳴らした。
その手の中には、まだ、黄金の温もりが残る、空の小瓶。目の前には、悪魔の微笑みを浮かべる、謎の女。
飢えた鷲の巣の、その心臓部で。
陽だまりの街が仕掛けた、最初の**『蜂蜜』**の一滴が、確かに、その甘く、そして、抗いがたい毒の波紋を、広げ始めたのだった。
***
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