後編
人間はひとつだけでなく、色んな部分から出来ているという。
どんなに優しく見えていたひとでも、残酷な部分があったり、冷たい部分があったりするのだという。
彼にも、私の知らない部分があったというのだろうか。
優しいだけの人間など、いない。
思えば彼は、いつでも私の前で、優しかった。
思い出す、あの日──
彼と知り合ったのは2年と少し前、婚活パーティーの会場だった。
そのひとは明らかに緊張していた。
自分と同じような雰囲気のひとは、話しかけやすかった。
「あの……。もしかして、こういうの初めてですか?」
私が勇気を出して話しかけると、彼は初めて笑顔を見せた。
「初めてです。……あぁ、よかった。話しかけてもらえて」
内気で優しそうなひとというのが第一印象だった。
話しているうちに、そこに『誠実そう』と『頑張り屋さん』という印象が加わった。
彼は玩具メーカーに勤めるサラリーマンだといった。会話しているうちに『遊び心のあるひと』という印象がまた加わった。
両親が早くに他界して、叔母さんの世話になっている。いつまでも面倒になっていたくはないので、いいひとがいたら早く結婚したいのだと言っていた。
料理が得意で、趣味は特になく、結婚しても伴侶が仕事を続けることに抵抗はなく、家事は分担したいと言っていた。そして結婚したあと、その通りになった。
裏表のないひと──それが私の知っている彼だった。
絶対に、夫は殺人なんて犯すひとではない。
そう思いながらも揺れてしまうのは、思えば彼が、自分のことをあまり話さないひとだったからだろうか。
私のことを聞いてくれるばかりで、自分のことは話したがりもしなかった。
仕事のことを聞けばいつも返事は『いつも通り』『何事もなし』──
私は夫の何を知っていただろうか?
『優しいひと』『誠実なひと』『私を気遣ってくれるひと』『かわいいひと』──それしか知らない。
一緒にいて退屈はしなかった。でもそれは、彼が楽しいひとだからというより、彼が私を好きに楽しませてくれるから……。
時計を見ると朝の8時だった。
私はスマートフォンを手に取ると、彼の会社に電話をかけた。
自動音声が流れた。
『お電話ありがとうございます。ただいま、当社の営業時間外となっております。恐れ入りますが、営業時間内に改めてお電話いただきますようお願い申し上げます』
自分の仕事は手につかなかった。
夫の顔が見たい。そう思ったら、じっとしてもいられなかった。
私は立ち上がると、ろくに化粧もせずに、外へ出た。
= = = =
夫の会社に入るのは初めてだった。
受付のお姉さんに声をかける。
「あの……。企画部の日田は出社しておりますでしょうか……」
するとしばらく何かを調べてくれてから、お姉さんは私が思ってもいなかった返事をくれた。
「日田という名前の社員は、当社にいないようですが……」
= = = =
近くの公園でベンチにへたり込んだ。
昨夜から何も食べていない。お腹は空いていたけど、何を食べる気にもならなかった。
昨日、刑事さんから聞いた話を思い出した。
昨日の夕方5時半頃、居酒屋に入ってきた男が突然、ピストルのようなものを取り出して、そこにいた6人のグループ客すべてを殺害したということだった。
店員も他の客も、誰も男のことを知らなかった。しかし男がスーツのポケットからカードケースを落としていった。
その中に運転免許証があり、それが夫のものだった。免許証の顔写真と男は同一人物だったと店員が証言した。
夫を信じたい。
信じさせてほしい。
でも、このまま信じていたら、そのうち過去に戻ってやり直したいと思うようになるんだろうか? 取り返しのつかないことになるんだろうか?
私も殺されるんだろうか?
それとも──夫が優しいのは私にだけ?
私にだけ優しい殺人者だったら、私は嬉しいだろうか?
嬉しいわけがない。
あの優しい夫に、私の知らないそんな面があるなんて、受け入れられるわけがない! 夫は殺人者なんかじゃない!
殺人者なんかじゃないと信じさせてほしい!
ふと、背後に気配を察知した。振り向くと、少し遠くの木の陰に、誰かがサッと隠れるのが一瞬見えた。グレーのスーツ姿の、男の人のように思えた。
「あなた!?」
思わず立ち上がり、私はその方向へ駆け出した。
「あなたなの!?」
すると木の後ろから、二人の男性が姿を現した。昨日の刑事さんだった。
「失礼。あなたが日田と接触するかもしれないので、後を尾けさせていただきました」
慇懃無礼──
そんな言葉が頭に浮かんだ。
どうして私の夫を犯罪者にしたがるの?
そう思ったら、私の胸に強い決意のようなものが湧き上がってきた。
『信じさせていて』が、『信じる』に変わった。
私が信じなくて、他の誰が信じてくれるというの?
私は夫を信じる!
「それではご主人から何か連絡があったらすぐに通報をお願いします」
そう言って立ち去る刑事さんたちを、その背中に、私は憎らしい敵兵を突き刺す視線を投げながら、見送った。
= = = =
部屋に帰ると、張り切って冷蔵庫を開け、サラダを出して、カレーを温めた。
お腹がペコペコだった。
猫がミルクでも飲むように、食べきった。
そしてすぐ、仕事に取りかかる。
明日は夫とデートなのだ。今日じゅうに仕上げてしまわなければ!
不安はもちろん消えなかった。
彼が今、どこにいるのか。どうして連絡をくれないのか──でも考えても仕方がなかった。
私に今できることは、信じることだけだ。
明日には夫と最高に幸せなデートをするために、依頼されたイラストを今日じゅうに仕上げる、それだけだ。
イラストが仕上がった。
三羽のうさぎが楽しそうに、円を描くように踊っている。
これが売れっ子作家の幻羅珠子さんの単行本の表紙を飾り、書店に平積みにされる光景を思い描くと、私の心も躍った。
隣に夫が並び、同じ光景を見て、微笑んでくれる。
いつか夫に言われた言葉を思い出した。
「麻理の絵は、見るひとを幸せにするよね」
『ふふ……。あなたも幸せ?』
眠っていなかった私は夢の国へ吸い込まれるように、デスクに突っ伏して意識を失った。
= = = =
夢の中に夫が出てきた。
「すまない、麻理……」
いつもの優しい微笑みを浮かべて、私に謝る。
「僕はМ78星雲にある『光の国』というところからやって来た、じつは宇宙人なんだ」
なんだか聞いたことがある星の名前だった。
「それって……、地球を守ってくれる、ウルトラなヒーローの──」
「そうだよ」
夫の顔が、銀色に輝いた。
「地球人に紛れて悪い宇宙人が暗躍してる。僕はそういう輩を見つけては、ピストルに模した光線で退治しているんだ」
「そうだったの」
私の顔も、ぱあっと輝いた。
「そうだったのね……。警察って、なんてわからず屋なの」
「だから心配しないで」
私をいたわる目で、じっと見つめてくれる。
「麻理が気に病むようなことは何もないから。僕は、君のよく知っているような僕だから」
「うん!」
私は頼もしく、彼を見つめた。
「わかってる。信じてた」
「ありがとう」
彼も私を頼もしそうに見つめてくれた。
「すぐには帰れないけど……できるだけ早く帰るから。……今まで秘密にしていてゴメン」
「いいのよ」
私は彼に近寄り、触れようとした。
すると彼は微笑んだまま、銀色の光に包まれて、消えてしまった
私は口を動かした。
「──気をつけてね」
= = = =
目を覚ますと、パソコンモニターの中でうさぎたちが楽しそうに笑っている。
私は起き上がると、あくびをし、明日のデートの準備に取りかかった。
お弁当を作ろう。
サンドイッチがいいかな。
あのひと、ハムとたまごのサンドイッチが大好きだから。
窓を見るともう暗かった。スマホを見ると午後7時を過ぎている。
夫からの連絡は、相変わらずなかった。
それでも信じてる。
彼が私との約束を破ったことは、一度もなかった。
21時を過ぎて、お風呂上がりに寛いでいると、呼び鈴が鳴った。モニターを見ると、またあの二人の刑事さんだった。
「殺人鬼の彼から何か連絡はありましたか?」
そんなバカなことを言う刑事さんに、私は余裕の微笑みで返した。
「そんな彼はこの世にはいません」
= = = =
バカだと思うなら思え。
世界じゅうを敵に回しても、私だけは彼の味方なのだ。
そして土曜日の朝がやって来た。
仕事の疲れでしっかり睡眠はとれた。体調も、いい。サンドイッチも完成した。あとは彼を待つだけだ。
誰にも相談はしていない。イカス弥子さんにも、私の両親にも。相談なんかしたら、彼を犯罪者にしてしまう。
盲信でいいのだ。
しかし盲信するには、必要なものがあった。
必要なものが、そして遂にやって来た。
スマートフォンが着信メロディーを鳴らした。
私も彼も大好きな、アンパンマンのテーマ曲だ。
画面に夫の名前が表示された。
ゆっくりと、電話に出た。
「もしもし、あなた?」
電話の向こうの声は、いつも通り優しかった。
『麻理……。連絡遅れてすまない』
「ううん?」
私は声にも微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ」
『迷惑……かけてるか? 仕事、手につかなくなっちゃったんじゃないか?』
あくまで私の仕事のことを気にかけてくれる。
「仕事、終わらせたよ?」
恋人同士みたいな、甘えた声で伝えた。
「今日はデートでしょ?」
照れたような彼の笑い声が聞こえた。
『何も聞かないんだな』
「うん、わかってるから。あなたはそんなことするひとじゃないって」
私は何も聞かなかった。「今どこにいるの?」なんてことも。刑事さんに盗聴されているかもしれない。
『信じてくれるのか』
「当たり前でしょ」
『信じられないな』
彼の言葉にプッと吹き出してしまった。
「何がよ?」
『こんなことになっても信じてくれるってことが、さ』
照れたようにそう言う彼のことを、私はよく知っていた。
優しくて、かわいくて、とても頼り甲斐のある、いつもの私の夫だった。
「あなたはМ78星雲にある『光の国』からやって来たヒーローでしょ?」
私は夢の続きを口にした。
「悪い虫みたいな宇宙人を居酒屋で見つけて、退治したの。そうしたら、地球人にはそいつらが人間に見えてたから、問題にされちゃって──」
彼が驚きの声をあげた。
『知ってたの?』
「知ってるわよ。あなたのことなら、なんでも。『日田テトラ』なんて名前、地球人にしちゃおかしいって思ってたし──」
私は得意満面に答えた。
「私の知らないあなたなんて、いないんだから」
『これから迎えに行くよ。デートの行き先、変わっちゃうだろうけど……ゴメンな』
「いいよ。好きな画家さんの個展なんかより、もっといいもの見せてくれるんでしょ?」
『宇宙でデートしよう』
「サンドイッチ作ってあるよ」
『ハムとたまご?』
「もちろん」
『わぁい! デネブのあたりでピクニックしよう。白鳥座の尾に並んで座って、点より小さくなった地球を眺めながら』
「あ! でも……」
『うん?』
「月曜日には地球に戻ってこれるよね? 完成したイラスト、出版社に送らなきゃ」
『もちろんだよ』
「よかった」
『このデートが終わったら──』
夫が、言った。
『長いこと、会えなくなるな』
「仕方がないよね」
私は、答えた。
「でも永遠に会えないわけじゃないから」
『ありがとう、信じてくれて。……そして、ゴメン』
「どうして謝るの?」
彼の声に、涙が混じった。
『ずっと……騙してて』
「仕方ないでしょ。ヒーローは正体を隠さないといけないんだから」
しばらく電話の向こうですすり泣く声が聞こえた。それから顔を上げたような気配がすると、いつもの明るい声が、言った。
『──じゃ、迎えに行くよ』
「うん、待ってる」
『待たせないよ』
その言葉の通り、窓の外を見ると、すぐに夫は迎えにやって来た、銀色の小型宇宙船に乗って。窓から伸ばした私の手を取って、優しく助手席に導いてくれる。
「──あ! サンドイッチ!」
「こらっ! 忘れちゃダメだろ」
そして二人を乗せた銀色宇宙船は、あっという間に大気圏を抜け、星々を眺めながらのデートに繰り出した。優しい笑顔の運転手の胸に顔を傾け、私は笑顔で涙を流した。
(了)