癌の根源
タワーマンションのエントランスを出ると、細かい雨が静かに降っていた。
夕方と夜のちょうど間くらいの時間。
街灯に照らされたアスファルトが濡れて、足元に薄く光を返している。
「……良かったのか? あれで」
白鷺は傘を差し、まっすぐ歩き出す。怜もその隣に並ぶようにして歩を進めた。
二人の靴音だけが、濡れた歩道に控えめに響く。
そして、白鷺は口を開いた。
「私からしたら、だいぶの成長よ。……反抗期マニュアルに書いてある“親を睨みつける”とか“ドアをバンって閉める”とか、全部クリアした感じ」
俺は横目で彼女を見て、顔を緩ませた。いつもの白鷺に戻ってたからだ。
「そんなマニュアルあるかよ。てか、それやるのおまえ、いくつだよ……」
「遅れてきた反抗期って、反動も強いの。今なら親の目の前でスマホぶん投げる自信あるわ」
「それはただの厄介な大人だろ」
「……あら、“子ども返り”とも言うのよ?」
「言わねぇよ」
白鷺の口調はいつも通り冷淡だったが、その横顔は少し笑っている気がした。
白鷺は歩調を崩さず前を見据えている。
「まぁ、でも、そうだな。俺も言ってやりたいこと山ほどあったけど……後ろから睨んでるだけだったわ」
「そのわりには、ちゃんと付き添ってるじゃない」
「そりゃあな。こういうの、見届けないと気持ち悪いタイプなんだよ」
そう言って、怜は白鷺の横に並んだ。二人の影が、隣り合って歩道に伸びる。
「で、白鷺さん。行き先は?」
「さあ。風の向くまま、気の向くまま」
「……絶対風邪ひくやつだろそれ」
「じゃあ、あったかい場所、用意してくれる?」
「言うと思った。……って、ん?冗談だよな?」
白鷺はふっと俺に視線を向ける。
「冗談に聞こえたなら、それはそれで、ちょっと寂しいわね。……私、結構本気なんだけど」
「いや、マジで来る気か?」
「着替えと歯ブラシは、あなたの部屋に置いておいていいかしら?」
「住む気満々じゃねぇか!!」
白鷺は何食わぬ顔で歩き出す。
「道案内を頼むわ。荷物が重いもの」
「こいつ……」
白鷺の荷物を一旦、俺の部屋に置いてから外に出た。
雨は上がっていたが、アスファルトにはまだ薄く水が残っていて、街灯を歪めて映している。
たどり着いたのは、街道沿いの雑居ビル。
二階に、黒瀬が勤めている学習塾がある。
上を見上げる。
ガラス張りの教室の内部が、夜の街にまるでショーウィンドウのように浮かび上がっていた。
白い蛍光灯の光が、壁や机を均等に照らしている。
机は整然と並び、ホワイトボードにはまだ今日の課題が消されずに残っている。
開きっぱなしの参考書や、置き忘れた筆箱。
子どもたちはもう帰っているが、ついさっきまでの喧騒の名残だけが、教室の空気にうっすらと漂っていた。
——だが、その中心に、明らかに“場違いなもの”がいた。
奥の職員机に座る男。
スーツ姿で、姿勢だけは整っているのに、まるでそこだけ時間が止まったように見えた。
黒瀬 淳一。
外から見上げるこちらに気づいているかはわからない。
だが、その横顔には、どこか虚ろな影が差していた。
明るい教室の中で、彼だけがやけに黒く沈んで見える。
蛍光灯の下にいるはずなのに、顔の輪郭が曖昧だ。
白鷺が隣で小さく息を吐いた。
その顔は、さっきの“笑った横顔”とはもう違う。
俺は視線を上に向けたまま、そっと呟く。
「……行くか」
「少し待って……」
白鷺は足を止める。
その肩が、わずかに震えていた。
「心の準備をする時間を頂戴」
母親との対話よりも、何倍も辛いのだろう。
それも当然だ。黒瀬は、彼女の“祈端”の根にある存在なのだから。
「いくらでも待つよ」
「“待つ”ね……優しいと言うか、鬼畜というか。逃げるって選択肢は、最初から用意してくれないのね」
「用意しても、白鷺さん、絶対そのカード切らないじゃん」
「そうでもないのよ。……あなたとなら、逃げてもいいと思ってるわ」
その言葉に、一瞬心臓が跳ねた。
今は、そういう場面じゃないとわかっているのに。
「それは、ちょっとキュンとしちゃうから今はやめてくれ」
「童貞」
「なに急に刺してくんの……」
俺のキュンを返してほしい。心の中でそう思った。でも、これもきっと彼女には聞こえているのだろうと思うと、少し虚しくなってくる。
そんな中、白鷺は大きく一息をついた。そして告げる。
「行きましょう。」
ビルの脇にあった二階への階段を登り俺は塾の扉を開けた。
乾いた音が静かな空間に響く。妙に重く感じるのは、きっと気のせいじゃない。
中はがらんとしていた。白く明るい蛍光灯の光が、等間隔に並ぶ机の表面を均一に照らしている。その中央、奥の職員机に腰かけていた男が、ふと顔を上げた。
「こんばんは。詩音ちゃんがここに来るなんて、久しいね」
微笑みを湛えたまま、黒瀬 淳一は言った。昔と変わらぬ、穏やかな声音だった。
「こんばんは、先生」
白鷺もまた、静かに応じる。その声にはどこか、氷のような冷たさが混ざっていた。
「僕に会いに来てくれたのかな? それだったら嬉しいね。……ちなみに、そのお隣はどこかでお会いしたような気がするね」
黒瀬が俺に目を向けてきた。人当たりの良さをまとった笑顔は、まるで営業トークのようだった。
「つい先日ですよ」
俺は一歩前に出て、やや強めの口調で返す。黒瀬は軽く眉を上げたが、すぐにまた笑みを戻す。
「そうかい。そうかい。それで? 僕に会いに来た理由は何かな?」
その問いに、白鷺が答える。まっすぐ黒瀬を見据えたまま。
「全部を終わらせるために来ました」
「……何をだい?」
「全部です。過去も、これからのことも。貴方との関係も」
黒瀬はわずかに目を細める。そして、ゆっくりと椅子の背に体を預けた。
「ふぅん。そうか。恩を仇で返すのは、あまりお勧めはしないけどな」
穏やかに言うその言葉に、毒気はない。けれど、その“毒気のなさ”こそが、ひどく不気味だった。
「それが“仇”と言うなら、貴方の目は節穴です」
白鷺の返しは鋭く、静かだった。
その言葉に黒瀬は笑った。
口元だけが笑っていて、目はまるで笑っていない。
「相変わらず口が達者だ。……君のそういうところ、僕は好きだったけどなあ」
「私は、そういう“好き”に、ずっと傷つけられてきました」
詩音の声は静かだった。
だが、その一言で空気が少しだけ重くなる。
俺はわずかに一歩、詩音の前に出る。
「黒瀬さん。俺は、今日の話を最後まで見届けに来ました。
……言い逃れも、言い訳も、受け止めるつもりはありません」
「ふぅん、君……前も思ったけど、ずいぶん感情的だね。そんな調子じゃ、女の子に嫌われちゃうよ?」
「そうですね。嫌われてもいいんで」
俺が食い下がると、黒瀬はため息をついた。
「なんだか、怖い話をされるみたいだな。……ねえ、詩音ちゃん」
「ええ。怖くて当然ですよ。あなたがしたことは、“人間の尊厳”を奪ったことなんですから」
「……そんなに言うほど、悪いことだったのかな?」
彼はようやく笑顔をやめて、少しだけ真顔になった。
だが、その声には、微塵の罪悪感もない。
「君のためを思って、僕は——」
「あなたの“優しさ”は、全部あなたのためだった」
詩音が遮った。
「最初の目的は母だった。でも拒まれて、プライドが傷ついた。
だから今度は、私の学力をネタに脅した。そしたら――差し出されたのは、私。
……ほんとは、ただ“手頃な女”が欲しかっただけでしょ?」
黒瀬は少し眉をひそめた。
「君……随分と冷たいことを言うんだね。そんなことを言って、本当に幸せになれると思ってるのかい?」
「ええ。少なくとも、嘘をつき続けて生きるよりは、ずっと」
「……ふぅん」
黒瀬はまた、笑った。
その笑顔はもう、最初の柔らかさではなかった。
「じゃあ、そう言って僕を切り捨てた君が、今後の人生で満足できていなかったら……それって、誰のせいになるのかな?僕は断言できるよ。君を幸せにできるってね。」
「私のせいで結構です。少なくとも、“あなたのおかげで幸せになれた”なんて言葉は、墓の下でも言いませんよ」
「そうかい」
「そうかい」
黒瀬は静かに言って、しばらく詩音を見つめた。
その瞳にはもう笑みはなく、代わりに冷たい光が宿っている。
「……やっぱり、君は賢いな。いや、冷たいと言うべきかな」
言葉を選ぶように、黒瀬はゆっくりと立ち上がった。
「せっかくだから、少し話をしてもいいかな。君たちみたいな“良識ある若者”には、到底理解されない話かもしれないけどね」
俺と詩音は黙っていた。
黒瀬はそれを承認と捉えたのか、ふっと目を細める。
「——僕はね、得をする人生が好きなんだよ」
その言葉は酷く利己的で自己的だった。