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青春は奇譚である  作者: テイク4
白鷺詩音
8/13

言葉になるまで

翌日の昼休み。

人気のない教室の隅。

白鷺は窓際に座りながら、静かに俺を見ていた。

どこか余裕を含んだその目に、もう昨日までの陰りはない。


「で、打ち合わせって?」


「まずは、家族との関係を整理する。お母さんと話をつけて、それから――塾講師にも直接」


そう告げると白鷺はうっすら微笑んで、肩をすくめる。


「まるで頼れる指揮官ね。次は俺の言うことは絶対な?とでも言い出すのかしら?」


「真面目に言ってんだけど」


「わかってるわ。あなたの本気くらい、昨日で十分伝わったから」


その目は静かな炎のように揺れていた。

あの夜、何かが確かに変わった――そう思わせる眼差しだった。


「それと鈴蟲の件だけど。あいつらが執着してくるのは“後遺症”が残ってるからだ。それが消えればもう関わってこない」


「ふぅん。面白い仕組みね。」


「面白い?」


「だって、“後遺症”が残ってたらやってくるってことは心の傷があるうちは襲ってくるってことよね。まるでサメね?」


「上手く例えるな。まぁ名前は虫だけど。でも、俺は今、深海の化け物と付き合ってる気分だよ」


「失礼ね。私はもう少し愛嬌あるわよ?」


「俺まで火傷を追う愛嬌は初めて見たけどな……」


白鷺は静かに笑った。

その笑みにはどこか毒と甘さが同居している。


「そういえば、ひとつ伝え忘れてた」


「なに?」


「“祈端”には名前があるんだよ。白鷺さんのは“こころだぬき”って言うらしい」


白鷺のまばたきが一瞬、止まった。


「……こころ、だぬき?」


「“心狸”って字を書く。読み方によっては“しんり”つまり“心理”とも“真理”とも読める。柊さ──先生がそう言ってた」


しばらくの沈黙のあと、白鷺は微かに息を漏らす。


「皮肉ね」


「皮肉?」


「だって。嘘ばっかりのこの世界で、私は心理を読み取って真理を暴く力を持ってたなんて」


怜は、白鷺の視線が窓の外に向かうのを感じる。

その横顔に、ほんの僅かだけれど、何かがほどけたような柔らかさがあった。


「名前って、不思議よね。自分のことなのに、言われて初めて実感する」


「それ、けっこう大事なことらしい。名前を知ること、自分のものとして認めることが、“後遺症”と向きあう鍵なんだと思う」


白鷺は黙ったまま、しばらくその言葉を噛みしめていた。


「……で、指揮官殿は他に何を?」


「ん?あぁ。今後についてだけど、俺が指示出そうかと考えてる。反論があるなら、まあ聞くだけは聞く」


俺がやや強めにそう言うと、白鷺はまばたきもせずに返す。


「ええ、それは光栄。でも指示ってもう少し“能力”がある人が出すものじゃない?」


「は?」


「だって今のところ、“とりあえず喧嘩売ってこい”と“火元に突っ込め”しか言ってないわよ?」


「……うるせぇな」


「せいぜい、指揮官としての威厳を保てるよう努力して」


彼女の言葉はまるで、鋭利な針に絹糸を巻いたような柔らかい毒だった。


「じゃあ、せめて言っとく。お前、取り扱い注意だからな。可燃性高すぎて、俺のほうが爆発しそうなんだけど」


「その場合は、“自己責任”って言葉をお渡しするわ」


冷淡に言う白鷺の横顔に、ふと心が揺れる。

強いのか、弱いのか。近いようで、遠い。

でも――それでも、俺はこの距離を少しずつ詰めていく。たとえ、何度火傷を負っても。



放課後、高層マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。


ドアが閉まると、静かに上昇が始まる。耳がわずかに詰まる感覚。十数階、二十階――ボタンの数字が次々と消灯していく。やがて辿り着いたのは、ほとんど最上階に近いフロアだった。


通された部屋は、まるでモデルルームのように無機質で整然としていた。壁一面の窓ガラス。無駄のないモノトーンの家具。床には一切の乱れもない。だが、整いすぎた空間はどこか冷たく、生活感は希薄だった。


窓の向こうには、東京の街並みが、雨に滲んで揺れていた。雨粒がガラスを滑り落ちる様子は、まるで窓そのものが泣いているように見えた。その光景は、この部屋の中で何が始まるのかを、予感しているようだった。


「ただいま」


白鷺が小さく呟くと、リビングの奥から女性の声が返ってきた。


「あら、お友達を連れてくるなんて珍しいじゃない」


出てきたのは、どこか白鷺に似た雰囲気の女性だった。涼しげな目元、隙のない化粧。張り付いたような笑みが浮かぶその顔は、一見して“完璧”だった。でも、その奥にあるものは、俺でも直感的にわかった。防衛的な笑顔だ。


白鷺はその声に顔を向けることもなく、玄関にしゃがみ込んでローファーを脱いだ。


「話したいことがあるの」


母親の笑顔が、一瞬だけひきつった気がした。


「……なに? 彼氏の紹介?」


冗談っぽくそう返す声は軽やかだったけど、どこか声が上ずっていた。俺の方にも目を向けたが、すぐに視線を逸らす。


「今、お茶淹れるから待っててね」


白鷺は無言で頷いた。母親はキッチンに消えていき、ポットのボタンを押す音、カップを出す音だけが室内に広がる。外の雨音と重なって、妙に静かだった。


俺は促されてダイニングの椅子に腰を下ろした。白鷺はその向かいに座る。綺麗に整理されたリビングは、どこか寒々しい。完璧に整っているのに、生活の気配が薄い。


しばらくして、白鷺が口を開いた。


「黒瀬先生のこと」


お茶を注ごうとしていた母親の手が、止まる。


「それがどうしたの?」


「単刀直入に言う。縁を切りたい」


静かに、抑えた声だった。でも、その言葉の一つひとつが重くて、まっすぐに刺さる。


母親はゆっくりと振り返る。手にしたティーカップは静かに揺れていた。


「それまた、どうして?」


「全部知ってて、よくそんなこと言えるね」


白鷺の目は、どこまでも冷静だった。感情を押し殺しているわけじゃない。ただ、はじめから期待なんてしていないだけ――そんな目だった。


「なにを言ってるのよ?」


母親の声が、少しだけ震えた。でもすぐに笑みを取り戻す。カップをテーブルに置こうとするそのとき、白鷺が言った。


「彼は知ってるから、隠す必要ないわよ。私が全部、喋った」


一瞬、空気が凍った。


「……誰にも話すなって、言ったでしょ?」


声が低くなった。さっきまでの冗談めいた口調は消え、瞳の奥に剥き出しの敵意が宿っていた。


「詩音のためを思って、口を噤んでたのよ。何もかもを暴いて、何になるっていうの?」


「“私のため”を言い訳にして、自分が守られたいだけでしょ。黙ってれば何も起きなかった――そう思いたかっただけ」


「何様のつもりよ。あんたは子どもで、私は母親。家庭を壊さないように、どれだけ気を遣ってきたと思ってるの!」


「家庭? これが? 私がどこで、誰に、何をされたか全部知ってて、黙ってたあなたのことを“家族”だなんて思えない。それにこの発端はお母さんが…」


その言葉を母親は遮った。


「だってあの人は……必要だったのよ!私たちにとって」


「私たちじゃない。お母さんがでしょ」


白鷺は一切、声を荒げなかった。静かに、淡々と、けれど一言ごとに母親の嘘を焼くように言葉を重ねていく。


「今だって、関係は続いてる。お母さんは、それも全部知ってた。違う?」


母親は沈黙した。何も言えず、ただ唇を結んでいた。俺は思わず息を呑む。この空間にいるだけで、身体の芯が冷たくなっていく。


「お母さんは、黙っていたんじゃない。私に、黙らせてきたの」


白鷺の声が、初めて少しだけ震えた。けれど、表情は変わらない。まっすぐ母を見ていた。


「もっと、我儘を言えばよかった。もっと、泣き喚けばよかった。でも私は、黙った。だって、それがお母さんのためだと思ってしまったから」


「……詩音」


母の顔から浮かぶのは後悔ではなく、静かな怒りだった。


「誰かに話して、何か変わると思ってるの? あんたが傷ついたって世間は言ってくれない。そんなの、ただの自己満足よ!」


「別に話そうとは思っていない。」


白鷺は冷静に答える。


「私と彼の間で共有できていればそれでいい。だけど、この関係はもう終わりにしたいの」


淡々としたその言葉が、室内の空気を裂いた。


沈黙の中で、白鷺がゆっくりと立ち上がる。

そのまま、母親の正面まで歩み寄った。そして再び、膝をついた。


今度は、母親に向けて。カーペットの上で手をつき、深く、頭を下げる。


土下座だった。


俺は反射的に立ち上がりかけて、けれど動けなかった。

白鷺の背中から伝わってくるのは、屈服でも屈辱でもなかった。それは、決別のための儀式のようだった。


「……私が黙っていたこと、それが一番の罪だった」


静かな声が、絞るように吐き出される。


「お母さんに拒まれるのが怖かった。壊されるのが怖かった。だから、私は……自分の中で、あの出来事を“なかったこと”にした」


床に水滴が落ちる。髪からか、服からか、それとも涙か、もうわからなかった。


「でも、なかったことにしたのは私自身。私が黙ったから、あの人は今も平然と生きてる。そして私も未だに、逃げられずにいる」


母親は何も言わなかった。

白鷺は頭を深く下げたまま、語る。


「私は、自分がされたことより、自分が何も言えなかったことのほうが、ずっと、ずっと苦しかった」


母親の指がわずかに震える。けれど、口は閉じたままだ。

白鷺は、最後に言った。


「これは、私の罪をお母さんに許してほしいからじゃない。私が私を赦すために、ここで頭を下げてる。もう、黙ってるだけは終わりにしたいの」


白鷺は立ち上がり、黙って部屋の奥へと歩いていく。

扉が閉まる音だけが、静かに響いた。


しばらくして、再び姿を現した白鷺の手には、膨れ上がったスクールバッグが握られていた。


「少し遅い反抗期です。では、家を出ます」


「……それでも、私はあなたのこと、誇りに思ってるわ」


一瞬、白鷺の足が止まる。だが、振り返ることはなかった。


「それが一番、救いようがない」


そう言って、白鷺は玄関のドアを開け、雨の外へと出ていった。


俺は母親に一礼をして、白鷺の後を追った。

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