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青春は奇譚である  作者: テイク4
白鷺詩音
7/13

狸の棲むところ

「ねえ、知ってる?

『満点』って、人を黙らせる呪文なの。


小学五年の頃の話よ。

テストの点数が悪いと、母は口を利かなくなる人だったわ。

無視、じゃないの。ただただ、冷たくなるの。

私が泣いても、喉を痛めても、何も変わらなかった。


でも百点を取ると、母は「よく頑張ったわね」と笑うのよ。

まるで別人みたいに。

そういう魔法を、私はずっと信じてた。


ただ、皮肉なことに——その魔法は、母の手にはなかったのよね。


母には勉強を教える力がなかった。

だから、塾に通わされたの。

…そこの塾講師が、彼。黒瀬 淳一だったわ。


優しくて、親切で、ちょっと馴れ馴れしくて。

でも当時の私は、嫌じゃなかったの。

成績が伸びるたび、褒めてくれた。

母にも報告してくれて、「あなたのお嬢さんは素晴らしい」って。


誰かに必要とされている気がしたのよね。


……でも、本当に必要とされてたのは、私じゃなかった。


母は綺麗だったわ。若くて、プライドが高くて。

そして、人を面倒に思う性質だった。

先生が母を口説くのを、母は「鬱陶しい」と言っていた。

だけど、その鬱陶しさを——母は、私で処理したの。


成績が上がったら、私を抱かせてやる。

条件付きのご褒美ってやつ。


…馬鹿みたいでしょ?

それを知らない私は、A判定の模試結果を抱えて、嬉々として家に帰ったの。


「先生が、お祝いにって、みんなでおうちパーティーしようって」

そう言って、母に許可を取った。

母は笑っていた。

今思えば、あれが合図だったのかもしれない。


——パーティーに、生徒はいなかった。


代わりにあったのは、ロックのかかった扉と、優しい声をした怪物と、

……私の意思が割れる音だった。


痛かった、なんて思わなかった。

ただ、痛みが“あったらしい”という事実だけが、体にこびりついてた。


「お祝いだよ」って言ったくせに。

「大丈夫、怖くないから」って、笑ったくせに。


——何かが壊れる音がしてた。私の中で、確かに。


終わった頃、チャイムが鳴ったの。

玄関の、あの軽薄な電子音。

彼は「あ」と気の抜けた声を出して、のんきに笑った。


「来たみたいだよ」


扉の向こうにいたのは、母だった。


彼はなんのためらいもなくドアを開けて、

「どうぞ」なんて言葉で、地獄に客人を招いた。


私は、シーツにくるまってた。

ねじれるほどに体を丸めて、何も映さない目で床だけを見てた。


母は、私を見た。けれど——何も言わなかった。

その代わりに、冷蔵庫みたいな声で言ったの。


「詩音、このことは誰にも言ってはダメよ。もちろん、お父さんにも、先生にも。あなたが頭良くなれたのは、この人のおかげなんだから。わかってるわよね? 言ったら……お母さん、あなたを叩かなきゃいけなくなるの」


ああ、って思った。

この人も、味方じゃなかったんだって。


ただ、それだけのこと。


だから私は、もうやめることにしたの。

怒るのも、泣くのも、訴えるのも。


……全部、無駄だって、よくわかったから。


信じられる人なんて、いない。

…そう思っていた。そう決めていた。

なのに、ね。

結局、私は願ってしまったのよ。

誰か、一人でもいい。味方でいてくれる人が欲しいって。


滑稽でしょ?

裏切られて、踏みにじられて、壊されたくせに。

それでも、望んでしまうの。

孤独って、そういうものなのよ。

毒みたいに、静かに、ゆっくりと心を侵していく。


そんな中、突如として私の目の前に「それ」は現れたの。

言葉じゃない、理屈じゃない。

まるで…呼吸するように、自然にそこにいた。


それは、私の二倍はあろうかという、黒くて艶やかな毛並みの狸だった。

光も影も纏っていないようで、輪郭だけがやけにくっきりしていた。

行儀よく、まっすぐ私の正面に座り、何かを見透かすようにこちらを見ていた。


——異質だった。

だけど、触れた瞬間、確かに感じたの。

これは“この世界の領域”じゃないって。


祈端。


その言葉を私はまだ知らなかったけれど、

それが“何か”を変えてしまうものだってことだけは、わかった。


願ったからよ。

「味方が欲しい」なんて、浅ましい望みを抱いたから。

——私の目の前に突如として現れたの。


触れた瞬間に、その狸は消えてしまった。

何処かへ行くでもなく、その場からパタリと姿を消した。


そこからよ。

気づいたら、他人の心の声が聞こえるようになっていた。


最初は、夢だと思ったわ。

だって、こんな都合のいいことがあるわけないもの。

でも違った。現実だった。


誰かと目を合わせるだけで、頭の中に“本音”が流れ込んでくるの。


なのに、聞こえてくるのは、ずっと“嘘”だった。

言葉と心が、まったく重ならない。


ああ、そうか。

私が欲しかった“味方”なんて、最初からこの世に存在しなかったのよ。


心の奥に触れられるようになったはずなのに、

代わりに得たのは、もっと深い絶望だった。


……だから私は、また閉じることにしたの。

心も、耳も、瞳も。

何も聞かないし、見ないし、感じない。

それが一番、壊れずに済む方法だったから」




白鷺は、自分の過去を話してくれた。

声を震わせることも、涙をこぼすこともなかったけれどそれが余計に痛かった。


俺は、ただ聞くしかなかった。

下手な言葉で何か返したら、その静けさごと、崩してしまいそうで。


でも、それでも彼女は、自分の過去と、これからに向き合おうとしていた。


「こんな私を救えるものなら、救ってみなさい」


その言葉には、正直、驚いた。

けど、あれは強がりでも皮肉でもない。

ずっと誰にも頼らずに生きてきた彼女が、ほんの少し、誰かに期待してみせた。

……たぶん、そういう意味だったんだと思う。


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