夜のふち、和らぐ声
屋上の床に、怜は膝をついた。
崩れ落ちるようにその場に座り込んだ白鷺は、まだ怯えた様子を隠しきれていなかったが、呼吸は徐々に落ち着きつつあった。
夜の冷気が、二人の熱を奪っていく。
怜の背中からは、信じられない速度で血の気が引き、裂けた皮膚が、まるで巻き戻しのように再生していく。
その様子を、白鷺は茫然とした表情で見つめていた。
「……なんで。さっき……撃たれたはずじゃ……」
「うん。撃たれた。めちゃくちゃ痛かったし、正直今も気を抜いたら気絶する自信がある」
冗談めかして言いながら、怜はゆっくりと体勢を立て直した。
「でも、大丈夫。俺、こういう体だから」
白鷺は、目を細める。
「……人間じゃないのね。あなたも」
怜は、その言葉に対して頷いた。
「まぁ、そうかもな。……この原因を“祈端”って呼ぶんだ」
一拍置いて、続ける。
「祈端ってのは──“願い”が歪んだ形で叶えられる現象。代償として、心か体に“後遺症”が残る。それは誰にも制御できないし、選べない。ただ、強く祈った瞬間にそれは起こる」
白鷺の瞳に、微かな動揺が走った。
でも、すぐに俯いて、自分の手を見つめるように呟く。
「そしたら……私も、祈端の後遺症があるわね」
怜は静かに頷く。
「白鷺さんの後遺症って、心が読めるとか?」
「その通り。私は相手の本音が、勝手に聞こえてしまうの」
「便利なんだか、不憫なんだか……」
白鷺は、わずかに笑って、すぐにその笑みを引っ込めた。
「便利に思ったことなんて、一度もないわよ」
「そりゃあ、そっか」
怜はわずかに苦笑する。
白鷺の目が再び鋭くなる。
「でも、さっきの人は何なの? 」
「あれは“祈端狩り”。後遺症持ちを見つけて殺す人達だよ。本人たちからすれば、掃除感覚。手間はかかるけど、必要な作業ってやつ」
白鷺が、しばらくして口を開いた。
「狩りって……簡単に言うけど」
「簡単に言ってるつもりはないよ。でも現実は、そう簡単に人を殺す。異能者に優しい世界はフィクションにしか存在しない。」
俺は、静かに言った。
「後遺症持ちってのは、基本的にそうなんだ。隠れるか、殺されるか。誰にも見つからずに生きてくか、見つかって処理されるか。生存確認された時点でゲームオーバーってルール。ちょっと不親切なゲームだろ?」
白鷺が低く呟く。
「……それじゃ今回のが救われたなんて、言葉遊びにもならないわね」
「まぁ、そうだな」
俺は笑って続ける
「“救い”って言葉は、綺麗すぎるかもな。……でもさ、選択肢って、二つしかないって決めつけられると──逆に探したくならない?」
白鷺が、怪訝そうに目を細める。
「何を?」
「三つ目。第三の選択肢ってやつ」
「……三つ目?」
「そう。正解でも、不正解でもない。ルールの外側にある“裏ルート”。バグみたいなものだよ。最初から用意されてたわけじゃないけど、ある時ふっと見える道。」
口にしてみて、自分でも少しだけ苦く笑った。
こういうセリフは、誰に言っても大抵嫌われる。
逆張りだと。
でも実際には、その道は存在する。
ただし──狩られるよりも、よっぽど厄介で、骨の折れる方法として、だけど。
俺は少しだけ笑ってみせた。そして、ゆっくりと彼女の方を向く。
「それが──白鷺さんにとって救いになると思ってる」
白鷺は静かに瞬きをした。それは、少しだけ、心を揺らされた証だった。
「それが私にとって、救いになると?」
「間違いなく。……そのためにも、白鷺さんの“祈り”の根っこを知る必要があるんだ」
「祈った理由の根本的解決が必要と」
「さすが話が早いね」
俺は軽く笑う。
「それに、俺も混ぜてくれ。乗りかかった船だ。同じ後遺症持ち、バディとしては適任だと思うけど?それにものすごく痛い思いんしたんだ。その責任として白鷺さんには俺の言うことを聞いてもらわないと困るんだよ。」
「随分と強引だこと」
白鷺はわずかに眉を寄せた。疑問とも呆れともつかない視線が向けられる。
「……何でそこまでするの?」
「うーん……」
言葉を選びながら、俺は空を見た。月は雲に隠れかけていた。
「俺も、少なくとも“救われた側”だから──かな」
白鷺は短く息を吐いた。そして、小さく、呆れたように言った。
「こんな厄介ごとに巻き込まれて“救われた側”を名乗れるの、貴方くらいじゃないかしら」
その瞬間だった。
白鷺の唇が、ほんのわずかに緩んだ。目元に宿った光が、かすかに揺れる。それは、この夜初めて見せた、人間らしい笑みだった。
「俺の心、本音はどう言ってる?」
試すように問いかけると、白鷺は目をそらすでもなく、まっすぐこちらを見て答えた。
「言葉通りのことを言ってるわ。本当に……貴方って、馬鹿なのね」
「……よく言われる。言われる人間は親族だけだけどな。」
そう返すと、白鷺は少しだけ首を振った。
その仕草に、どこか張りつめていたものがふと緩んでいくのを感じた。
冷たかった屋上の空気が、ほんの少しだけ、やわらかくなったような気がした。