死にたがり
後遺症持ちの人間には、主に二つの選択肢がある。
ひとつは──それを隠して、息を潜めながら生き延びていくこと。
もうひとつは──見つかって、処分されること。すなわち「死」だ。
この“選択”は、本人の意志でなされることはほとんどない。
後者に落ちる人間の大半は、ただ“バレた”だけ。
祈端に触れ、後遺症を背負ったその瞬間から、地獄への分岐点に立たされる。
──かくいう俺も、後者になりかけた人間だった。
この世界に「希望」があるとしたら、それは、
自らの意志で“選び直す”余地が、ほんのわずかでも残されているということ。
だから、俺は思う。
彼女を救いたい──と。
その感情は、もはや理屈じゃなかった。
気がつけば、俺の足は夜の街を駆けていた。
向かう先は、白鷺詩音が暮らすタワーマンション。
冷えた空気を肺に流し込みながら、ただそれだけを胸に。
時刻は、夜の十時を少し過ぎた頃。
マンション前のロータリーに、一台の黒いセダンが滑り込む。
エンジン音は静かで、周囲の住宅街にはほとんど人影もない。
運転席の男──白鷺が“先生”と呼ぶ塾講師が、助手席の彼女に微笑みかける。
「今日はありがとうね。また誘うよ。……アフターピル、忘れないように飲んでね」
白鷺は何も言わなかった。
静かにドアを開けて車を降り、そのまま男の顔を見ずに背を向ける。
ドアが閉まる音すら、夜の空気に吸い込まれていった。
車は走り去り、ロータリーに残されたのは白鷺ひとり。
彼女は、足元を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……本当に、最低ね」
自分に向けた言葉だった。
誰にも届かないような小さな声で、ひとつ。
そのときだった。
背後から、場違いな声が響いた。
「──傷心中、失礼するよ。お嬢ちゃん」
白鷺は反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、見たことのない男だった。
背格好はごく普通。しかし、手足が異様に長い。
垂れ下がった前髪が顔を隠しており、目が見えない。
どこか人間離れした雰囲気が漂っていた。
「……どちら様ですか?」
白鷺の問いに、男は口角だけを釣り上げる。
「そうだな。“お初にお目にかかります”は──**鈴蟲**とでも名乗っておこうか。以後お見知り置きを」
「私に、何のご用ですか?」
白鷺の声は、わずかに揺れていた。
鈴蟲は小さく笑う。
「え、それは……言わなくても、わかるんじゃない?」
その瞬間だった。
白鷺の肩がぴくりと震えた。
次いで、足元から力が抜け、ガクンとその場に膝をつく。
背後の壁に手をついて、崩れ落ちるように座り込む。
呼吸が乱れ、喉が鳴る。
空気の温度が、数度下がったように思えた。
「……嘘でしょ……」
絞り出すような声が漏れる。
「嘘じゃないよ。本当だとも」
鈴蟲は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと近づいていく。
足音は妙に静かだった。
「なぜ……私を、殺すの……?」
言葉にするたび、喉がかすれる。
それに対する鈴蟲の答えは、あまりにも簡潔だった。
「一言で言えば──金になるからだな」
その言葉が降りかかると同時に、白鷺の瞳から色が抜け落ちる。
「あら、もっと恐怖してもいいんだよ?」
にこやかに鈴蟲は笑った。
「はは……」
乾いた笑いを漏らしたのは、白鷺の方だった。
「本当に、私は最低な人生だったわね」
「……ん?」
怪訝そうに眉をひそめる鈴蟲。
「でも、やっと終われるなら、それでもいいのかも」
俯いていた顔を、白鷺はゆっくりと上げる。
その目に宿る光は、既に失われていた。
目尻から伝うひとすじの雫が、頬をつたう。
そして、白鷺は微笑んで言った。
「早く、私を楽にして」
鈴蟲は舌打ちをした。あからさまに不機嫌だった。
「つまらねぇヤツだな」
そう呟くと、ポケットから拳銃を取り出す。
冷たい銃口が、白鷺の額に押し当てられる。
「俺が一番嫌いなタイプだよ。お前は」
苦々しげに、鈴蟲はそう言い放った。その瞬間。
──間に合え、間に合え、間に合え!
脇道から飛び出した瞬間、俺はそれを視界で捉えた。
「うおらぁああああッ!!」
俺の体が、先に飛び出していた。
考えるよりも早く、脊髄反射みたいに。
ぶちかましたタックルがガツンと入って、あいつ、後に“鈴蟲”と分かった男──が綺麗に吹っ飛んだ。
銃が手を離れて、カランと地面を跳ねる。
「……っ、大丈夫か!?」
目の前で呆然とする白鷺さんを見て、俺はすぐに庇うようにその前に立つ。
顔は青ざめて、でもどこか……諦めにも似た色をしていた。
「……なぜ、ここに……?」
その声に、俺はちょっとだけ笑って答える。
「助けてって声が聞こえたから」
冗談めかしで言った。
でも、そうとしか言えなかった。
「……私はもう、生きることは望んでいない」
ぽつりと、白鷺さんが言う。
その言葉が、胸のどこかをズキンと抉った。
「だったら、今の白鷺さんの顔を鏡で見せてやりたいよ」
俺の言葉に、彼女の眉がわずかに動く。
「到底、死を望んでいる人の顔には見えないけど。
……ま、普段の白鷺さんよりは人間味あって、俺は好きだけどね」
ほんの少しだけ、その目に火が戻った気がした。
──けど、束の間だった。
「……ッたく……ガキが……!」
鈴蟲が呻きながら這い上がり、落ちた銃を拾った。
その姿を見て、背筋に冷たいものが走る。
「ッ!? おいおい、銃!? 聞いてねぇよ!!」
銃声が轟く。数発、立て続けに。
とっさに白鷺さんを抱き起こし、背中を向けて庇った。
「立てるか!? 無理だな──よし、失礼!」
そのまま強引にお姫様抱っこをする。
俺の夢が一つ叶った瞬間だった。
「離して!」
「こっちのセリフだ。……話してくれ。君に、何があったのか」
けれど、背中の白鷺さんは沈黙を貫いたまま。
重みと温度だけが、俺の背中にのしかかってくる。
「逃がすかよッ!!」
その声と同時に、もう一発──
ズンッ……!!
背中に衝撃が突き刺さった。
焼けた鉄の杭が、皮膚を裂き、肉を抉って、骨を突き破る。血飛沫が舞い、白鷺の顔にまで飛び散った。
「ぐ……ぅああっ!!」
「ちょっ、ちょっと。貴方まで死ぬわよ!!」
「だ、大丈夫……俺死なない……っから」
膝が崩れそうになる。
でも、倒れるわけにはいかない。白鷺さんがいる。
肺に空気が入らない。
呼吸をするたびに、傷口の中に氷と火を交互に流し込まれるような痛みが走る。
「……っ、くそっ……! 俺の背中、やわらかすぎんだろ……!」
冗談みたいな声が出たのは、きっと意地だ。
意識がふわっと遠のきそうになる。けど、まだ倒れない。
白鷺さんの腕の重みが、現実に引き戻してくる。
後ろでは、また銃の引き金が引かれようとしていた。
音が、確実に近づいてくる。
──このままじゃ、どっちも死ぬ。
そう判断するのに、時間は必要なかった。
「白鷺さん──俺の体に、しっかり捕まって」
「……え? どういう──」
「いいからッ! 絶対に振り払われないように、しがみついてろ!」
その声に圧されるようにして、白鷺は俺の服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
細い指が、震えながらもしっかりと俺を掴んでいるのがわかる。
俺は、腹の底から息を吐いた。
(火事場の馬鹿力ってやつを、見せてやる。)
人間の体には、本来もっととんでもない力が眠ってる。
ただそれは、「壊れること」を前提にした力だ。
「っぐぅ……!!」
足に全力で力を込める。
地面が悲鳴をあげるように、バキバキとひび割れる音が響いた。
そして──踏み出す、一歩。
ドンッ!!
その一撃で、地面のコンクリートが抉れた。
同時に、俺の足の骨も粉々に砕ける。
けれど、それでも構わない。
視界が一瞬で流れ、世界が後方に吹き飛ぶ。
まるで空を飛ぶかのような勢いで、俺たちは跳躍していた。
数百メートルを、一息に──
白鷺が背中で小さく悲鳴をあげる。
「ッ、あああああっ……!!」
「大丈夫、大丈夫だから!……着地は未定だけど!!」
もはや勢い任せだ。
けれど、確かに俺たちは、あの場から“逃げ切って”いた。
着地の衝撃が、地面から背骨へ、全身へ突き抜ける。
骨が何本か、確実に折れた。
でも、白鷺さんの温もりだけは、まだ俺の腕の中にあった。