拒絶の向こう側
白鷺詩音の姿を見失わないよう、俺は人気の少ない道を慎重に歩いた。
放課後のタワーマンション街。
携帯に届いた、たった一件の通知──それを見た彼女の表情が、どうしても引っかかっていた。
何かが起きる。直感めいた確信があった。
そして今、俺はその「何か」の入り口に立っている。
白鷺が立ち止まったのは、高層タワーの自動ドアの前だった。
そこには、先客がひとり──
三十代半ば、細身のスーツ姿の男。きっちりと整った外見は、どこか作り物めいて見えた。
男は、彼女を見るなり、穏やかな笑みを浮かべて声をかけた。
「詩音ちゃん、おかえり」
……父親、というには若すぎる。
どこかの知り合いだろうか。
その問いに答えるように、男は自然に白鷺の手を取り、自分の車へと導こうとする。
白鷺は、特に抵抗を見せなかった。
だが──その行動は、あまりにも不自然だった。
白鷺詩音が、誰かの言葉にこんな素直に従う姿を、俺は知らない。
嫉妬かもしれない。
だが、それを差し引いても、彼女の様子は“おかしい”としか言えなかった。
だから、俺の体は勝手に動いていた。
「──ちょっと待ってください」
俺は、男に連れられようとしていた白鷺の手を、思わず掴んだ。
男は軽く目を細め、俺を値踏みするような視線で見つめた。
「……誰かな? 君は」
「白鷺さんの同級生です」
「そうかい。お友達ができたんだね、詩音ちゃん」
「友達だなんて思ってませんが」
白鷺は無表情で、静かにそう答えた。
「……だそうだ。友達じゃないなら、その手を離してくれないか?」
男は穏やかに言う。その笑顔に、僅かだが“押しの強さ”が滲んでいた。
「それより……あなたは誰ですか?」
「私は彼女の中学の頃の塾講師だよ。昔から仲良くてね。今から、ちょっと食事でもと思って迎えに来たんだ」
傍目には、不自然な関係には見えないかもしれない。
だが──
「……彼女の手。震えてますけど」
俺の手の中にある白鷺の手は、かすかに震えていた。
嫌悪か、恐怖か──それを言葉にしなくても、体は正直に反応していた。
「それは君が急に握ってきたからじゃないのか?年頃の女の子だ。友達でもない男にいきなり手を掴まれたら、そりゃ怖がるさ」
「友達じゃないかもしれません。でも、彼女に“震えるほど怖がられる仲”でもない」
「それは、そのまま返すよ。僕と詩音ちゃんの関係に“怖い”なんて感情は存在しない」
どこまでも理路整然と、相手の土俵で言葉を返してくる男。
だが、言葉にできない違和感が、やはり消えない。
「なら、聞いてみましょうか」
俺はそう言って、白鷺に視線を向けた。
「白鷺さん。……この人と、本当に一緒に行きたい?」
そのとき、白鷺が初めて俺を見た。
その目は、どこか冷めていて──けれど、なぜかほんの少し、濡れているようにも見えた。
「……貴方には関係ないわ」
低く、決然とした声だった。
「そうやって、全部自分で抱え込むつもり?」
「何も知らないくせに、首を突っ込まないで。」
その言葉は珍しく感情の乗った言葉となっていた。
まるで何かをあえて遠ざけるような。逃げるような。そんな声で言葉を続ける。
「それが……私からのお願いよ。だから、言うことを聞いてくれるかしら」
その言葉と共に、白鷺は俺の手を振り払った。
そして、自ら車の助手席へと乗り込む。
「……だそうだ。帰りなさい」
男は俺を一瞥してそう言い放ち、運転席へと歩いていく。
俺は、動けなかった。
歯を食いしばりながら、ただその場に立ち尽くした。
車に乗り込んだ白鷺の横顔が見える。
その口元は、かすかに、でもたしかに。言葉を紡いでいた。
五文字の言葉を。それは彼女から出るにはあまりにも優しくて温かい言葉だった。
それが悔しくてたまらなかった。
梅雨入り前の湿気が混じりつつも春の冷たさが残る夜。部屋の中で俺は携帯を握りしめながら、通話画面の発信ボタンを押した。
ワンコール。……すぐに応答がある。
『……やれやれ。君の番号を見ると、つい仏壇に手を合わせたくなるよ』
「第一声でそれかよ。ご愁傷さまってか」
『いやまさか。君が死ぬ前に、相手の人生が終わるんじゃないかと心配してるのさ』
「ありがたくない心配だな。……まあ、図星だよ」
俺の声が沈んでいたのを、向こうはすかさず察する。
『ほう、これは重症だ。恋か、病か、あるいは──嬢ちゃんか』
「その三つ、全部“彼女”って意味になるのが恐ろしいな」
『洒落の通じる青年で助かるよ。で?首を突っ込んで、首が回らなくなったってとこかい?』
「言い得て妙だな。……柊さん、白鷺の過去について、少し話を聞きたい」
『過去?』
「前に言ってたろ。中学時代、塾でも成績トップだったって。……そのときの塾講師と、白鷺の関係って、どうだった?」
一瞬だけ、電話の向こうの空気が変わる。
『……俺がそれを知ってるとでも?』
「知ってると思うから聞いてる」
僅かに呼吸が止まり、再び吹き出すタバコの気配が、通話越しでも伝わってきた。
『本当に勘のいい事』
やれやれと呟くように、またタバコに火をつけた音がした。
「ってことは……やっぱ、祈端絡みか?」
『結論から言えば正解だ。』
「いつから?」
『焦るな焦るな、情報は逃げねぇよ』
つい力が入る返答をしてしまったようだ。
『発現のタイミングは中学時代で間違いない。性格がガラリと変わった時期は中学二年の夏。夏期講習が終わったあたりだ。前までは温厚で可愛らしいお嬢ちゃんだったそうだぞ』
「全く想像ができないな」
スピーカー越しに笑いが入る。
『まぁ、そりゃそうだな。でも想像してみ?あのお嬢ちゃんが温厚なの想像したら。そりゃ可愛いってもんじゃないだろうよ。まあ、でもあのツンケンな態度も俺は好きなんだけどな』
「別に柊さんの性癖を聞いてるわけじゃないんだが」
『こんだけ面倒見てやってるんだ、女の趣味くらい分かって俺に紹介しろ』
「紹介できる人間がそもそも男女共に居ないの分かったんだろ」
『妹がいる』
「絶対に無理!!」
また高笑いが聞こえた。
『冗談だよ。本気にされると困っちゃうなぁ。怜お兄ちゃん』
「冗談はともかく、白鷺の話に戻りたいんだが」
『あぁ。まぁ塾に熱心だったのは母親の方だったそうだ。父は会社経営でほとんど家を空けていたらしい。母は学歴がコンプレックスにあって、それを娘に押し付けていたってみたいだな』
「本当に怖いな。……どこからそんな情報仕入れてくるんだよ……」
『さぁね。それは企業秘密ってやつだよ』
乾いた声と共に、また煙の音が混じる。
『……だが残念ながら、君が本当に知りたい情報──“その塾講師と白鷺の関係”については、俺も知らない。そこまでは調べる必要がなかったからね』
「いや、十分だ。……その時期に祈端に接触してるってだけで、塾講師が原因だって、ほぼ確信に変わった」
『十中八九と言ってもいいが、、、確信が無いうちに決め打つのは悪手だ。いつか身を滅ぼす。それに……俺はもう一度、忠告しておく』
その声の調子が変わる。
『これ以上、彼女に関わるな。そうだな、、、明日には、白鷺詩音のことを忘れろ』
「っ……!」
その一言が、俺に焦りをかき立てた。
反射的に、椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「それ……もっと早く言えよ……っ!」
俺は通話を切ると、上着を掴み、玄関の扉を勢いよく開いた。
冷たい風が頬を打つ。
けれど、それ以上に胸の内がざわついていた。