触れてはならないもの
放課後の図書室は、いつもより少しだけ人の気配が少なかった。
長机の奥、窓際。白鷺詩音はそこにいた。陽の傾いた光が差し込む静かな一角で、彼女は背筋を伸ばしながら本を読んでいる。周囲の気配を完全に遮断しているかのような、完璧な孤立。
俺はその隣の席に、遠慮もなく腰を下ろした。
「やっぱりここにいたか」
ページをめくる手が止まった。だが、詩音は視線を本から上げない。
「……何をわかった気になってるの」
「別に、わかった気にもなってないし。君のことを知ったつもりもないよ」
「嘘ね。どうせ、私のこと、いろいろ調べたんでしょ」
「調べたとしても、俺ひとりで知れる情報なんて、たかが知れてるだろ」
「そうね。貴方ひとりならね」
詩音の口元にうっすらと浮かぶ笑みは、嘲笑とまではいかないが、あまりにも冷たかった。
「ずいぶんと察しがいいご様子で」
「……んで、何の用?私のスリーサイズでも聞きたいの?お猿さん」
それは、知ってるんだよな……。いや、違う。俺は今、それを言うべきじゃない。
「最低ね」
即答だった。
「おい、俺はまだ何も言ってねぇだろ」
「もう知ってる顔してたわよ」
「……否定はできないな」
「変態」
「んまぁ、そう思っててくれて構わないよ。でも、俺はただ、君のどこか“人間っぽくない”部分がどこから生まれてるのか、その理由を知りたいだけ」
詩音はようやく本を閉じ、視線を俺に向けた。
「“人間っぽくない”ね。……それなら今の私は、“人間じみた何か”とでも言った方が、まだ正確かもね」
それはまるで、自分が人間でないかのような、妙な言い回しだった。
「……心当たりがあるんだな」
「いいえ、全く」
「今さら隠すのか? 随分と往生際が悪いご様子で。」
「“往生際”と“性格”が悪いのが、私の取り柄だから」
「全く褒められたものじゃねえな。んまぁ、だとしたら俺は“諦めが悪い”のが取り柄だな」
一瞬、詩音の目が鋭く光った。その視線は、明確に俺を拒んでいた。これ以上は関わるな、という意志を込めて。
「知ってた?しつこい男って嫌われるのよ」
「重々承知してる」
「もしかして、貴方ドM?自ら嫌われに行くなんて、面白い趣味してるわね」
「そりゃどうも」
「否定しないあたり、本当にそうなんじゃないかって思ってしまうわ。……怖いから離れて。変態」
「俺はただ、君のことを知りたいんだ。白鷺さん、君のことを」
「……まだ名乗ってもいないのに、名前どころかスリーサイズまで知ってる男に、話すことなんて何もないのだけれど」
……全くその通りだった。
俺は仕切り直して口を開く。
「さっきのクラスでの出来事。白鷺さんは、本当にあれで良かったの?」
「……見てたのね」
「見てたというか……見えてしまったというか」
「そう。じゃあ今度は、クラスでの出来事を学校中に広めさせたくなければ、口止め料として裸の写真でも送れとか言い出すのかしら?」
「俺はそんなに非道じゃない!」
「そうね。ごめんなさい。“無能”の間違いだったわ」
「それ、もっと酷くなってないか!?」
「声がうるさいから黙って」
つい、ここが図書室であることを忘れていた。
俺は、一旦上がった声量とボルテージを、ゆっくりと下げた。
突如として戻ってきた図書室の静寂が、「お前がうるさい」と言外に伝える無言のメッセージのように響いた。
「悪かったな。」
「ちゃんと心から反省できるのは素敵なことだと思うわ。」
「白鷺さんは一体どの立場からモノを言ってるんだか」
俺がそう返した直後、白鷺のスマートフォンが机の上で短く震えた。
静かな図書室に、かすかな通知音が響く。
白鷺は一切の表情を動かさずに手を伸ばし、画面を覗いた──その瞬間。
微かに、空気が変わった気がした。
一瞬だけ、彼女の顔から血の気が引いた。
目元に走った翳りは、いつもの冷たい仮面をほんの少しだけ剥がしていた。
「……どうかした?」
俺がそう尋ねても、白鷺は答えず、スマホの画面を伏せて机に戻す。
それはまるで、“見なかったことにする”ことだけを自分に許したような、静かな拒絶だった。
「……顔色、悪くない?」
「気のせいよ。図書室の照明、ちょっと青白いから」
「いや、それだけじゃ──」
「詮索、好きなの?」
ぴしゃりと言葉を遮られる。
白鷺の目は、さっきまでよりも冷たく、どこか突き放すようだった。
「どうせまた、“自分だけは特別”って思ってるんでしょう? 私と話せてるから、私のことを知ってるつもり? 近づけば、何か変えられると思ってる?」
少しずつ言葉に棘が混じる。それでも声は穏やかだった。
逆に、それが怖いほどに。
「……別に、そんな風に思ってたわけじゃ──」
「いいの。言わなくてもわかるから」
微笑んだ彼女の表情は、やっぱりいつもと同じ“仮面”だった。
でも、その奥で──ほんのわずかに“怯え”のようなものが滲んで見えた。
俺はその一瞬を見逃さなかった。
「……もし、助けが必要だとしたら──」
言い終える前に、白鷺が言葉をかぶせる。
「誰にも、助けなんて求めない。
過去に一度でもそれをしたことがあるなら──今の私は、こうじゃなかった」
どこか遠くを見つめるような声だった。皮肉も、強がりもなかった。
その静けさが、かえって彼女の過去の“重さ”を感じさせた。
ほんの数秒。だけど確かに、俺はそこに“何かを断ち切った痕跡”を見た気がした。
彼女の今を形作っているもの。
それは、俺にはまだ踏み込めない領域にある。