嘘のない拒絶
「白鷺詩音。彼女の名だよ」
タバコの煙がゆるく螺旋を描き、曇った窓の隅に溶けていく。
屋上の隅、立入禁止の看板を軽く蹴飛ばして入ったそのスペースは、学校の中で数少ない“禁煙指定外”の場所だった。
壁にもたれて煙を吐いていた男、柊匠は、細身の体をだらりと預けて立っていた。
ウルフカットの髪が風に揺れ、切れ長の目はどこか人を見透かすような光を宿している。
自称四十代とのことだが、ぱっと見では二十代後半。若作りが過ぎるというか、年齢詐称で戸籍が燃えてるんじゃないかとさえ思う。
「よく分かりますね。特徴を少し言っただけなのに。ストーカー気質ですか?」
「お前な。人を犯罪者みたいに言うな。俺はただの倫理担当の非常勤講師だ。」
「倫理って、それ、教える側が守ってないと説得力ないやつじゃないですか。」
「はは、心外だな。俺は生徒の私物は盗まない主義だ。盗むのは心だけな。」
「それ痛いですよ。今ならまだ取り消せますけど。ギリ笑って済ませますけど。」
「痛いと言われてもな。事実だし。」
「それ、うちの生徒は含まないですよね?」
「ん?」
とぼけた。
「まじか、この人…それで倫理の先生って、肩書き詐欺じゃないですか。職業名乗るのやめた方がいいですよ、倫理的に。」
柊はふっと笑った。俺もつられて口元が緩む。こういう脱力したやり取りが、この人とはなぜか心地いい。
「んで? 白鷺がどうしたよ?」
「いや、あくまで勘の範囲ではあるんですが、おそらく“祈端”に合ったんじゃないかと。」
「なるほど」
柊は頷いた。何に納得したのかは言わない。ただ、タバコを押しつぶすように靴で踏み消すと、煙の残り香の中でぼそりと漏らした。
「白鷺詩音。出席だけはあるが、ホームルーム以外には顔を出さない子だ。教師の間じゃ問題児扱いされてるな」
「へぇ。その感じ、なんか分かります。」
「出身は鳳英中学。全国でも屈指の進学校だな。その上、塾でも圧倒的な成績を収めていたらしい。家族構成は父が会社を経営して、母が主婦。裕福な家庭で、勉強は熱心に教えられたんだろうよ。」
「恵まれてますね。」
「そうだな。ちなみに血液型はA型。身長168の体重は48。スリーサイズは70,60,72。細身だが良いスタイルはしてる」
「どこまで知ってるんですか。気持ち悪い」
「教師の情報網は舐めるなよ。」
舐めてはいない。舐めていないのに、吐き気を催しそうだった。
「何か言いたげだな。……でも、まぁ、こういう子ってのは、得てして普通じゃないものを抱えてる」
「“普通じゃない”って、やっぱり後遺症ですか?」
思わず口にしたその言葉に、柊の目が細くなる。
それは、俺の“後遺症”について話す時と同じ目だった。過去に一度だけ見せた、教師としてではなく、何かを知る者としてのまなざし。
「お前も、本当にお人好しだこと。そんな面倒ごとによく突っ込んでいくな」
「性分なんですよ」
笑ってみせたつもりだったが、柊は笑わない。
「お前が生きてるのは、偶然じゃない。忘れるなよ」
その時、チャイムが鳴った。
「昼休み、終わるぞ。白鷺の件、深入りしすぎるな。後悔するぞ」
「なんですか、後悔って」
そう返したが、柊はもう答えなかった。
ポケットから新しいタバコを取り出し、くわえるだけで火はつけないまま、空の方を見つめていた。
最終時間割が終了し、移動教室から戻る最中、廊下を歩いていると通過する別クラスで俺はそれを見てしまった。
「ねぇ、白鷺さんだっけ? ていうか、“シオン”って名前、ちょっとカッコよくない?」
放課後前、ざわついていた教室に、ひときわよく通る声が響いた。
その声に続いて、三人の女子生徒が連れ立って詩音の机に向かってくる。
先頭に立つのは、明るい髪色とメイク、流行りのアクセサリーで着飾ったクラスの目立ち女子。彼女に引き連れられるように、取り巻きのふたりが後ろに控えている。
詩音は、その気配に一切顔を上げなかった。
開かれた教科書の代わりに机に置かれていたのは、小ぶりなハードカバーの小説本。ページをめくる指だけが、かすかに動いていた。
「ねー、無視はなくない?」
少し苛立った声が、さらに距離を詰めてきた。詩音の机の前に、女子たちが立ちふさがる。
ようやく詩音は本から視線を離し、静かに顔を上げた。
「要件はなんですか?」
その声は淡々としていて、まるでアナウンスのようだった。
「えっと、ほら。白鷺さんって、いつもひとりじゃん? だから、お友達になりたいなって思って――」
詩音の目が、女子の目をじっと見据える。
感情の読めないその視線に、相手は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……可哀想だから、ですか?」
「え、いやいや、違うって。そういうのじゃなくて。もっと白鷺さんのこと知りたいなって思って――」
その言葉に白鷺は怪訝な顔を見せた。
「上辺だけの言葉で仲良くして、何になりますか?」
静かながらもはっきりとした言葉だった。空気が一変する。
「……は?」
女子の表情が硬直する。後ろにいたふたりの取り巻きが、目を逸らした。
「聞こえませんでしたか? 上辺だけの言葉で仲良くして、何になるのかと訊いたんです」
「ちょっと意味わかんないんだけど。“上辺だけ”ってどういうことよ? 私は本気で――」
女子の声が次第に尖っていく。その言葉を、詩音が寸前で遮った。
「『ひとりぼっちに手を差し伸べる私って、素敵』。そう思われたいだけですよね。その“演出”を“善意”と呼ぶのは、いささか強引かと」
女子の顔が引きつる。
まさに核心を突かれたような痛みが、彼女の表情に走った。
「な、何それ……違うし……」
周囲の女子ふたりが困ったように視線を泳がせる。誰もが、この場にいたことをなかったことにしたそうな雰囲気を漂わせていた。
「お二人もそうです。この方がこのクラスで“目立っている”から、友達になろうとする。自分の立場のために。
だから、貴女自身のことを、本当に見ている人なんていません。それに、貴女も周りを“友達”だなんて、思っていない。……違いますか?」
完全に沈黙した教室。
誰もが言葉を失っていた。
そして、女子の中でただ一人、怒りを燃やし続けていたのが、先頭に立っていた彼女だった。
「……少し優しくしてやっただけで、なによ。調子に乗って……!」
乾いた音が、空気を裂いた。
女子の平手打ちが詩音の頬を打った。
小さな身体がわずかに揺れる。だが、詩音は顔を背けることなく、まっすぐ前を見つめたままだった。
「少しは、スッキリしましたか?」
その言葉は冷たくも皮肉でもない。
ただ、感情を持たない機械のような声音だった。
「この頬の痛みに免じて、私の発言を許していただければ幸いです」
詩音は静かに立ち上がると、机の上の本を手に取った。
「では、私がここにいると貴女の気を害すと思いますので、退室します」
そして一礼すらせずに、教室をあとにした。
ドアが閉まる音が、妙に重たく響いた。
残された三人の女子のうち、叩いた本人は拳を握りしめていた。
残りのふたりは、床の一点を見つめて沈黙したまま、何も言えなかった。