騒がしい沈黙
昼休み。教室という名の騒音発生装置から逃げるように、俺御影怜は廊下を抜け、静寂の聖域――図書室へと足を運んでいた。
校舎の片隅、陽の届かない一角にひっそりと佇むその部屋は、昼の喧騒から切り離されたように静かだった。
引き戸を開けた瞬間、冷んやりとした空気が肌にまとわりつく。
古い紙の匂いと、長年開け放たれていない木の棚の重たい気配が鼻をかすめた。
ここ来た理由は単純だ。
オカルト扱いされているとある現象について、少しでも情報を集めるため。
俺にとってのそれは、ただの都市伝説なんかじゃない。
現に、それが俺の身に起こった。
理由も理屈もわからない。ただ、確かに起きた。
それがなければ、今の俺は存在しない。
だから、調べる。静かに、地道に。
この場所だけが、真実の輪郭を掴む唯一の拠り所だった。
図書室は薄暗く、蛍光灯もいくつか切れたままだ。差し込む光は細く、棚の影が床にまだら模様を描いていた。
まるで時間が緩やかに沈殿しているような空間だ。
俺は本棚の背表紙を眺めながら、一冊一冊を指でなぞっていく。
「伝承」「異能」「未解明現象」――胡散臭いワードのオンパレード。
けれど、そのどれもがしっくりとこない。
「……その棚の中段、左から三番目」
不意に、背後から少女の声がした。
静寂を裂くその一言は、図書室の空気すら震わせた気がした。
振り返ると、長い黒髪の女子生徒が静かに立っていた。
制服のスカーフは青。俺と同じ一年生だ。
その立ち姿はどこか影のようで、彼女を輪郭ごと空間に溶かしている。
「それ。探してたんでしょ?」
言われるがままに手を伸ばし、本を抜き取る。
表紙にはこう書かれていた。
『現代社会における伝承と異常現象』
……ドンピシャすぎて、少し怖い。
「……ありがとう」
俺が礼を言うと、彼女は小さく頷いた。
その仕草は夜風のように静かで、会話の終わりを告げていた。
けれど、なぜかそのまま背を向けられるのが惜しくて、一つだけ訊ねた。
「なんで俺がこれを探してたってわかったんだ?」
彼女は一拍も置かず、こう答えた。
「うるさかったから」
……は? 意味がわからない。
俺は一言も発さずに本を探していたはずだ。
眉をひそめて、もう一度聞く。
「それ、どういう意味?」
彼女はわずかに狼狽える気配を見せたが、その表情は瞬く間に消えた。
まるで感情のスイッチを切ったように。瞬きをすれば見逃してしまうほどに。
「……バタバタしてたから。落ち着きなく歩き回ってたし。気配だけで騒がしいくらいにね」
「存在感が騒音レベルってこと? もう少しオブラートに包んでもらえる?」
「無理ね。オブラートに包むほど甘くないのよ、私は。」
「なんだ、その詩的な表現。頭良いマウントか?まぁ、でも騒がしかったのは謝る。悪かったな。でも、それじゃ答えになってない。」
そう。最初の「うるさい」は本音、今のは建前。
何かを隠している。そんな気配がした。
「どうして俺の探してた本がわかった?声にも出してないのに。それを言い当てるなんて、小学生探偵もびっくりだぞ」
「そう。だったら、私の寝言ってことにしておいて」
「起きながら推理できる博士タイプか!?」
冗談めかしてツッコむ俺を無視して、彼女は深いため息をつく。
「探してるジャンル。弾く本の種類。そこまで見てたら、だいたい見当はつくわ。……この回答でいいかしら」
明らかに、とってつけた言い訳だった。
「そんなに俺のこと見てたってことか?……もしかして俺に一目惚れでもした?」
「小学生探偵もびっくりの寝言ね」
「ちゃんと、俺のツッコミまで拾ってくるのかい。」
「本気で言ってるとしたら、自己肯定感がおかしなところまで行ってるわ。その勘違いのせいで、誰かに刺されたりしないか、心配になるくらいにね」
「はは、心当たりありすぎて笑える」
「本当なら笑えないわよ」
言葉は鋭く、態度は淡白。
けれど、不思議と不快感はなかった。
むしろ、妙に心地いい距離感だった。
「……もういいでしょ」
そう言い残し、彼女は踵を返す。
本棚の奥へと吸い込まれるように歩いていく。
その背中に、なんとなく声をかけた。
「……名前、聞いてもいいか?」
本来なら聞いたところで、もう関わることもないだろう。
でも、どこか胸に引っかかる。
このまま終わるのが、妙に現実味を欠いていた。
俺は、この感覚を知っている。
現実から少しだけ浮いた、あの時と同じ空気。
“あちら側”に触れてしまったときの、あの違和感。
彼女は足を止めた。けれど、振り返らない。
沈黙を残し、静かに言葉だけが落ちてきた。
「……もう関わることはないでしょう?聞く必要はないんじゃない?」
それだけを残して、彼女は棚の影へと消えていった。
まるで最初から、ここには存在していなかったかのように。
俺の勘が間違っていなければ、彼女は――“それ”だ。
声に、感情が乗っていなかった。会話が、機械的だった。
そして、俺はそれを知っている。過去の自分と照らし合わせれば、見えてくる。
ああ、これはきっと。
握っていた本に、無意識に力がこもった。