旅立ち
1104.10.21~1104.11.7
西の果てに広がる豊かな自然の中に、『トラクの里』と呼ばれる一つの集落があった。民の数は僅か百人にも満たない、ごくごく小さな里である。彼らは農耕を生業とし、肥えた土壌で小麦や野菜を栽培しながら暮らしていた。時には海岸沿いの漁民らと交易を行い、新鮮な魚をごちそうに麦酒を楽しむこともあった。里の民はみな、この牧歌的な生活に満足し、緩やかな時間の中で日々を過ごしていたのである。
「なあ爺ちゃん。今日は剣の修行しないのか?」
里の外れに佇む簡素な丸太小屋。ここには十代なかばの少年と、年老いた翁が二人きりで暮らしていた。少年は囲炉裏に薪をくべながら、隣に座る老人の反応をうかがった。
「うむ。そのことだが……」
老人はしばらく考え込む素振りを見せたのち、小さな声でぽつりと呟いた。
「もう剣の修行はお終いじゃ。おぬしには全ての技を伝授した」
少年は驚いて老人を見た。ゆらゆらと揺れる囲炉裏の火を眺めながら、老人は続けてこう言った。
「この里を出て、世界を旅しなさい」
「……嫌だよ。俺は里の暮らしで満足してる」
少年は老人の提案を断った。すると老人は徐に立ち上がり、木箱の中から一振りの剣を取り出して、困惑する少年に向かって差し出した。
それは豪華絢爛な装飾の施された黄金の剣であった。とりわけ、鞘に刻まれた鷲の装飾は実に精巧で、並みの鍛冶職人では到底作れない代物であることがうかがえる。
既に修行の一環で、少年は何度かこの黄金剣の『能力』を目の当たりにしていた。その切れ味は驚くべきもので、対象が鉄であろうが岩であろうが、いとも簡単に両断できてしまうほどの破壊力を有する、まさに魔法の剣なのであった。
「世界を救った伝説の聖剣だ。儂がまだ若かりし頃、この世界は……」
「その話、もう聞き飽きたって」
老人は自身のことを『世界の英雄』と称していた。少年はそれを信じていなかったが、老人は事あるごとに過去の栄光を語って聞かせていた。……かつて世界は『魔王』なる者に支配されており、人々は闇の力に苦しめられてきた。自分はその魔王を打ち倒し、世界に光をもたらした英雄であるのだと。
「まあよい。とにかくこの剣はおぬしに託す」
「いらないってば、こんな危ないの」
「今の儂が持っていても仕方ないのだ。もう体が思うように動かぬ。……それより、剣を抜いてみなさい」
老人に言われるがまま、少年はしぶしぶ右手で柄を握りしめ、刀身を慎重に鞘から引き抜いた。
「なんだこれ……」
黄金の刃が淡い光を帯びている。それも室内の明かりが反射しているわけではない。刃そのものが、わずかに光を発しているのである。少年は驚いて老人を見た。
「以前語ったことがある筈だ。その剣は闇の力に反応して、自ら光を放つと」
老人は続けてこう言った。
「ここ十年近く、聖剣は光を帯びていなかった。ゆえに闇の勢力は完全に消滅した……そう思い込んでいたのだが……」
「まさか。その闇の勢力ってのが、復活したとでも?」
「復活か、はたまた新たな闇が生まれたのか。いずれにせよ、世界に再び闇が現れたことは確かだ」
老人はそう言って、今度は懐から麻の小袋を取り出し、それを少年に手渡した。中身は異国の硬貨らしきものが十数枚。里周辺との交易は物々交換が基本であるため、少年は硬貨というものをほとんど目にしたことがなかった。彼は赤茶色に錆びた銅貨を物珍しげに見つめると、老人の方を向いてこう尋ねるのであった。
「これ、使えるの?」
「オーウェン王国の銅貨じゃ。ここでは何の役にも立たぬ代物だが、かの国に行けば当分は遊んで暮らせる。どうだね、ひとまず旅行気分でいいから、大国の都会を楽しんでみるというのは」
「それなら……まあ……」
ここまで里を出ることに難色を示し続けてきた少年であったが、老人の新たな提案には思わず興味をひかれていた。そして彼は、銅貨の入った麻袋を握りしめ、遠い大国の都市に思いを巡らせるのであった。
石畳に覆われた大通りを馬車が走り抜け、道の両側には巨大な建造物が立ち並ぶ。中心街は人の往来が絶えず、貴族や商人、そして多くの町人がそれぞれの物語を繰り広げているのだろう。国王の暮らす大宮殿は、きらびやかな甲冑に身を包む騎士たちによって守られ、美しい王女は従者らに囲まれながら、まだ見ぬ隣国の王子の姿を夢想して、密かに胸を躍らせるのだ……。
これらのイメージはすべて、老人の所有する物語本から想起されたものだった。少年は、里の人間にしては珍しく読み書きができた。実際、ほとんどの民は文字を読むことすらできなかったし、また読める必要もないのであるが。それでも彼だけが文字を読めたのは、すべて老人の施した教育のお陰であった。
「里の外を知るのも、案外悪くないかもな……」
少年の名はロクスといった。両親はおらず、物心のついた頃には既に老人と二人で暮らしていた。里の大人たちの話によると、ロクスがこの里にやってきたのは今から十三年前のことであるらしい。ある日突然、謎の老人が幼い子供を抱えて里にやってきたものだから、人々は大いに驚いたという。やがて里の民は、彼のもつ青い瞳と美しい金髪を珍しがり、また老人の博識ぶりに畏敬の念を抱くようになっていった。
老人の名はアーフェルという。彼は自身の経歴を詳しく語ろうとしないため、その半生は謎に満ちていた。しかし例の黄金剣や魔法に関する知識、そして彼が所有する大量の書物から、元はどこかの国で高い地位にあったのではないかと、人々はそう推察していた。
「ほんと、アーフェル爺さんは不思議な人だよ。なんだっけ、そのコイン……」
ロクスは川辺を歩きながら、二人の友人に里から出ることを打ち明けていた。その報告を聞いて最初に口を開いたのは、ベンという同世代の男友達であった。銅貨に興味を示すベンに対して、ロクスは次のように答えた。
「オーウェン王国の銅貨だとさ。爺ちゃんが言うには、これでしばらくは贅沢できるって」
「……前にロクスから教えてもらった気がするな。たしか、ものすごくデカい国なんだっけ?」
「ああ、この世界で一番大きな王国らしい」
「そんな国のお金を、何でアーフェル爺さんは持ってるんだ?」
「さあね。爺ちゃんは『自称』英雄だから、いろんな国に行ったことがあるんだろう。元々この里の人間じゃあないんだし」
するともう片方の友人が、悲しげな表情でうつむきながら、掠れた声でこう呟いた。
「……ねえロクス。今からでもやめられないの?」
彼女の名はスーザンという。年はベンより三つ下の十二歳。仲良し三人組で最も年下のスーザンは、他二人の少年から妹のように可愛がられていた。そして彼女は、ロクスに対して密かな想いを抱いていたのである。
「一生帰らないわけじゃないからな。それに正直、外の世界を見てみたい気もするんだ」
「私、ずっと待ってるよ……」
「大袈裟だって。ちょっと都会暮らしを楽しんでくるだけさ。すぐに戻ってくるから」
それから半月後。少年ロクスは大勢の里民に囲まれて、それぞれに別れの挨拶を告げていた。
トラクの里には二ヶ月に一度だけ、東の方角から商隊が訪れる。商人たちが求めるのは、豊かな土地で作られた里の作物であった。それと引き換えに、彼らは里では珍しい加工肉や異国のワインを置いて行く。
ロクスはその商隊と共に、里と王国の中継都市まで連れていってもらうことになっていた。こうした旅の計画はすべてアーフェル爺さんのもとで考案され、商人との交渉や荷造りの作業も、この老人が一人で担当していたのである。
「まー、行ってくるわ」
「気をつけろよ。都会には悪い人間が沢山いるらしいから」
ベンの忠告に続いて、スーザンも彼の身を案ずる言葉を口にする。
「向こうには魔女もいるんだって。ママが言ってたよ……」
「魔女ねえ……。ま、大丈夫でしょ。俺強いから」
ロクスは彼女の頭に手を乗せて優しく微笑んだ。周囲の大人たちも、三人の様子を暖かく見守っている。里の民はみなロクスを慕っていた。誰もが彼の旅立ちを祝福し、また道中の安全を願って、彼を見送りに出てきたのである。ただ一人、そこにアーフェル爺さんの姿だけが、そこには無かった。
(見送りもなしかよ、あの爺さん……)
多少の不満は残るものの、いつまでもここに留まっている訳にはいかなかった。商隊は間もなく出発する。これを逃したら、次の機会はまた二か月後だ。ロクスは決心を固めて、里の広場を後にするのであった。
『カラクの里に関する調査結果』
オーウェン王国調査部報告 1071年4月27日
大陸の西の果てに存在する小さな里。この地は歴史上、いずれの国家の支配権も及んだことの無い領域であり、したがって詳細な記録も皆無に等しい。同地に関するわずかな資料を紐解くと、既に三百年前には『カラク』という名称が用いられており、当時の人口はおよそ五百名ほどであったことが分かる。上記のように、カラク周辺は歴史的に重要な拠点と見なされてこなかった為、他に特筆すべき事項はない。
『古エルドラ帝国『国年記』第三章の東方遠征記録に関する考察』
オーウェン王立魔道院発表論文 1102年9月14日
国年記の記述によると、第二次東方遠征(416~421)の直前、帝国軍は西の果てに巨大な軍港を建設したとされている。具体的な地域の名称は明記されていないが、おそらく西の果てとは、現在のカラク周辺を指しているものと考えて相違ないだろう。
軍港に集結した戦艦八隻は、東方からの脅威に備えて周辺海域を巡回し、時に大規模な軍事演習も実施したという。またこの時、同地に暮らす東方人と思わしき男女数百人が、帝都へと連行されたと記録されている。
これら国年記の記録は近年、偶然にも王立魔道院の学生が発見したものである。しかしながら、その信憑性は極めて低いと言わざるをえない。古エルドラ帝国が危惧したのは『東方からの脅威』であったにも関わらず、実際に軍港を築いたのは『西の果て』であるという矛盾。また西の果てに東方人が暮らしていたという記録。いずれも常識的には考えがたい出来事である。ただし、西の果てに関する歴史記述は極めて珍しいものであるため、今後も研究を継続する必要ありと考える。




