8:回収
井戸の中。ロープに掴まる私の足元に透明な水面が広がっており、水の中でアイテムが青白い光を放っていました。大きさは40センチ程度。鉄アレイのような形をしています。光っているので細部はわかりませんが、流石にこの状況で光り輝く鉄アレイが落ちているという事はないでしょうから、似た形の何かなのでしょう。
ゆっくりと状況を見極めたいのですが、いくらパワーアシストされているとはいえ、湿ったロープを掴み、湿った井戸の内壁に足をかけているので神経を使います。あまりのんびりはしていられません。
井戸の中はガスがたまっていたり、酸素が薄かったりする場合もありますが、この井戸は大丈夫なようです。清涼な空気が充満しており、私は深呼吸をして、気持ちを切り替えます。
ここまで来ておいてなんですが、飲食用に使う可能性がある水の中に入るというのはいかがなものでしょう。まあそんな事を考えながらも入るのですが。
念のため、まずは水に足をつけてみたのですが、ダメージを受けている様子はありません。普通の水のようですね。ただ透き通った水はかなり冷たく、長時間浸かっているのは遠慮したい感じです。サウナの後の水風呂くらいの冷たさでしょうか?飛び込める人もいるのですが、私は安全第一でゆっくりと浸かりたい派です。
(よし)
階段を1段1段をゆっくり降りるように、体を水温に慣れさせながら水の中に入っていきます。途中、腰翼が思いのほか表面積をとっていたので声が出そうになりましたが、何とか我慢します。
アイテムまでの距離は大体3メートル。特別な道具を用意しなくても素潜り出来る範囲なのですが、泳ぐのが苦手な人にとってはちょっと難しい距離ですね。私も胸のせいでそれほど泳ぐのは得意ではないのですが、沈むくらいなら出来るでしょう。
井戸に近づいた時から感じていた奇妙な力の流れは、どうやらこのアイテムに向かって流れているようです。その何らかの力によってアイテムが水中に固定されているようで、浮きも沈みもしていません。
私はそのアイテムまでの距離を見定めて、息を吸い……止めて……潜ります。
改めて水の冷たさを全身で感じたのですが、文句を言っている暇はありません。息が続くうちに、私はアイテムの元に急ぎます。
どうやら水中にあるのは金剛杵……仏教等で使われる道具のようですね。流石に流派や細かなところまではわかりませんが、早く回収していきましょう。
淡い光に弾かれる事もなく、手を伸ばせば問題なく掴む事が出来ました。するとそのタイミングで、頭の中に男性の声が響き渡ります。
『汝、我がもとに、さすれば新たな力を授けよう』
どうやらフラグが立ったようですね。その声が聞こえ終わった後、何かが割れるような感触があり、金剛杵を動かす事が出来るようになりました。
重さは殆どありません。青白い光も落ち着いたのですが、そのあたりの考察はいったん後回しにして戻りましょう。息が続きません。アイテムを拾った後のドッキリ……水底からモンスターが出てくる事も、壁が迫ってくるという事もないようですし、大人しく上にあがりましょう。
「ぷはっ、はー…はー…はー……」
水面から顔を出し、思いっきり深呼吸を繰り返します。装備が重くて少し焦りました。結果論ではありますが、次からは装備を見直した方がいいかもしれません。そして今更かもしれませんが、普通こういう水中では酸素ゲージが出るものですが、出ませんでしたね。感触とグラフィックがあまりにもリアルすぎるため違和感を覚えず普通に素潜りしていましたが、現実とゲームの感覚が混同されすぎるのはあまり良い傾向ではありません。ひと段落したら一度休憩を取った方がいいかもしれませんね。
金剛杵を持ったまま上にはあがれませんから、桶の中に入れておきましょう。少し揺れた程度なら落ちない事を確認すると、私はロープを掴んで登り始めます。
濡れた衣類が体に張り付き、思いのほか重量を感じます。手が濡れていて滑り落ちそうになりますが、そこはもうアシストの力を信じて登りましょう。
20メートル。長いですね。それでも時間をかけながら、何とかその距離を登り切ります。
(これは……思いのほか……)
きついです。何とか地上まで戻ってくると、私は井戸のそばにへたり込みながら、呼吸を整えます。ポタポタと水が滴り、風が容赦なく体温を奪っていきます。
気温は暑くもなく寒くもないという温度なのですが、ステータス画面を見てみると、少しダメージを受けていますね。減り続けているという状態ではないのですが、あまり悠長に放置していてもいいという状況ではなさそうです。
それにしても、ステータス欄にスタミナがないので薄々予想はしていましたが、まさかスタミナがここまでリアル依存だったのには驚きました。それだけならまだ良いのですが、筋力はアシストされているけどスタミナはそのままという状態なので、出来る事とスタミナの消費量に乖離があるというか、握力が無くなる前に体力が尽きそうになったのには驚きました。
疲労で振るえる手で、髪と、あと服とスカートの水気を絞れるだけ絞っておきます。気休め程度なのでちゃんと着替えがしたいのですが、替えがないので諦めました。贅沢を言っていいのならシャワーも浴びたいところなのですが、まあそんな事より、忘れないうちに金剛杵を回収しておきましょう。これを忘れては何も始まりません。
何とか動けるようになってから、私は金剛杵が落ちないよう慎重に桶を引き上げ、回収しておきます。
改めて見てみると、像が身に着けている黄金と同じ物で作られている事がわかりますね。【看破】を使うと同じように弾かれますし、なぜ井戸の中にあったのかは不明ですが、右手のイベントアイテムで確定でしょう。
とにかくここにこれ以上いても冷えるだけですから、私は置いてあった石剣を回収してから工房に戻ります。
戻ってきた工房の中には相変わらず人気はなく、新規のプレイヤーがログインしてくる事も、先客の人外さんがリスポーンしてくる事もありません。
建物の外も中も、気温自体は殆ど変わりはないのですが、風が遮られるだけでかなり寒さはマシです。自分から滴る水滴を見ながら、私は一度辺りを見回した後、一応少し悩んでから……服とスカートを脱ぐ事にしました。
(ボトボトですね)
剣帯を外し……服の構造が最初よくわからなかったのですが、どうやら首の後ろに紐があって、それで固定されているようです。固定されている場所から下は、基本腰翼に干渉しないように開いている構造のようでした。スカートは紐をほどけば脱げましたので、後は人が来る前に水気を絞れるだけ絞っておきましょう。
流石に入り口付近で絞るのも何ですから、流し場に移動します。筋力が上がっているので絞ると気持ちがいいくらいに水が出ますね。
服とスカート、両方しっかり絞り切ると、それだけでかなり乾いたような気がします。後はもう一度装備しなおして、次に下着を脱いで同じ事を繰り返します。
流石に絞っただけではまだ少し湿気てはいるのですが、これでかなり楽になりました。後は自然乾燥に任せる事にして、私は改めて奇妙な像に向きあう事にしました。
今私の目の前にあるのは、2メートル位の高さがある、黄金の装身具を身にまとった、筋肉質な男性を象った石像です。色は艶やかに磨き上げた大理石のような白色なのですが、本当にこれが大理石なのかはわかりません。【看破】が弾かれるような物ですし、大理石に似た何か別の素材で作られているのかもしれません。そうなるとこの像を“石像”と定義していいのか困るところですが……そのあたりは考えてもしかたがない事でしょう。いけませんね、こういうお約束の展開というものにワクワクしていて、少しハイになっています。火照った頬を押さえながら、私は緩んだ口元を引き締めます。
像に何かアイテムを捧げて次に進めるなんていう経験、普通に生活をしていたらできませんからね。こういう非現実を体験できるのがゲームのいいところだと思います。
現実の方でもこういう仕掛けが作られれば楽しいような気がするのですが、何故こういう仕掛けが作られないのでしょう?技術的には可能なはずですし、ワクワク感というのも日常生活には必要な要素だと思います。
像を動かしたりアイテムを持ってきたりしたら開く扉とかがあれば……いえ、少し落ち着いて冷静に考えてみたら、そんな所に住んでみたいかと聞かれたら住みたくないですし、やはり色々と難しいものがあるかもしれません。
「すぅーはぁー……」
いけませんいけません、落ち着きましょう。今はそんな事はどうでもいいはずです。今は目の前の事に集中しましょう。
改めて金剛杵を像に近づけると、引き合うような感触がありました。金剛杵がこの像の物だというのは確定でしょう。
それでは早速、像の右腕に金剛杵を置いてみようと思います。