4−2 狂う王
夕食時。
ダイニングルームの3人がけの机に食事が並んでいく。エレナの父と母の座る場所には、パンとチーズ、シチュー、チキンソテーとサラダが置かれており、色とりどりな野菜が綺羅びやかな艶を放っている。
一方のエレンの食卓にはパンとチーズ、冷たいミルクだけが並ぶ。
少し離れた場所で食事を摂ることになったバンは、エレナの両親から受け取ったサンドイッチをすでに頬張っていた。チキンソテーをパンで挟んだものだ。
「さあ、食べましょうか」
食卓の会話は、エレナの母親が口火を切った。
「お母さん、ありがとう。私がパンとミルク好きなの覚えていてくれたんだね」
エレナは笑顔でそう言い、目の前のパンを頬張った。
「美味しいよ」
「それはどうも」
母親の対応は冷めていた。
母親は父親に小声で言う。
「ねえお父さん。教会はもしかして、この子を受け取るのを拒否しているんじゃないだろうね」
「そう言うな。数日なら我慢できるだろう」
父親は我慢という言葉を使った。娘の耳に聞こえる距離で、だ。
「だって久しぶりに帰ってきて少しは変わってるのかと思ったら、全然変わっていないじゃないか、この子は。いくら厳しく躾けてもありがとうしか言わない。今日だって10歳の時の服を着せてもありがとうしか言わない。悪魔にでも取り憑かれているんじゃないかい?」
「だから教会に任せたんだろう。今日はたまたま休暇がもらえた、そういうことだな」
父親の決めつけるような言葉遣いに、エレナはコクリとうなずいた。
「明後日までお休みをもらったから、今日と明日ぐらいはこの家にいたいな」
「だそうだ」
父親は両手を広げて手のひらを上に向けた。はてさて、といったニュアンスのジェスチャーだ。
「ふん。余計なことはするんじゃないよ」
母親は捨て台詞のように言い、チキンソテーに口をつけた。
「ねえお母さん、一人娘なのに大事に育ててくれてありがとう」
「嫌味かい?」
「違うの。本当に思ってるの。だってお父さんは男の子が欲しかったんでしょう」
「そうさ」
父親は否定することなく言う。
「お前が生まれる前、3人の息子がいたんだ。それが、お前の生まれる前後で次々に死んだ。このあたり一帯を治めるわしらが、跡取り息子を失うということがどんなに悲しい出来事なのかお前にはわからないだろう。仕方がないから少しでもまともな女性に育つよう躾をしてやったら、お前はオウムのようにありがとうしか言わない。お前は本当にわしらの娘なのか?
少しは子供らしく音を上げたり、不満をわしらにぶつけてくれればよかった。そうすればわしらはお前をかわいがっただろう」
父親は少し苛立っているように見えた。フォークを持つ手が震えている。
「そんな気持ちだったにもかかわらず、育ててくれてありがとう」
「まただ!」
父親はチキンソテーを勢いよく突き刺した。
「こんな仕打ちをして喜ぶ子供がどこにいる。少しは本心を明かしたらどうなんだ悪魔が」
「貴方、言い過ぎですよ。そんなに高ぶったら、この子を刺してしまうかもしれない」
母親もフォークを手にしていた。
父親は前のめりになりかけた身体を押し留め、椅子に深く座った。
「そういえば、お前こそ最近働かなさすぎじゃないのか」
父親はこの土地の地主で、この土地を人に貸して収益を得ている。それらの会計業務や土地の売買、契約についての問い合わせなどに日々追われている。
「跡継ぎ息子がいないからって、自分の趣味に金を費やして資産を枯渇させることは許さんぞ」
父親はリビングの宝石箱を指差す。
「あら、良いじゃない。この子に引き継がせるわけでもなし。貴方と私の二人で使い切っていいものでしょう?」
母親は胸を張って悪びれず言う。
「バカが。先祖がどんな気持ちでこの土地を育ててきたか、お前にはわからんだろう」
父親は再びフォークを握る手に力を込めた。
「ああわからないね。そもそも貴方のことが好きで結婚しただけで、先祖のことなんて私はなんにも知らなかったんだからね」
母親も母親で、父親がこの土地に執着していることを恨んでいるようだった。
「こんな寂れた土地で死ぬまで暮らすなんて。これが貴方と私の思い描いた未来かい。死ぬまでにアルテリアの美しい土地でも見て回る気概は無いのかい」
この母親の発言に、ついに父親がキレた。
「お前!許さん!こうしてやる」
父親は右手のフォークを思い切り母親に向けて突いた。
すんでのところで母親はその突きをかわしたが、夫婦げんかはヒートアップする。
「なにするんだい!」
母親もフォークとナイフで応戦しようと構え、立ち上がった。
二人が自分の持つ刃物を相手に向けて突き立てようとした時。
バンが二人の間に入り、それぞれの腹部を殴りつけて気絶させた。
「ふう」
ぐったりと倒れ込むエレナの父親と母親を軽々と持ち上げ、ベッドに横にするバン。
「やはり俺はここにいないほうが良さそうだな」
バンは荷物を持って玄関の扉開けると、連銭芦毛に荷物を積み始めた。
その姿を見てエレナが飛びついてきた。
「待って。バン。行っちゃうの?」
「俺に関わるな。お前が不幸になる。さっきの喧嘩を見ただろう。俺の側にいると、皆マドネスに陥り、最後は狂って死んでしまう。俺はお前に迷惑をかけたくない」
「大丈夫だよ。あれくらいいつもの喧嘩だよ」
(刃物を持って相手を突き殺そうとするのがいつもの喧嘩だと? この子はどんな生活を送ってきたんだ)
バンはエレナの悲哀を思うと、彼女に優しい言葉をかけた。
「悪いことは言わない。お前は教会に戻れ。あの夫婦の言葉を聞いていると、とてもじゃないが君を幸せにしてくれると思えない。君は教会にいるべきだ」
バンの言葉を、エレナは真摯に聞いた。
そしてバンはまたひとりになった。
***
1日半が経った。
バンはアルテリアの森の中、落ち葉が降り積もる場所にテントを張っていた。テントの前で焚き火をして、獣を近づけないようにしながら、バンは剣を研いでいる。彼の朝一のルーチンワークだった。
(ようやく共に歩ける人を見つけたと思ったのだがな)
バンの表情には半ばあきらめの色が浮かんでいた。
(だが、自分の勝手で誰かを傷つけるわけにはいかない)
彼はすでに決意していた。
エレナのところには戻らない。それが最適な判断だと。
(そう、それが最適な判断だ)
だがバンは胸に沸き起こる胸騒ぎを抑えきれなかった。
(俺が近づいたらエレナは危険な目にあうだろう。だがエレナに近づがなければ何も起きないのか? もし起きたら?)
バンは自分の来た道を睨むようにして見た。
エレナの実家のある村、そして教会。
バンはテントをたたむと、それを連銭芦毛に積み、駆け出していた。
***
教会に戻ったエレナは教王の部屋に招かれていた。
「おかえり、エレナ」
エレナは10歳の時の服を着たままで教会に帰ってきた。他のシスターが眉をひそめていた中、教王はエレナを穏やかに出迎えていた。
「教王さま、ありがとうございました。久しぶりに両親とあえて、良い思い出になりました」
「そうか。それはよかった」
教王はエレナをソファーベッドの縁に座らせ、自分は書斎の座椅子に腰掛けた。
「ご両親も君を可愛がってくれただろう」
教王の視線は、エレナの足元から太もも、胸元を舐めるように動いた。もうすぐ17歳になるエレナの胸は、子供向けの服では押さえきれないほど成長していた。
「本当に。優しい両親で私は誇りに思っています」
エレナはそう言って、両親との思い出を楽しそうに語った。
教王は彼女の言葉にうなずきながらも、会話は耳に一切入れず、彼女の胸元をじっと見ていた。エレナの話はいつまでも続くかのように思えたが、教王は彼女の言葉をぶった切るようにして聞いた。
「そういえばエレナ。まだ君は元に戻りたいと思うかね?」
教王の目は怪しく光っていた。
エレナは自分の言葉を突如遮られて驚いたようだった。
彼女は首を傾げて教王に尋ねる。
「教王さま。元に戻るってなんですか?」
彼女がそう言った時だった。
教王が突如立ち上がり、エレナをソファーベッドに押し倒した。教王は大きな手で、エレナの口を力づくで防ごうとする。
「え!?教王さま?!」
「覚えていないのかね。君はご両親から、希望を抱く病気に犯されている、と言われて教会に預けられた」
教王はエレナの口を防ぐと、続いて彼女の太ももに手を回した。
「元に戻るとは、希望を抱く病気から快方するということだ。エレナ。病気を快方するためには、大いなる絶望が必要だ。わしが今から君に大いなる絶望を与えよう」
教王が言い終わるのと、バン・シュバイツァーが教王の部屋のドアを蹴り破るのは同時だった。
「エレナ!」
バンはよく磨かれた剣を携えながら、ソファーベッドで揉み合う二人を見つけた。
「教王!貴様!」
バンは教王に向けて剣を振るう。教王はエレナを押さえつける手を離し、バンの後ろに回り込むと、走って部屋から出ていった。
「エレナ。大丈夫か」
「うん。ありがとうバン」
エレナはめくり上がっていたスカートを押さえた。バンは彼女の恥じらいには気づかず、扉の向こうを見据えた。
「エレナ。ここにいるのは危険だ。逃げるぞ」
バンは彼女を抱きかかえると、扉の向こうへ走った。
ステンドグラスの飾られた2階の窓をぶち破り、屋根を滑るようにして1階に降りる。そこには連銭芦毛が待っていましたと鼻息を荒げていた。
「はっ!」
エレナとともに連銭芦毛へ跨ったバンは、勢いよく馬を走らせた。
「さて、このあとどこへ行くか、だが」
バンがそうつぶやくと同時に、エレナが後方に敵影を見つけた。
教会の用意した聖職者たちの兵だ。
「バン。大変。教王さまが変になっちゃった」
「元から変だったのさ」
バンは言い捨てると、敵影の目的地を想像した。彼は唇を噛む。
「目的地は、おそらくエレナの故郷だろうな」
「ええっ。大変だ、お父さんお母さんに伝えなきゃ」
「本当に両親のことを大事に思っているんだな」
バンは笑った。
「それなら急ごう。この連銭芦毛であればやつらよりずっと早く着く」
バンとエレナを乗せた馬は、エレナの故郷に向けて精一杯駆けた。