3 ウィスパーボイス
バンはシュバイツァー家の長兄ゼイムスの居城で、自分の去就についての決断を報告した。兄の了解を取り付けるためだったが、兄の反応は芳しくない。
「何?スーパーステイトを出て流浪の旅に出ると」
ゼイムス・シュバイツァーは弟の報告を聞いて顔をしかめた。
「バン。アブリルが自ら命をたったことにショックを受けるのはわかる。ロマリアとの政略結婚について、彼女が思い悩んでいたことに気づけなかった憤りもあるだろう。しかしスーパーステイトは今お前を失うわけにはいかない。例えば父の謳う三権分立はどうなる? 国を支える屋台骨が1本なくなるじゃないか」
「司法はホールデンに任せます。これはすでに弟にも意志を伝えてあります」
バンは中世の騎士のように、兄の前へ片膝をついて座っていた。
「バカな。司法と行政を一人に任せるなど……」
ゼイムスは右の片眼鏡が落ちぬよう押さえ、震える声でいった。
兄はバンを静かに見つめていたが、バンは下を向き兄と目を合わせない。
「もう、ホールデンには伝えてしまったか」
ゼイムスは宙を見上げ、観念したように言った。
「ホールデンならできると思います」
「情愛が人を見誤らせなければよいがな」
「確かに、私が彼にこの話を伝えた時、彼は自分のことのように心配してくれました。ですが最後には理解してくれ、自分の方でもできる限り努力するから心配しないでと笑顔で送り出してくれました。その優しさが私を見誤らせているかもしれません」
バンはゼイムスに頭を下げた。ゼイムスは顎に手をやる。頭が動き始めたときの彼の癖だ。
「まあいい。動き出してしまったものは仕方がない」
バンは、ホールデンを味方につけることができれば、ゼイムスは反対しながらも最終的には協調してくれると読んでいた。争いを好まぬゼイムスは事前検討を慎重に行うタイプだが、一度事態が動き出せば、より良い方向へ進めるためにはどうすればよいかという検討や、発生する課題への対応に頭を切り替えられる人だった。
動き出したという認識を持ってもらえたなら、バンの交渉は成功と言っていい。
「それでバン。お前はどこに行く?」
「北西へ向かい、アルテリアに入ろうと思います」
「魅力の王国か。傷ついた心も癒やしてくれるかもしれぬな」
ゼイムスの理解としては、バンはアブリルの死にショックを受け、傷ついた心を癒やすためアルテリアに入るということになっているらしい。
「ええ。悪魔のように人々を魅了する国ですから」
バンはゼイムスの理解を踏まえつつこう答えた。
バンは悪魔探しをすることを決めたが、悪魔探しのあてなど無かった。
だから、流浪の旅の行き先も直感的になるのは仕方がない。彼はスーパーステイトの外に思いを馳せ、『悪魔のように人々を魅了する国』と呼ばれているアルテリアへ行こうと思い立った。
アルテリアはその建国から不思議な国だ。
この国は『人を魅了する力』を重視した人々が集まって建てた国で、音楽や絵画といった芸術や、踊りや劇やお笑いといった芸能の盛んさが特徴だった。
初代国王は『人を魅了することができれば武器はいらない』といって文化振興に精をつくし、最後まで国防軍をつくらなかった。戦乱の世にあってこれは常識では考えられない行為だ。しかしその文化的な価値はすぐ隣国にも知れ渡ることとなり、アルテリアを守ることが隣国の名誉になるという価値観を創り出すに至った。
そのため、アルテリアに隣接しているスーパーステイトやロマリアといった国は今でもアルテリアを守り続けている。
(不思議で魅力に溢れた国だ)
バンは思う。
(自分の魅力を最大限発揮した女性を魔性の女と呼ぶように、魅力と悪魔を関連付けて語ることが多々ある。魅力が悪魔の力なのだとすれば、それを学ぶこと、あるいは身につけることが悪魔と接触するきっかけになるかもしれん)
***
旅立ちの日、準備を終えたバンの見送りに訪れたのは、クンダッパひとりだった。
「皆様お忙しいようですな」
「慰めはいい。国王でなくなった俺などそんなものさ。それでもクンダッパが来てくれて嬉しかった。感謝する」
「ありがたき幸せ。スーパーステイトの司法を陰ながら支え、国王が戻るのをお待ちしております」
「ああ。頼んだぞクンダッパ」
バンは連銭芦毛に詰めるだけの荷物を積むと、クンダッパに一礼してアルテリアの方へ駆けていった。
***
マタリカ大陸の中央には高さ10000メートルを超える山々の連なる巨大な山脈がある。ミスルガ山脈と呼ばれたその山脈は、人が近づくのを拒絶するような荘厳さで高くそびえ立っていた。
スーパーステイトからアルテリアへ行こうと思えば、このミスルガ山脈の縁に沿って、北側へ駆けていく必要がある(南に進んだ場合はロマリアに到着する)。山脈の麓には広大な針葉樹林が広がっており、短い距離でアルテリアへ入るためにはこの林を抜けていく必要があった。
この道はスーパーステイトとアルテリアの交通の一端を担っていたので、獣道ではあるものの、馬が歩けるほどには広い林道ができていた。
スーパーステイトを出てから3日間、バンは獣道を通りアルテリアへの歩を進めていた。連銭芦毛を合間合間で休ませながら、夜は持ち運び用のテントを広げて雨風を防ぎ、空腹時は干し肉を食べたり、狩りをしたりして腹を満たしながら旅を続けていた。
「もうすぐサラスヴァティ川だな」
スーパーステイトとアルテリアは大きな川を基軸に国境を分けていた。川を渡ればその先はアルテリアとなる。
国境が近づいてきた頃、バンはいよいよ林を抜け、開けた丘陵に入っていく。この道は陸の幹線道路で、いろいろな道がこの丘陵につながっていた。道幅が急激に広がり、整備された近代的な道をバンは進む。
隣には広大なサラスヴァティ川が見えた。サラスヴァティ川は今の季節、穏やかな表情を浮かべているが、雨季には激しい濁流が付近の村を飲み込むことだってある。
このサラスヴァティ川に丁寧に整備された石造の桁橋がかかっていた。
「この橋の設計はアルテリアか。いい仕事をする」
バンはアルテリア設計の石橋に足を踏み入れた。連銭芦毛の足音がコツコツと響く。
橋を渡ればそこはもう、アルテリアだ。
***
アルテリアに入るとすぐに大きな分かれ道に出会った。バンは人の少ないところを通ろうとして、一番狭い、森林地帯に向かって伸びている道を進路に選んだ。
「森を歩くのにもなれてきたな」
バンは連銭芦毛を励ますようにつぶやいた。
彼が連銭芦毛の首をなで、森の中の道を右に曲がると、大きな建物が見えてきた。
建物の正面に大きな像がある。アルテリアの国教で崇拝されているダビデの像だ。
「あれは教会か」
バンは思わず自嘲してつぶやいた。
「エクソシストにでも救いを求めてみるか」
反射的に発したこのアイデアだったが、よくよく考えてみると良いアイデアのように思えた。バンは自分の直感を信じ、エクソシストに救いを求めることにした。
***
エクソシストに事情を話したバンは、教会の中にある秘密の小部屋に通された。
部屋には窓がなく、床に魔方陣が描かれており、陣の中心に椅子が置かれている。
「まずは椅子に座ってください」
エクソシストに促されるまま、バンは椅子に座った。
エクソシストが周囲を囲み、儀式が始まった。
エクソシストのリーダーの号令にあわせて、エクソシストの集団が歌を歌い始める。オペラで歌われるような荘厳な曲調だ。リーダーは歌が終わると同時に、聖水と呼ばれた水をバンにかけた。
「これで悪魔は祓われたはずです」
リーダーは誇らしげに、慈愛に満ちた目でバンを見た。
しかしバンの左手首の天秤はまだ消えていない。
「わかりもしないまま、やっているふりをするのはやめてもらえないか」
バンは突き放すように言った。
「信者を騙すようには俺は騙せない。早く悪魔を祓え。それまで俺はここを動かない」
エクソシストのリーダーは目を丸めた。
バンは大人気なく怒ってしまったことに反省したが、エクソシストたちは慌ただしく焦りながらもバンの悪魔を祓うためにと誠意を尽くしてくれた。
1時間が経った。
バンは椅子に座りながら眠ってしまっていたようだ。左手首の痕はピクリともしていない。彼が周囲を見渡すと、エクソシストは皆怖がっていた。
本物を初めて見たという表情だ。
彼らは立てこもり事件を起こした犯人を説得するかのように、悪魔や悪霊に対してただ昏々ととりついた人間から出ていくよう諭し続けている。非常に地味で根気のいる作業のため、バンも眠ってしまったのだろう。
エクソシストは時折、神やキリスト、天使、聖者をたたえる聖句を唱え、十字架や聖水や御香をバンに向けて振りかけた。彼らはしきりにマドネスという言葉を使う。彼らの文脈を総合すると、狂うことをマドネスと言い、狂った人をマドネスマンと言うらしい。
「ダビデよ。この精悍な男に慈愛を。彼はマドネスに足を一歩踏み入れています。このままではいずれマドネスマンに堕ちてしまうでしょう。彼を、彼を救い給え」
エクソシストのリーダーは何度もこういった話をした。
バンの左手首の天秤は、まるで変化する気配がない。
3時間が発ち、バンにもエクソシストの面々にも疲れが見えてきた。
「もう!早く消えなさいよ!!この悪魔!悪魔!」
この儀式のムードに飲まれたのか、エクソシストの一人が狂い始めた。彼女は胸元からナイフを取り出すと、エクソシストのリーダーに突如切りかかった。リーダーは左肩に傷を受け、血しぶきがあがる。
(これは不味い)
バンが事態を治めようと立ち上がったとき、小部屋の人々は狂乱に飲まれていた。
「落ち着け、皆」
バンの言葉も、エクソシストの喧騒に飲まれてしまった。
(完璧な絶望だな)
いくらがんばってもつらさが解決せず、むしろかえって悪くなることに気づき、しかも他に方法がないと感じたら、人は絶望してしまうだろう。
彼らはなぜ救われないのか? それは結局のところ、こうした人々が『一人ぼっち』で闘っているからだろう。
キルケゴールは『死に至る病』の中で、絶望は人間関係の中で生じるのであるから、自分だけで絶望を取り除こうとするならば、ますます絶望が深まるばかりである、というようなことを言っている。つまり、一人で闘って万策尽きたときの状態が、『最大のどん底』状態と言える。こんな状態では、本当に生きていることに耐えられなくなってしまうだろう。
バンの周囲を囲むエクソシストは皆切り合って死んでしまった。
バンはまた、頼る人間を失った。彼はこの世界にたったひとり、悪魔と戦うことを宿命付けられた人間なのだろうか。
(だとしたら俺の人生はどん底を這いずり回るようなものだな)
彼は『最大のどん底』状態との縁にいた。
バンは、このまま底なしに落ちていくのか?
否。
バンは人の気配を感じ、後ろを振り向いた。
そこにはシスター服に身を包んだ金髪金瞳の少女が1人、ポツリと立っている、
(生き残りがいた?)
バンは焦りとともに喜びを感じていた。
この少女は悪魔の呪いをかわし、今もバンと対峙している。
それはひとりきりで戦わなくても良いのだと神が告げているように感じられた。
「どうしてこんなことが起きるのって顔してるね」
少女は微量の息漏れがあるウィスパーボイスで、甘く優しく言った。
「私とあなただけが生き残ったなら。悪魔はこう言っているんじゃないかな。
まだあなたが希望を捨てていないから」
バンは彼女の魅力に、ぐっと引き込まれていった。
ついにヒロイン登場です。
希望を抱く少女エレナ・フォンティーヌ。
彼女とバンの物語をお楽しみください。