8 パーフェクトホープ
———だから悪魔ごと私を殺して
エレナの悲鳴にも近い懇願は、バンの心を急速に澄ませていった。
(俺は愛した人を切るのか?)
彼の中に生まれたのはそんな葛藤だ。
(家族であるホールデンとすれ違ったまま別れて、そんな別れにしてしまった自分が許せなかった。ホールデンを殺した彼女が許せなかった)
彼は自分を突き動かす怒りを言葉にすることができた。
(これこそ悪魔の罠だ)
バンは震える手で、涙をこぼすエレナの肩を抱いた。
バンはまっすぐにエレナを見た。
(とうの昔からわかっていた。切られるべきは俺だ。世界に不幸を撒き散らす呪われた存在、それが俺だ。死ぬべきは俺なんだ)
バンはエレナを突き放し、剣を自分の首元、頸動脈の直上に当てた。
(悪魔よ!天秤が世界のバランスを意味するなら、闇の支配する世界で光は育つんだろう?闇に満ちた世界で、彼女だけは絶望から救え!)
バンは剣を握る手に力を込める。
「お前の望みどおりくれてやる。俺の首を持っていけ!」
エレナの悲鳴が聞こえる。彼女は両手で顔を抑えてふさぎ込んだ。
バンの首が、刃によって切り裂かれていく。
(はっ!)
バンの脳裏に浮かんだのは、クンダッパの姿だった。
———自分の歩いてきた人生と照らし合わせて、正しいと心から思えねば人の首は切れませぬ。
バンが悪魔に取り憑かれ、迷いを抱えていた頃、クンダッパはバンの迷いを見抜きそう言った。なぜこの言葉を今思い出したのか、それは。
(そうだ。これは、彼女に絶望に満ちた裁きを与えることにならないか?)
スーパーステイトの司法を司った男は思う。
(愛した女を絶望に叩き落とし、そこから這い上がることを悪魔に期待するか?俺は)
バンの魂が震えている。
バン・シュバイツァーとは、どんな男だ。
彼の魂はその本質を叫び、バンが自分という人間を見い出せるようもがいていた。
(バン・シュバイツァーは愛する女を絶望に叩き落とすようなことを望む男か?)
今一度バンは繰り返す。魂は初めからこう言っている。
(違う!バン・シュバイツァーは断じてそのような男ではない!)
視界がひらけた。
バンは、ふさぎ込むエレナの前に膝をついていた。エレナは目を潤ませ、小さく震えながらバンの方を見上げた。彼女はいつだってバンの選択を信じていた。
長い沈黙のあと、男は力強く言った。
「俺は、斬らない」
「え?」
予想外の言葉に、エレナは嬉しいのか面白いのか、なんなのかわからない感情に見舞われた。彼女は自分の感情がわからなくなっていた。
「バン」
だが彼女は思うのだ。
目の前のバンは笑顔を浮かべている。彼の笑顔を見ていたら、きっとこれからも大丈夫だと彼女は何の根拠もなく思うしかなかった。
「エレナ」
その声を聞くだけで、エレナは背筋に電撃を感じる。誰よりも幸せだと信じられる。
バンは彼女の耳元に顔を近づけ、囁いた。
「俺は愛し合った夫婦を引き裂く剣は持ち合わせていない。司法を司る時から」
エレナはキョトンとした。バンはエレナの反応が期待はずれだったのだろう。
眉間にしわを寄せ、顔を真赤にしてエレナの髪に顔をうずめている。エレナは最初理解しなかったが、後々聞いたところによれば、これはバンなりのプロポーズの言葉だったらしい。
恥ずかしい時間が二人の間に流れた。
二人は緊張感から解き放たれて、笑いが止まらなくなった。
***
ホールデンを失ったあと、バンは自分こそがスーパーステイトの王だと主張した。ホールデン国王を失った上に、元国王しかも首刈りのバンの言うこととあれば国民も耳を傾けざるを得ない。
スーパーステイトの全権———立法、司法、行政を握り、絶対的な王となったバンは、アルテリアとの停戦を妥結し、その後すぐ首都へ登ってエブラハムに自身の王の任を解くよう進言した。
この間わずか7日。
7日間で世界を創った神のような働きだった。
解任を望むバンに対し、エブラハムはもはや王はバンしかいないと言い留任を迫ったが、バンは国民を不幸にすることはできないと言い張り、断固として留任を望まなかった。
「バン。お前は何と戦うことを覚悟したのだ。民を救うよりも大事なことなどあるのか」
父エブラハムは、バンの豹変に狼狽していた。
だがバンは父の言葉を無視し、スーパーステイトの国政について進言を続けた。
「クンダッパがいれば司法は問題ないでしょう。これからの数年間がスーパーステイトにとって重要な時期となります。贔屓なく、実力のある人間を採用し、名ばかりの無能な人間を除き、国の基盤づくりに取り組んでいただきたい」
もはやエブラハムも察していた。バンがスーパーステイトを離れることを止めることはできない、と。
エブラハムはバンの忠告に従い、司法をクンダッパに任せることにした。しかし贔屓なく、実力のある人間を採用し、名ばかりの無能な人間を除くという点については問題があった。想像以上に人材の枯渇が激しい事実がわかってきたのだ。
ホールデンによって1年間治められたスーパーステイトでは、バンやゼイムスの腹心だった人間の多くが粛清され、この世を去ってしまっていた。優秀とされる人々はことごとく国を去り、ホールデンに気に入られた有名無実の人々が中央政府に残っている。
国を運営していかねばならないエブラハムにとってみれば、国家運営の勝手を知る人材をできるだけ多く採用したい。つまり現状を鑑みればどうしても、ホールデンの息がかかった人材で政府を固めざるを得なくなる。
例えクンダッパがバンの清廉潔白な精神を継いでいると言っても、処刑人上がりを後継者にすることはできない。だとすれば今後、ホールデンの意志を継ぐものが、スーパーステイトの国政を担っていくことになるだろう。エブラハムは後継者争いに一抹の不安を抱いた。
事実、スーパーステイトはこの後薄氷の上を進むことになる。
———親の心、子知らず。
一方のバンはエレナを前に乗せ、アルテリアへ向けて馬を走らせていた。彼は随分陽気な声で、エレナにずっと話しかけている。彼の中で、ある結論が出たのだ。
「光が闇を抑え込むことができていたんだよ、エレナ。君の両親の話を聞いただろう。3人の兄弟が次々に亡くなるという話だ。きっと君は生まれる前から悪魔にとりつかれていた。だが天秤は現れていなかった」
エレナにとっては思い出したくない過去だったかもしれない。だがバンは明るい声でそれは朗報なんだと語る。
「100%の希望だ。完全無欠の希望こそが本当に希望なんだ。君は希望を抱く病に冒されていたから、教会で悪魔の呪いをはねのけた。しかし俺が崖から落ちそうになったあの時、君は俺がいなくなることを不安に思ったろう。だから天秤が刻まれたんだ」
不安は絶望の子供だ。誰かを愛せば、その人を失うことを恐れるようになる。それは自然な心の情動だ。
「だが、大事なことは天秤が刻まれていても、希望が悪魔を封じ込めることができるということだ。俺は君との将来に希望を抱いた。絶望に染まっていなかったから自分の首を狩るのを押しとどまることができた。エレナ。完全無欠の希望を抱くこと。それが唯一の悪魔の殺し方だったんだよ。ならば俺たちは生きていける。希望と共にあろうぞ!エレナ」
バンは手綱を強く握る。黒鹿毛の馬が、ヒヒーンと高く吠えた。
二人の影は沈みかけた太陽の光によって、地平線までも続いていた。
***
6年後。
サラスヴァティ川の支流に沿って、河畔林が茂っていた。河畔林の隣には広大な緑の芝生が広がっており、人慣れした羊やヤギなどの小動物が放し飼いされている。
芝生の側には、深緑の壁と白い窓枠に彩られた、おとぎ話のようなかわいらしい家並みが立ち並び、春には川辺に赤いチューリップが咲き乱れた。
バンとエレナは、この牧歌的な村で牛を飼いながら小さな愛を育んでいた。
愛娘ナディア。バンがスーパーステイトを出てから1年後に生まれた娘は、今年5歳になる。黒い瞳はバンに、金色の髪はエレナに似たのだろう。
バンとエレナが並んで歩いていると、ナディアは無邪気に間へ割ってはいって、両親の手にぶら下がろうとする。バンとエレナはそのたびに、ナディアの小さな手のひらをぐっと強く握って、少女が落ちないように最大限配慮した。
(まだ、ナディアを愛することができている)
バンとエレナはまだマドネスに落ちてはいない。
希望を失わず、悪魔の誘いに乗らず、お互いの大事な人を殺し合わず、子供を純白に育てることだけが、彼らにとって悪魔の輪廻から解放される方法だった。
「パパママ、ずっと元気でね」
愛娘は天使のような笑顔を浮かべる。彼女は2人のパーフェクトホープだった。
(ナディアを育てきれた時には、悪魔との戦いも終わるのだろうか)
バンは左手首の天秤を見下ろした。
天秤は今もくっきりと手首に刻まれている。
(あと何十年先になるかもわからない。その間、幸せであり続けることが、悪魔と戦う唯一の方法なんだ)
バンとエレナとナディアの影が、ひとつとなって芝生に伸びる。彼らはいま、幸せな時間を共有していた。
***
史実では、2841年に終結したアルテリアとスーパーステイトの戦争は、10年後の2851年から再び勃発。20年後の2860年まで続いている。
2855年からアルテリアの南にあるロマリアの武士たちが戦争に参戦し、最後はスーパーステイトの軍を打ち破った。スーパーステイトは崩壊して、からくり大国デロメア・テクニカと金欲の国メルッショルド、法治国家ストライトという三国に別れたという。
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