7 マスカレード
バン・シュバイツァーをリーダーとするレジスタンスは、スーパーステイトの片隅で小さな産声を上げた。それから半年が過ぎ、スーパーステイトとアルテリアの戦いが激しさを増していく頃、バンのレジスタンスは国民の支持を大きく集め始めていた。
(小さな声が集まり、いずれ大きな叫びになっていく)
バンはレジスタンスの興盛に手応えを感じていた。だが、バンの脳裏には自分に味方した人間が、容赦なく死んでいく記憶も染みついている。
(悪魔よ。俺はこの声を途絶えさせてはならないのだ。決して戦争のない、女子供の泣かぬ国を造るために)
ボルチモアから西に行ったところにアルブツスという街がある。バンは今そこの城主として君臨していた。バンとしてはここをレジスタンスの拠点とし、戦力を増強して、ホールデンに圧力をかけたいという思いがある。レジスタンスはスーパーステイトの解放を謳っているものの、エレナの故郷であるアルテリアへの侵攻を止めるというのがバンの近々の目標だからだ。
アルブツス中央の広場をバンは歩く。道の脇で黄色の花を摘む少女がいた。
「バン、元気そうだね」
「エレナ」
バンとエレナはこの半年、よくこの広場で連れ立って歩いた。
エレナは立ち上がると、摘んだ花をバンに向けて差し出した。
「この花、ブラック・アイド・スーザンって言うんだって。花言葉は公平、正義、強い精神力。バンにぴったりな花だね」
バンはエレナに手渡された花を掴み、黒い瞳のような花芯を眺める。
「ブラック・アイド・スーザン。不思議な名前だな」
「昔の詩人さんがつくった詩に由来があるみたいだよ」
エレナによれば、その詩はこういう内容だそうだ。
戦場に船出しようとしている海軍水兵である恋人ウィリアム。出航の日、彼に別れを告げにきたスーザン。本の中ではウィリアムのスーザンへの思いが切々と語られ、最後は小さな手をふり、別れを覚悟したスーザンが泣きながら「さようなら」と叫ぶ。
「なるほど。詩の中のスーザンのように、この黒い花芯に覚悟を秘めた花なのだろう」
バンは目を瞑り、花芯に鼻の頭をつけた。シトラスの香りが鼻腔を刺激する。
「ねえバン」
エレナは笑顔を崩さずに、優しく甘い声で言った。
「もしバンが危なくなったら、私は命がけでバンを救い出すよ」
「スーザンと比べたら随分武闘派だな、君は。だが俺と共に行くのなら、その覚悟が必要だろう」
バンはエレナの肩を抱くと、額に軽く口づけした。
(まるでアブリルに対するときのようだ)
バンは咄嗟にとった自分の行動を冷静に分析していた。
***
8月10日。水泳をトレーニングに取り入れ、レジスタンスの戦力増強が順調に進んでいたころ、バンのもとに密偵が紛れ込んだ。密偵はホールデン直筆の手紙を掲げ、このように言った。
「ホールデン様がバン様と話したいと申しております。私からはこれ以上話せませんが、国王はバン様と事を荒立てたくはないのだと存じます」
「わかった。下がれ」
手紙には、8月15日21時、ウッドラーン城の裏口を開けると記されていた。
(あとは俺がホールデンを信じられるかどうか、だ)
バンは1月に手紙を送って以来すれ違ったままの弟に思いを馳せた。
(思えば兄弟で一番気が置けたのは、ホールデンだった。ゼイムス兄さんはどこか達観していて、俺とは最後まで目線が合わなかったし、アブリルのことは愛していたが何でも話し合える仲ではなかったろう。それに比べてホールデンは、喧嘩もしたがお互いの夢を語り合い、互いを尊重しあえる仲だったように思う。そうだ。ホールデンを信じないという選択肢はない。もし騙されたなら、その時は潔く死ぬだけだ)
遠い目をするバンを、エレナがそっと見守っていた。
8月15日20時、アルブツスの城を抜け出したバンは、ウッドラーンに向けて密かに歩き出した。雲が月を覆い、あたりに暗闇が落ちる。
(世界で唯一人、闇の中にいるようだ)
バンはそんな事を考えながら、ウッドラーンの裏口へ歩を進めた。ウッドラーンは国王時代、連銭芦毛と共によく視察へ来ていた。裏口は石造りの洞窟になっており、まっすぐ王座の間につながっているはずだ。
バンが記憶を頼りに石造りの洞窟を進み、小さな蝋燭の明かりが満ちる空間に入ったのは、8月15日21時30分頃だったろう。その空間に影をつくる男がいた。
「ホールデン。久しぶりだな」
どことなく、バンは嬉しそうだ。
「兄さん。久しぶり。およそ1年ぶりだね」
ホールデンは身体に綺羅びやかな装飾を取り付けている。
「どこでもいいから座ってよ。思い切り崩してもらって構わない」
ホールデンはあぐらをかいて座った。バンも相対するようにあぐらをかいた。
「早速だけど兄さん。いまアルテリアのレジスタンスにいるんでしょう?驚いたよ。僕の道を邪魔するやつらが出てきたと思ったら兄さんだったんだから。でも好都合だったなあ。ねえ兄さん、レジスタンスを中から崩壊させてくれないかな」
ホールデンは子供のような無邪気さで言った。
(思い出は美化されるものだ)
バンは久しぶりに会うこの弟の性格を思い出していた。かつて三兄弟の中で最も自由人と言われた弟ホールデン。彼は自分の欲望に寄り添う人間を重要視し、彼らと個人的に交わした約束は些細なものでも重んじる。本質はワガママだ。
「変わらないな、ホールデン」
「兄さんこそ、変わってたら嘘だよ。マタリカをスーパーステイトに染め上げようぞ。僕はそれを目指してやってきたんだ。兄さんもそれを支援してくれないとね」
ホールデンは口角を上げてバンを見た。それは酷く醜く見えた。
(あの手紙は何の役にも立たなかった)
バンは、ホールデンに向けて決して戦争のない、女子供の泣かぬ国を造ってくれと書いた手紙のことを思い出していた。
(おそらく行政と司法を担っているうちに、実際に国を作っているのは自分だという驕りが生まれ、自分がスーパーステイトに必要な法も裁きも与えられるのだと考え、スーパーステイトを意のままに動かしたいと考え始めたのだろう)
バンは目を瞑り、ホールデンに空想のブラック・アイド・スーザンを捧げる。
「ホールデン。これ以上スーパーステイトの品位を貶めるのはよせ。魅力の国アルテリアに手を出した国は今まで1つもない。この国を守ることが他国の名誉になる国だ」
「わからない人だな。マタリカを染め上げるために、アルテリアを取りに行かなきゃいけないでしょう。僕は間違っちゃいない」
ホールデンが右手で剣を抜き上段に構えた。剣には剣で応戦するのが、戦士の礼儀だ。それでもバンにはまだ弟を切る覚悟は無かった。
「ホールデン。マドネスに落ちたか」
「よくわからないな。兄さん。サボテンのように真っ二つにするよ!」
ホールデンが剣を振り下ろす。バンはそれをかわすと、右手でホールデンの右手首を掴み、自分の左手をホールデンの右手下に通して左手を持ち4の字を作る。チキンウィングアームロックと呼ばれる関節技だ。ホールデンの右手から剣がこぼれ落ちる。
「くっ」
ホールデンはチキンウィングアームロックが決まりきる前に右足でバンを蹴り飛ばし、関節技を逃れた。それからすぐにバンの足を抱え、転がすと、バンの左足首をとって腰を起点に左腕で左足首を捻じ曲げた。そうしてバンの動きを封じている間に、ホールデンはこぼれ落ちた剣を拾い上げている。
「ごめんね、兄さん。僕は司法を任されてからも処刑が苦手で、なかなか上手くならなかったんだ。悪いけど相当痛むよ」
ホールデンの剣はバンの首にターゲットを定めていた。
———一流の処刑人になるには多くの人間の首を切って鍛錬せねばならず、その分多くの人間の苦しみが必要となります。
バンの記憶にクンダッパの言葉が思い起こされる。自分もホールデンが一流の処刑人になるための苦しみのひとつとして消えるのか。
だがバンを救ったのは意外な人物だった。
エレナ・フォンティーヌ。
この少女はバンが遠い目をして密偵からの伝言の意図を噛み砕いていた時、何か良からぬことが起きると察知し、バンの後を追うことを決めたのだった。
そして彼女は闇に紛れてウッドラーンに侵入し、二人のやり取りを密かに見守っていた。バンの与えたナイフを胸に抱え、バンの危機にはいつでも飛び込めるように機会を伺っていた。
だから彼女がホールデンの後頭部にナイフを突き立てたのは当然だった。クンダッパの研いだ最高傑作のナイフは、非力な女性の力でさえ、僅かな抵抗もなくホールデンの骨肉を貫くことができた。
エレナの青いジャンパースカートが血しぶきで真っ赤に染まる。ホールデンはその場に崩れ落ちた。無邪気な笑顔を浮かべたまま。
「ハッハ。やっぱり兄さんには勝てなかったね」
バンは立ち上がって弟を穏やかに見た。
「ホールデン。手紙に書いたとおり、お前は誰とも競争する必要はなかったんだ」
「手紙?なんのこと?」
ホールデンは一瞬困惑した表情を浮かべ、また笑い出した。
「兄さんのことは最後までわからなかったな」
ホールデンの声は細く小さくなっていった。
この時、バンの胸にある見解が浮かんだ。
(手紙はホールデンに届いていなかった)
バンの頭の中に、この日のやり取りが思い浮かび、消える。
(だとしたら俺は今日、手紙に書いた内容をもう一度話すべきだったんじゃないか?お前は誰とも競争する必要はないと。類稀なる能力を国の発展のためにつかい、決して戦争のない、女子供の泣かぬ国を造ってくれと。それを俺はホールデンに)
そう。バンとホールデンはすれ違ったまま進み、すれ違ったまま二度と交わらぬ道を進むことになった。
(俺は!!!バカ野郎だ)
「あああああああああ!!!!!」
かつてない後悔。愛する弟を死に追いやってしまった自分の言動を、彼は憎み、恨み、行き場のない怒りに身を焼かれながら、後悔した。
***
エレナは思わず握りしめていたナイフを離していた。バンが今まで見たことのないような形相で彼女を見ていたからだ。顔は赤く染まり、額には血管が浮かび上がっている。
エレナでも明確にわかった。バンはいま激怒している。
エレナの心にあったのは、バンと交わした約束を愚直に守ることだけだった。彼女は命がけでバンを救い出すと誓った自分を貫き、自身に危険が及ぶかどうかなど考えず、ただ彼を守るためにウッドラーンまで来て、ホールデンを刺殺した。
エレナは、そうすることがバンを守ることだと信じていたし、バンにも理解してもらえると信じていた。
「ごめんなさい、バン」
彼女は目に涙を浮かべて、震える声で言った。
しかしバンの怒りはとどまることを知らない。エレナに注がれるのは、どこまでも激しくも冷たい、殺意に満ちた視線だった。
「ごめんなさい」
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
ヴェルサウルで見た言葉が、彼女の頭の中で反芻された。
『君がバラのために使った時間が長ければ長いほど、バラは君にとって大切な存在になるんだ』
エレナとバンが一緒にいたのは、わずか1年。バンがホールデンと過ごした20年という年月に比べれば、僅かな期間に過ぎない。その中で育まれる信頼や愛も、バンの中で大きく違っていたのだ。彼女は、自分がバンから愛されていると自惚れた。
「私、とんでもないことをしてしまった」
希望を抱く病に冒された少女エレナは、生まれてはじめて自分の行いを後悔していた。彼女が初めて抱く、後悔という念。それは恐ろしく暗く深い、底無しの闇のようだった。彼女は初めて知った絶望に、底なしの絶望に落ちていった。
彼女の心は涙すら流すまもなく思う。こんなにも怖いものなのか。みんなこんな世界で生きていたのかと。
そして彼女は、怒り狂うバンの胸にすがりついた。バンは右手に剣を握り締めている。いつ振り下ろされるともわからない剣を。だからこそ彼女は、自分の言葉で意志を伝えなければいけないと思った。
彼女は唇を噛みしめ、涙をこらえて言う。
「バン聞いて。あなたがもう一度スーパーステイトの王になれば全て元どおりになる。希望を捨てなければ悪魔にだって負けやしない。バンはひとりで大丈夫なんだ。だから……、だから悪魔ごと私を殺して」
彼女は、バンに恨まれた世界で生きることなど想像できなかった。バンに恨まれるぐらいなら、バンに殺されて命を終えたい。彼女はそう願って止まなかった。それでいて彼女は、バンが怒りに任せて彼女を殺し、彼女を殺した後で後悔の念に苛まれることも望まなかった。
———だから悪魔ごと私を殺して
それが望みなのだと、自分を救う手段なのだと、エレナは強く訴えかけていた。