5−2 宣戦布告
バンとエレナは11月になると、ジェロームのアパートを引き払い、シャルトルへ居を移した。
シャルトルはアルテリア中央アルルテージュ地方の可愛らしい村で、豊かな農業地域に位置している。この一帯には、乳牛が飼育され、シードル用のサイダーアップルの木々が生い茂る農地が広がっている。
二人の借りたアパートの裏にもリンゴ畑が広がっており、お隣さんと言っていい距離にある農家の玄関口で、10月末から収穫時期に入ったブレイバーンが格安で販売されていた。バンもエレナもこの農家と馴染みになり、甘い風味を歯ごたえとともに楽しんだ。
シャルトルといえば村を囲むように建てられた9つの聖堂が有名だ。
中でもサン・シャルトル大聖堂は、バロック様式の建築で、初めてこの地を訪れた人間はその巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さに目を奪われるだろう。入口から主祭壇に向かう中央通路である身廊の長さは約100m。その間目にする天井、壁、床などすべてのものに細かい装飾が施されている。
サン・シャルトル大聖堂の隣には、偉大なる聖女、聖テレーズが修道女として鍛錬を積んだシャルトル修道院があり、遺物室で彼女の生涯を物語る芸術品を見学できる。修道院の入り口ではテレーズにまつわる手作りの小物が売られており、お土産品として多くの旅行者から愛されている。
「ねえバン。もうひとつ行きたいところがあるんだ」
「どこへでも、お姫様。この村もゆっくり巡ればいいさ」
エレナと共に過ごす日々は、バンの心に光を灯してくれた。
彼らの行く先で不審な自殺や殺人事件が起こることはなく。まるで悪魔の呪いなど無かったかのように、安らかな日々が続いた。
絵のように美しい渓谷のふもとに古教会が佇む。
サント=テレーズ・ド・シャルトル教会。
その裏には病が治るという奇跡の泉が湧き出る聖地『ルルド』があった。聖域内には、泉が湧き出た洞窟、沐浴場などがあり、大きな公園程度の広さで人々が自由に出入りできる仕様となっている。
「ここだ、ここだ。ねえバン。左手貸して」
エレナはバンの左手を握ると、それをルルドに優しく浸し、丁寧に洗った。
「バンのこの傷がなくなるといいなと思って」
そういって左手を触るエレナの横顔。
いつしかバンはこの少女のことを愛おしく思うようになっていた。
気がすむまでバンの手首を洗ったエレナは、笑顔を浮かべてバンの方を見た。
「ルルドへ来るまでに、石造りの舞台がいくつかあったでしょう?あそこで5月は音楽祭をするんだって。カーニバルと並んで、アルテリアの3大祭の1つだよ。凄い音楽家の人達がいっぱい集まって演奏するみたい。バンも見たいよね?」
「そうだな。5月になったらまた来ようか」
「やった。これであと半年は一緒にいられるね。約束」
バンとエレナは、エレナの故郷の村を出るときと同じように、また指切りをした。
***
12月。二人はヴェルサウルという都市にいた。
ヴェルサウルは、言葉の都。多くの文学者がこの街を愛し、居を構えたという。
ヴォージュ山脈とミスルガ山脈に端を発する二つの川が合流する地域に広がり、豊かな水の恵みを受けて、長い歴史を積み重ねてきた建物が建ち並ぶ。金融や産業のみならず、商業や文化でも中心地となり、世界のグルメが集う「美食の町」としても知られている。
このヴェルサウルで、バンとエレナは街中を流れる 2 本の川の中洲に位置するヴェルクール広場を訪れていた。その中心地には小説「星の王子さま」の主人公である王子様が、飛行士の姿をした作者サン・テグジュペリの肩に手を置いている像が立っている。
像の表側には
『それはね、ものごとはハートで見なくちゃいけない、っていうことなんだ。
大切なことは、目に見えないからね』
という言葉が。
裏側には
『君がバラのために使った時間が長ければ長いほど、バラは君にとって大切な存在になるんだ』
という言葉が刻まれていた。
ヴェルクール広場を抜けると、有名な建築物であるヴェルサンドロス図書館が見えてきた。
これは教会の様な建物で、中央の巨大な図書館と、それを取り囲む回廊で構成されている。回廊には、レンブラントの『夜警』やフェルメールの絵画。モザイク画やステンドグラスが飾られている。
図書室は壁一面が書架になっており、壮麗な雰囲気を感じさせる。奥に入ると「天雲の間」と呼ばれる開けた空間があり、そこで空を見上げれば、ガラス張りになった天井から太陽の光が木漏れ日のように降り注ぐ。周囲を囲む書架とあわせてなんとも幻想的な風景が広がっていた。
「凄い蔵書だな」
バンは感嘆していた。スーパーステイトにこんな大規模な図書館はない。
「ヴェルサウルは言葉の都って呼ばれているんだよ。8月と12 月には ファンジン・マーケットっていうアルテリア最大の文学イベントが行われるんだって」
「それもアルテリアの3大祭りの1つなのか」
「うん。もともとは12月だけのイベントだったんだけど、参加人数が増えすぎて8月にもイベントをすることになったんだって。12月のイベントは24日からだね」
エレナの言葉が好奇心を刺激する。
バンはアルテリアの祭に興味を持ち始めていた。
「エレナ。俺はファンジン・マーケットへ行ってみたい」
バンが明確な欲求を表現したのはこのときが初めてだったかもしれない。エレナはニコニコしながら静かにうなずいていた。
12月のファンジン・マーケットはラフェドノエルと呼ばれる。聖書に書かれている文学祭であり、アルテリアの人々にとって特別な意味をもつ。このイベントにエレナとバンは参加していた。
ちらちらと綿のような雪が舞い落ち、二人の息を白く染める。
会場にはガス灯がいくつも並べられ、その間で創作者たちが自分の作成した書物を販売するためのマーケットを開いていた。参加者は創作者の書物を立ち読みしながら、書物の解釈について議論し、称賛し、時には喧嘩をしながらマーケットでの時間を楽しんでいた。
いつしか人の波が会場を埋め尽くし、油断すれば離れ離れになって二度と再会できないような気がした。バンとエレナは離れ離れにならないよう手をつなぎ、会場をゆっくりと回っていた。
(こんな日々がいつまでも続けばいい)
バンはいつしかそんなことを思うようになっていた。
彼らは周囲に何の不幸も撒き散らすことなく、普通に暮らすことができた。
(それも彼女のおかげなのだろう)
バンはエレナに感謝していた。
しかし彼女の人生を自分が独占していてはいけないとも考えていた。
(この女は誰とでも幸せに暮らしていける。いい男の元に嫁ぐことを祈ろう)
バンはそう願いながらも、もう少し彼女と共にいたいという矛盾した思いを抱えていた。白い雪があたりに積もっていく。ヴェルサウルの少年少女がその雪でかまくらをつくり、中で暖を取っているのが見えた。
***
1月3日。
バンが卵を買おうとしてヴェルサウルのタバコ屋を訪れた時、ある新聞の見出しが目に入った。
『ホールデン国王、兄ゼイムスの死に伴い3権を担うことに』
ひと目見てスーパーステイトの事変であることを悟ったバンは、慌てて新聞を購入し記事へ目を通す。記事にはこのような内容が書かれていた。
———1月1日、ゼイムス・シュバイツァーが亡くなっていることがわかった。残る唯一の王族であるホールデン・シュバイツァーは、スーパーステイトの政治が不安定になることを恐れ、ゼイムスの担っていた立法を自ら担うことを決めた。あわせてホールデンはエブラハムを国の象徴(国政と離れた場所で、権威の象徴となる)とし、国民の尊敬すべき対象と定めた。今後ホールデン・シュバイツァーは立法、司法、行政を担う王となり、エブラハムをシンボルとし、スーパーステイトの舵取りを行うこととなる。
この記事はバンの頭では違う解釈を生んでいた。
(ホールデンがゼイムス兄さんを暗殺したのではないか。ホールデンが3権を握り、軍事を握るために、父エブラハムを国の象徴としたのではないか。国の象徴と言えば聞こえは良いが、実際は父の国政に関する権限を剥奪し、口出しさせぬようにしたに過ぎない。これではスーパーステイトはホールデンの軍事独裁国家だ)
冷たい汗がバンの額にじっとりとしみる。
(これも悪魔の呪いだとしたら。ホールデンは何をしようとしている?俺はもうスーパーステイトにはいないのだ。俺を絶望に陥れるためだとしたら……まさかアルテリアへ攻め入るつもりか?)
不穏な想像が頭をもたげる。
バンはホールデンに手紙を書いた。彼は弟ホールデンがマドネスに落ちていないことを信じたかった。だから彼は僅かな望みをかけ、ホールデンに内政を重視しスーパーステイトを豊かな国にするよう伝えようとした。
『親愛なる弟よ、
君ならもうスーパーステイトをひとりで統治することができると信じている。もうお前の競った兄はいない。お前は誰とも競争する必要はないんだ。類稀なる能力を国の発展のためにつかい、決して戦争のない、女子供の泣かぬ国を造ってくれ』
ヴェルサウルからスーパーステイトの首都まで手紙を送達するには、およそ7日がかかる。バンは1月4日にこの手紙を出し、7日間を祈るように過ごした。
しかしこの手紙は届かなかった。送達を頼んだ飛脚が死んだのだ。
そして1月15日、バンの想像は現実のものとなる。
スーパーステイトがアルテリアに宣戦布告したことが報じられたのだ。バンは飛脚が死んだことを知らなかったため、ホールデンが自分の手紙を読んだ上でこの判断を行ったと思い、心をくじかれた。
(ホールデンがマドネスマンになってしまった)
ヴェルサウルの街並みが見えるアパートの一室で、雲ひとつ無い快晴の空を見上げながら、スーパーステイトの王であったバンは思う。
(ホールデンよ。かつてマタリカを3人で染め上げようぞと言った兄は、アルテリアにこんなにも存続して欲しいと思っている。エレナという女のために)