その19 ロイの記憶3
「ゲホッ! ゲホッ!」
酷い咳をして目が覚めた。それでも咳が止まらない。胸が焼けるように痛み、何かが喉にせり上がってきた。
「ガッ! ゴブッ!」
大きい咳をする口を手で押さえる。すると、何かがべたっと手に張り付いた。
血だ。死が自分に近づいているのを実感する。背筋に寒気と恐怖が迫ってくる。
――考えるな。
手を拭いて水でも飲もう。立ち上がり入り口の壷に向かう。
あいにく壷の中は空だった。どうしよう、湖にいこうか?
夜に出歩くのは自殺行為だが……どうでもいいか。今日は曇っているし、その時はその時だ。
カンテラに火を灯すと左手に引っかけ、水をくむための桶を右手に持ち湖に向かう。
外に出れば秋の涼しさが全身を撫でる。同時に空気が湿っているのを感じる。もうすぐ雨が降りそうだ。
フードを深めにかぶり湖に急ぐことにする。
湖に近づくと煙の臭いがした。一瞬火事ではとも思ったが、雷も鳴っていないのにそれは無いだろう。
ならば人がいる? 旅人か何かが野宿をしているのだろうか。
「僕は人に合ってはいけない」。そう決めたはずだ。でも、せめて火事ではないか確認したほうがいいだろうか。
そんな風に自分に言い訳をして、こっそり覗いてみることにした。
煙は湖のすぐ近くから上がっていた。桶とカンテラを置き、茂みに身を潜めて様子をうかがってみる。
そこには焚き火と、近くに座り込む人がいた。あまり見たことがない服を着ている。やっぱり旅人か。
火事でないことを確認できたので、自分に言い訳もできなくなってしまった。
しかし、なぜこんなところにいるのだろう。見たところ獣人ではなく人間……待て、あれは座っているのではなく、胴体から下が無い!? まさか死体!?
いや、焚き火に枝を追加している。生きているのは間違いない。もしかして本に出てくるような化け物だろうか。
……! まずい、また咳が出そうになる。
音を出さないように必死で口を押さえるが、咳が出たときに体が動いて物音を立ててしまった。
逃げようとしたが、運が悪く茂みに服が引っかかってしまう。
人間にも音が聞こえたようで、火のついた枝をこちらに向けてきた。
そして、なぜか枝の火から光が伸びて僕の顔を照らす。
人間と目が合ってしまった。
「うわ!」
びっくりして強引に茂みから抜け出す。その時に桶を蹴っ飛ばしてしまった。
桶はあきらめてカンテラだけ持ち、急いで小屋へ向かい走る。
あれはいったいなんだったんだ。上半身だけで動く人間。そんなのが出て来る物語を読んだことがある。
それは、人間の下半身を奪おうとする化け物だった。
あれもそういった化け物だろうか?
顔だけ見ればただの少女に見えた。とても人を襲うようには見えない。それともそう思わせるための偽装なのだろうか。
考えても答えは出ない、ここは逃げるしかないだろう。
しかし、無理をした体は途端に悲鳴を上げた。
「ガッ! ゲホッ!」
今までで一番ひどい咳が出る。口を手で押さえるが、また血を吐いてしまう。
息が苦しい、力が抜けて膝をついてしまう。
「ゲボッ! ゴボッ!」
水の中で咳をするような音が胸から出て来る。肺から血が出たのだろうか、息を吸おうとしても、ゴボゴボと音がしてうまく吸えない。
息ができない、苦しい、僕は……死ぬ?
目の前が真っ白になる。そして、僕の意識も途絶えた。
◆
「んんん……」
眩しい、顔に光が当たっているようだ。おかげで目が覚めた。
かかっている布をどかして上半身を起こす……いや、これは毛布?
なんだろうこれは。それにここはあの小屋ではない。
「ここは……?」
目の間にあるのは土の壁、どうやら洞穴の中の様だ。
……!? 服が無い。呪いを隠していた手袋も布も無くなっている。まさか、見られた!?
「****! ****!」
右から大きな声が聞こえた。しかし意味が分からない。そちらを向けば、さっき出会った少女がいた。
にこにこと笑いながら、水の入った木のコップを僕に突き出している。
少女は身なりの良い服を着ているが、なんだか顔立ちが僕たちと少し違う。
それでも見た目通りの年齢なら、僕と同い年くらいだろうか。
やはり上半身だけで下半身は無い。何とか声は出さなかったが、驚いて目を見開いてしまう。
「君は誰? ここは何処?」
少女は反応しない。言葉が通じていないようだ。
少女はコップをさらに突き出し、首を大きく傾ける。
飲めと言うことだろうか?
つい右手を動かしてしまうと、少女は強引に手を持ってコップを渡してきた。
僕は訳が分からずそのまま固まってしまう。すると、少女はこっちを見てにっこりと笑いかけてきた。
僕はさっき血を吐いて倒れたはずだ。しかし、僕の体は汚れていないし、呼吸も楽になっている。
彼女が助けてくれたのか?
なぜ? 善意? 化け物が?
何か企んでいるのだろうか?
仮に彼女が人を害する化け物なら、すぐにでも逃げなければならない。
でも……その満面に笑みに悪意があるとは思えなかった。僕が水を飲みだすと、彼女はまた可愛く微笑んだ。
僕が水を飲んだことを確認すると、今度は切ったリンゴを木の皿にのせて僕に渡してきた。
右手でコップを持っているため、とっさに左手を出すことを躊躇してしまうと、少女は何かを言って僕の膝の上に皿を乗せる。
わからない。なぜ彼女はこんなに僕のことを気にかけるのだろう。
さっき飲んだ水からは木の香りがした。わざわざ木を削ってコップを作ったのだろうか。
いまリンゴが乗っている皿も作ったばかりのようだ。
そんな疑問を感じながら彼女の顔を見ると、僕がリンゴに手を付けないのを心配したのか、切る前のリンゴを持ってきて皿とリンゴを指さした。
いや、これがリンゴだとはさすがにわかるのだが……あっ。
彼女の持っているリンゴに虫がついているのが見えた。ついリンゴを指さしてしまう。
すると、それに気づいた彼女はびっくりして声を上げ、リンゴを洞穴の入り口から外に放り投げた。
ぷ……
「あはははは!」
その反応は、まさに見た目通りの少女のものだった。おかしくてつい笑ってしまう。
声を上げて笑うなんていつぶりだろう。
僕が笑ったのが気に障ったのか、彼女は少し怒ったような顔でリンゴをかじりだす。
間違いない、彼女は人に害をなすような化け物ではない。見た目はどうあれ、心は僕と同じだ。
リンゴを一口かじる、こんなにおいしいリンゴは久しぶりだ。僕はお礼の気持ちをこめて少女に笑いかけた。
リンゴを食べ終え水を飲み干すと、少女が肩を叩いた。そして自身を指さし「リ、コ」と話しかけてくる。
これは自己紹介だろう、僕も「ロ、イ」と返すと、少女は「ロイ、ロイ!」と言いながら僕の手を取って元気よく振り出した。
リコと名乗った少女は、よっぽど嬉しかったのかそのまま笑っている。
僕も「リコ」と返してあげると、また笑いながら手を振り出した。
あ、まずい、咳が出る。僕はリコの手を離すと、壁を向いてゲホゲホと咳をする。するとリコは、背中をさすろうとしたのか僕の左肩に手を置いた。
「触らないで!」
反射的に声を上げて手を振り払ってしまう。
しまった、事情も知らない彼女に悪いことをしてしまった。ばつが悪くなり「ごめん」とつぶやき背を向けてしまう。
でも、これは不用意に触れられたくない。最悪、リコに呪いが移ってしまったら申し訳がない。
何とか彼女にお礼を言って、この場を離れたほうがいいだろう。
言葉の通じないリコにどうやって伝えようか悩んでいると、不意にリコが僕の頭を掴んで自分のほうを向かせた。
いったいどうしたんだろうか。僕がびっくりしていると、リコは右手を僕の目の前でひらひらと振る。
すると、その手から毛が生えて大きくなり、爪が生えた。まるで大型の虎のようだ。
僕が驚いているのを気にせず、彼女はそのまま手を様々な動物のものに変えていく。
犬のようなもの、鳥のようなもの、トカゲのようなもの。僕はその光景に目を奪われてしまい、声を出すこともできない。
次にリコは僕から少し離れると、横にくるんと回る。すると、その全身が小型の虎のものに変わった。
虎は宙返りをすると僕の膝に前足を乗せる。
虎は横にくるんと回ると兎の姿になった。そして、空中にいくつもの氷の花が咲いた。
氷の花は日に当たりきらきらと輝きながら、僕の周りをひらひらと舞っている。こんな幻想的な光景は見たことがない。
兎はまたくるんと回ると人間の姿に戻った、いや背中には翼が生えている。
今度は祈るようなしぐさをして翼をぐっと閉じる。まるで力を貯めているようだ。
そして、翼が開き腕を広げると、炎が部屋中に広がった。いや、僕の周りだけはきれいに炎が避けて、氷の花を消してしまった。
そしてリコはまた笑った。その力を見せられた僕には、まるでおとぎ話の天使のように見えた。
リコはくるんと回り翼を消す。そして今までの光景を自慢するように胸を張った。
今の光景は現実なのだろうか。寂しさのあまり僕は幻覚でも見ているのだろうか。
あまりの現実感のなさに、そんな考えさえ浮かんでくる。
リコは一体何者なんだろう。魔法陣が出ていないから魔術師ではない。
そもそもこんなことが魔法で可能なのだろうか。
もしかして魔術師よりもっとすごい力を持っている?
まさか本物の天使?
ひょっとして彼女なら呪いにかからないのでは……いや、そんな都合のいいことを考えてはいけない。
悩んでいる間にリコが僕の左手を握ってしまった。振りほどかなければならない。
でも、もしかして、きっと彼女ならば。そんなことを考えてしまう。
それに……人の手ってこんなに温かいものだっただろうか。
何とかごまかしてきた孤独が、涙となって自分の体から出て行ってしまう。
僕の涙をリコはどう思ったのだろうか。なんと、僕を引き寄せてぎゅっと抱きしめてきた。
彼女の体温とともに、幸せな気持ちが僕の中に広がる。
……ああ、だめだ、もう自分の気持ちを偽ることができない。やっぱり僕は人と居たい。
リコの背中に手をまわして抱きしめてしまう。
涙が止まらない。でも、止めたくない。こんな気持ちは初めてだ。
ただリコの腕の中で涙を流し続けた。
◆
涙を出し切ったら我に返り、急に恥ずかしくなってしまった。リコから離れて涙の後を腕で拭う。
それで気がついたが、上は何も着ていないんだった。リコにジェスチャーで服をどうしたのか聞いてみる。
彼女は上に干してあった服を僕に渡してくれた。血の跡が薄くなっているのは彼女が洗ってくれたのだろう。
洞穴から見える外の景色で、自分がどこにいるかは大体分かった。倒れたところから移動していないようだ。
でも、こんなところに洞穴はなかったはず。これもリコが作ったのだろうか。
とりあえず一度小屋に戻ろうと思い、カンテラと桶を持つ。
リコも一緒に来てくれるだろうか。外に出ようと入り口に近づき、彼女に手を差し伸べる。
彼女嬉しそうな表情をすると虎の姿になり、洞穴の中のものをかごに入れ始める。恐らくそれを持って一緒に来てくれるのだろう。
毛布はどうするのかと思ったが、彼女が手を触れるとスルスルと体内に消えていった。
体内にしまった? それとも何かの能力で作った? 僕が考えているうちに彼女は準備を終えて外に出て行った。
考えを中断して外に出ると、リコは洞穴の入り口の地面をトントンと叩く。すると、洞穴は地面に潜っていき、まるで何もなかったかのように消えてしまった。
その光景に呆然としていると、彼女は先を急ごうと僕の腰を押した。いちいち気にするなということだろう。……まぁ、いいか。
僕が小屋への道を歩くとリコも後ろについてきた。彼女は虎の背中に器用にかごを乗せて歩いている。
いや、よく見れば背中の肉が、かごに合わせて少しへこんでいるようだ。
うん、もう気にするのはやめよう。
少し歩いて小屋に到着する。リコは周りをきょろきょろと見ているが、僕が小屋に入るとそのまま中に入ってきた。
しかし、彼女はこれからどうするのだろう。もしかして荷物を置いたらどこかに帰ってしまうのだろうか。
できれば彼女と一緒にいたい。それをどうやって伝えようか。
そんな僕の不安をよそに、リコは部屋を眺めるとサッとベッドの横に行き毛布を引いた。
そして、その上で丸くなり僕に「にゃーん」と鳴く。
……もしかしてそこで寝るの? そう思ってベットの方を指さすが、彼女は首を振る。
女の子を床に寝かせるのもどうかと思ったが、彼女はそれを譲ってくれなかった。
とりあえず彼女がここいてくれるなら嬉しい。引き留める方法を悩む必要なかったようだ。
僕は彼女に「分かった」と頷いた。




