ベランダ越しの恋~夏に出会ったあの人はいつの間にか恋人に代わっていた~桂まゆさんへのクリプロギフト
狭い路地を入った場所にある一軒の民家。まゆがそこを訪れるのは二度目だった。風情のある格子戸を開けると、風味の良い香りが漂っていた。
彼と知り合ったのは雨が続く夏の日だった。実際にはもっと前から面識はあったのだけれど、親しくなったのはあの雨の日だった。隣の部屋に住む彼とベランダ越しに話しかけられたのがきっかけだった。以来、二人はたまに公園をぶらりと散歩をしたりする程度の仲にはなっていた。
大晦日のこの日、彼はいつものようにベランダ越しにまゆに声を掛けてきた。
「年越し蕎麦はいかがですか?」
網戸の掃除をしていたまゆはその手を止めて声がした方を見た。
「日下部さん、今日は忙しいんでしょう?」
彼は一軒の民家を借りて趣味で蕎麦打ちをしている。そして、親しい友人たちにだけ自慢の蕎麦を振る舞っている。だから、大晦日ともなればそういったひとたちへの振る舞いで忙しいのではないかとまゆは思ったのだ。
「ええ、今日は特別な人へ蕎麦を振る舞うつもりですから」
「では、ご無理なさらないで」
そう答えたまゆに彼は微笑みかけた。
「だから、まゆさんを誘っているんですよ」
「えーっ!」
彼の言葉にまゆは驚いた。これって、どういう意味かしら? もしかして、告白されてる? まさか…。まゆの頭の中は?マークで溢れた。
「そんなに驚かないで下さいよ。それとも今夜は何か予定でも?」
「いえ、予定は特にありません…。あの…。それより、本当に私でいいんですか?」
「はい! 今日はまゆさんのためだけに出汁も仕込んでありますから。なので、是非!」
「解かりました」
まゆは火照って赤くなった顔を見られるのが恥ずかしくて俯き加減で答えた。
「では、11時頃に来て下さい」
そう言って彼はベランダから姿を消した。
まゆが店に入ると、厨房から彼が顔を出した。
「いらっしゃい。では、今から蕎麦を茹でますから、もう少々お待ち下さいね」
まゆは席について待つことにした。間もなく、彼が蕎麦を持って厨房から出てきた。蕎麦はシンプルなかけ蕎麦。そして、それとは別の器に盛られた山菜のてんぷらも一緒にまゆの前に置いた。
「わあ! このてんぷら、日下部さんが揚げたんですか?」
「はい。今朝、ボクが採って来たものです。蕎麦に乗せてもいいですし、添えてある岩塩で頂いてもいいですし、お好みでどうぞ」
まゆは先ず、岩塩でひとつ食べてみた。
「わあ! 美味しい! これはなんという山菜なんですか?」
「それはオオバコですね。その辺の道端にも生えているやつです」
彼はまゆが一つつまむたびにそれが何という山菜なのかを説明してくれた。まゆはいちいち感心しながら彼の話に耳を傾けた。
「あれ、日下部さんは食べないんですか?」
「食べますよ」
そう言って彼も自分の蕎麦とてんぷらを持って来ると、まゆの隣に座った。
「なんかいいですね」
彼が呟いた。
「はい、いいですね」
まゆも応えた。
ここにはテレビもなければ時計もない。ただ、穏やかな空気だけが二人を包んでいた。やがて鐘の音が一つ聞こえてきた。
「除夜の鐘ですね」
「そうですね。今から初詣に出掛けませんか?」
「いいですね」
二人は外に出た。身も心も温まった二人には冬の冷気もそれほど冷たくは感じなかった。二人が近所の神社に着くと、そこには既に長蛇の列が出来ていた。二人もその列に並んだ。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
30分ほど並んで二人は社の前にたどり着いた。賽銭を投げる。鈴を鳴らしてニ礼二拍手一礼をして社を後にした。
「まゆさんはなにをお祈りしたんですか?」
「秘密です」
「そうですよね」
「日下部さんはなにをお祈りしたんですか?」
「これからも、まゆさんと変わらずにお付き合い出来ますようにと」
「まあ、言っちゃっていいんですか?」
「隠しても仕方のないことですから」
「じゃあ、私も言います。これからも、日下部さんといい関係が続きますようにって」
「同じでしたね」
「はい、同じでした」
二人はお互いの顔を見つめて微笑んだ。それから二人はおみくじを引いた。まゆは大吉で、彼は吉だった。
「私の勝ちですよ」
「はい、まゆさんにたくさんの幸せが訪れるのなら、ボクも幸せです」
境内には艶やかな振袖を着た女性たちも多く訪れていた。
「私も着物を着て来れば良かったな」
「ああ、それは是非見たかった」
「何を言っているんですか。日下部さんが着物の女性に目を奪われているようでしたから、私もって言ってみただけです」
「でも、まゆさんの着物姿は素敵でしょうね」
「では、明日、もう一度出直して来ますか?」
「それはいい。是非そうしましょう。ボクも着物を着て来ます」
「まあ! 日下部さんの着物姿も素敵ですね」
「では、そろそろ帰りましょうか」
そう言って彼はまゆに手を差し伸べた。
「手をつないで帰りましょう」
「はい」
まゆは彼の手を取ってにっこり笑った。
「恋人同士見たいですね」
「ええ。恋人同士ですから」
彼の言葉にまゆは満足そうに笑った。