未だ嘗(かつ)て人の此(かく)如く其(そ)れ美なるを見ざるなり
秦の始皇帝が中国を統一する以前を、我々は春秋・戦国時代と呼んでいる。
春秋時代においては、国の数は200ほどあり、戦国時代では、それは20にも満たないほどの数となった。ついには始皇帝が紀元前221年に天下を統一することになるのだが、それまでの245年間に及ぶ、遊説の士たちなどによる権謀術策が、『戦国策』として、前漢時代の劉向という学者によってまとめられた。これから記述されていることは、古代中国にて紡ぎだされた、血の滲んだ知恵である。……んで、それをライトに噛み砕いたものっす。もしあなたが興味をお持ちになられたら、『戦国策』をお読みになられてください。解説もあります。また、もしあなたが小説をお書きになられるなら、ネタにでも、どうぞ。ちなみに。理解できておらずに間違っていることや色を付けて適当に設定を作っているところも多々ありますので、どうか、鵜呑みにされないように。これは所詮、小説。真実を追究されたいなら、実際に資料をご覧ください。
ところで。
謀婦で述べた世にも恐ろしい鄭褏夫人だが、そんな彼女すらも欺く男がいた。張儀という男だ。この男、中国での歴史上、唯一言論の自由が約束されていた戦国時代において、口先三寸で国々を散々貶め、また国をとんでもなく栄えさせるような、口から先に生まれたのではないかと噂されても仕方のないような人物である。
とはいうものの、張儀の功績は素晴らしく、秦の天下統一に大きく貢献し、歴史の教科書に載っているほどに、戦国時代を代表する最たる有名人の一人だ。また、今もなおコンビニでもなんらかの関連書物が並ぶ『孫子』のモデルとなったと思われる二人の内の一人、孫臏と面識があった、という設定で漫画に出るほど、戦国時代といえばこの人あり、と囁かれる男だ。
さて。
この男がたとえばどのようなことをしたのかは、この後、何度も彼は登場することになるので、それについては述べない。しかし、この男の置かれている背景については説明する必要があるので、ここに記述する。
若い頃、職を探していた張儀は楚の大臣に袋叩きにあった。そこで怨みを募らせた彼は、大国である秦の宰相となったときに、袋叩きをした男に対して、脅しに脅した。また、『必ず其の鼻を揜え』で出てきた、あの女の子の鼻を斬った楚の懐王をも騙した。内容は以下のとおりだ。
そのとき、あの伝説の太公望によって作られた国である斉と、張儀の復讐の矛先である楚は、大国である秦に対抗するために同盟を結んでいた。するとこの張儀。資源豊かで人材も魅力的な土地を六百里四方ほどあげるから同盟を破棄してよ、との話を楚の懐王に持ちかけた。喜んでその条件を受けた懐王であったが、同盟を破棄して張儀と話し合おうとすると、張儀は「え? そんなこと言ったっけ?」と、とぼけまくった。激怒した懐王は秦に戦争をしかけるも敗戦。秦による和睦の使者から「土地あげるから戦争終わらせよう」と交渉されると、「土地はいらないから張儀の命が欲しい」とまで言わしめた、という内容だ。彼はノコノコと楚に行き、当然のごとく、のらりくらりと策謀を弄して命の危機を回避して釈放された。
と。
まあ。
そんな人でなしの張儀だが。
この物語は。
そんなこんなで楚と因縁深い張儀の、懐王を騙す以前の、懐王を騙すエピソードの一つである。
「あー。腹減ったなぁ」
張儀はへこんだ腹をさすった。
彼は今、現代風に訳すと、就職活動をしていた。どこかで優遇してくれる雇い先はないか、諸国を渡り歩いているのである。そこで、現在は楚という国において、活動をしているのだが、なかなか良い就職先が見つからない。一応、不定期労働はしているが、つまるところは定職についていないということであり、無職といっても過言ではない。金がなく、貧乏暮らしが続いていた。
対照的に、学友である蘇秦(彼もまた超有名人)は、上手く出世街道まっしぐらな就職ができたと風の噂で聞いた。金持ちになり、今頃はウハウハ生活をしているのだろう。まったくもって不平等だ。腹も減るし、腹も立つし。これは忌忌しき事態だ。
別の国に行ってみるか?
張儀は可能性を思案した。
中原(中国の中心のあたり)の国々なんていいかもしれない。今は小さい国に分かれたが、みんなの憧れの土地という事実は変わらない。こんな田舎にいても、面白くねーし。都会の可愛いねーちゃんでも一杯引っ掛けてみよーかねぇ。ま、金がねぇんだけどよ。あー。金が欲しい。なんだかんだで結婚もしちまってるし。養わないといけないんだよな。面倒臭い。てっとり早く、いい方法で稼げないもんかね。
と、張儀が愚痴っていると、一つの案がひらめいた。
詐欺である。
この男。口が上手い事この上なく、平気で嘘を並べられる根性を持つ、稀有な人物なのだ。痩せ細った腹をさすりながら、張儀は状況の整理に取り掛かった。
といってもな。するにしたって、金持ちじゃなきゃぁな。コネがあるから、楚の国じゃ最大で懐王か。ふーむ。手ごろな相手といえば、そうなんだが。なまじ、少しは頭が回るだけに騙しやすいんだよな。おっ。頭が回るといえば、南后や鄭褏夫人も中々やるな。上手く取り入って、権力を作り上げている。顔がイイことを自慢していることがムカツクが、まぁ、確かに、あいつらは世渡り上手いよな。オレと違って。なんだよクソっ。懐王も懐王で、何人も美人を囲いやがって。国王なんだから当たり前だが、少しはオレに分けてくれたっていいじゃねーか。懐王の女好きにも困ったものだ。
と、自身を棚に上げて他人を非難していると、あることがひらめいた。
そうだ!
この三人を騙してやろう!
と。なんとも性格の悪い男である。
そうと決まれば話は早い。善は急げとばかりに彼は足早に城へ移動した。
謁見してみると、懐王は不機嫌であった。ちょうどいい、と口元を緩めて張儀は弁舌した。
「王は、どうにも臣をお用いいただけないご様子。ですので、臣は中原へ行き、晋君にお目通りさせていただこうと思います」
楚王は横柄に頷いた。
「よかろう」
「つきましては、王は何か、晋国からの土産といたしまして、手に入れたいものはございませんか?」
「なにもない」
楚王は即座に切り返した。
しかし、その言葉を聞いて、笑みを深くした。
「それはそれは。王は一向に、美人にはご興味がおありではないようですね」
「ふむ。一体それは、どういうことだ?」
ふふふ……。
食いついてきた、食いついてきた。
馬鹿なヤツめ、と裏では嘲笑しつつ、続けた。
「あちらの鄭や周の国々も、言ってみれば中原国。臣は旅をしておりますので、はっきりとわかるのですが、そこでの女性は、化粧をすれば天女と見間違うほどに麗しいのです」
つまりは、日本でいうところの、『東京や大阪の女の子はめちゃんこ可愛い娘が揃っていますから、どうです、社長? せっかくですから、ちょっくら遊んでみませんか?』といった具合だ。いつの時代も男は変わらない。キャバクラ好きの豪遊社長に成り下がった王は、平然を装いながら、話に乗ってきた。
「何をおかしなことを。どうして美人に興味を持たぬはずがないだろう。楚は片田舎の国ゆえ、美しいと噂の中原の国々の娘をまだ見たことがないのだよ」
そして、珠玉を取り出した。
要約。『めっちゃ気になる。酒を一緒に飲んで遊びたい。こんな田舎じゃ可愛い女の子、いねーんだわ。ちょっとお前さぁ、可愛い子、スカウトしに行ってくんね? ほら、小遣いだ。一千万円。おつりとか細けぇことはどうでもいいんだよ。いいか、重要なことはアレだ。俺の好みはわかってるだろうな?』
といったカンジだ。これには両者ともに気を良くして、がっちりと、固い絆で結ばれた。
「御意」
全く、大真面目な会談であった。
ところが。
そんな内緒話を耳にした女性がいた。
懐王の妻、南后と鄭褏夫人である。二人は後宮諸々の問題や権力闘争諸々の問題を大いに恐れて、鼻歌でリズムを刻みながら旅支度をしていた張儀の元へ使者を出した。使いの者といっても、張儀のような不健康な男ではない。これぞ武人、と言われるような、立派な口ひげの生えた、剣の似合う厳つい長身の鎧男である。
手紙を読み上げる南后の使者曰く、「将軍が晋の国へ行かれるとお聞きしました。驚いたことに、たまたま黄金一千斤があります。どうか、ぜひ、旅の資金にお使いください」というのだ。
これも、俗語に訳すと以下のようになる。
『一千万円相当の金を渡してやる。だから行くなよ。わかってるだろうな? 少しでも不穏な動きをしたら命はないぞ。コイツに真っ二つにさせるぞ。いいか、わかったな?』
張儀は何度も頷いた。
鄭褏夫人からも同じ内容だったが、半分の金額だった。
チッ。しけてやがる。
舌打ちしつつも、張儀はご満悦だ。何もせずに大金を手にしたのだ。ホクホク、出来立ての焼き芋だ。けれどもアフターフォローも大切にしなくては、今度は懐王に殺されてしまう。彼はしばらくして、再び、懐王に謁見することにした。
「諸国を旅しようとしたのですが、各地の関所が閉ざされておりまして、中々、先に進めません。今度、いつお会いできるかもわかりませんゆえ、ぜひ、杯を賜りとうございます」
キャバクラ好きの社長はひどく残念がり、しかしその心意気は買おうと、「承知した」と受け入れた。
張儀は様々な問題や改善点を論じた。政治、経済、戦論。その知識や知恵は、有識者を知る懐王も舌を巻くほどで、「なるほど」「確かに」「そのような視点はもっていなかった」と、いつしか話に聞き入っていた。程よく酔いが回ると、張儀は、頭を下げて言った。
「この席には、ほかに誰かがいるというわけではありません。どうか、よろしければ、王がお気に入りのご婦人方をお召しくださって、杯を頂かせていただけないでしょうか」
「よし、いいぞ」
と、別室に控えていた南后と鄭褏夫人に、王は、酒を注がせた。
おいおい。二人ともそんなに睨まなくても、きちんと断っただろうが。元々そのつもりだったしよぉ。オレは金が欲しかっただけなんだから。……ちっ。しかたねぇなぁ。わかったよ。もう一押し、すればいいんだろう。まー、こんなこともあろうかと、目薬も用意してきてるんだけどよぉ。
すると張儀は、王が二人から酒を注がれている際に、素早く泣き顔を作った。
杯から顔を上げた王は張儀の表情に、ギョッとして、彼に尋ねた。
「一体どうした? 何があったのだ?」
張儀は土下座をした。
「なんということでしょうか! 私は、大王に対して、死刑にあたることをしてしまいました」
「どうしたのだ?」
「私は諸国を歩いてきました。その中にはもちろん、中原の国々も含まれております。しかし、私はこれほどまでお美しい人を見たことがありません。それも二人も、です。にもかかわらず、美人を見つけてきましょうなどと、なんとたいそれたことを。これは、王を欺いたことに値します」
「ハッハッハッ! なんだそんなことか。よい、よい。私は元々、この二人よりも美しい女は、天下にいないと思っているのだから。気にするな。それよりも、美しい女から酒を注がれる喜びを分かち合おうではないかッ」
こうして。
張儀は、三人から金を騙し取ることに成功したのであった。
寝ている間にナイフで刺されても文句の言えない人物である。
この時代に目薬があったかどうかは知りません。
誇張してみました。