必ず其(そ)の鼻を揜(おお)え
秦の始皇帝が中国を統一する以前を、我々は春秋・戦国時代と呼んでいる。
春秋時代においては、国の数は200ほどあり、戦国時代では、それは20にも満たないほどの数となった。ついには始皇帝が紀元前221年に天下を統一することになるのだが、それまでの245年間に及ぶ、遊説の士たちなどによる権謀術策が、『戦国策』として、前漢時代の劉向という学者によってまとめられた。これから記述されていることは、古代中国にて紡ぎだされた、血の滲んだ知恵である。……んで、それをライトに噛み砕いたものっす。もしあなたが興味をお持ちになられたら、『戦国策』をお読みになられてください。解説もあります。また、もしあなたが小説をお書きになられるなら、ネタにでも、どうぞ。
「ほぉ、これはなんと美人であることか」
楚の国の王は、魏の国の王から贈り物をいただいてご満悦だった。
贈り物というのは、ティーンエイジャーの一人の女性である。彼女は若く、すばらしい美貌を持ち、すぐに国王のお気に入りとなった。当時の中国では、このように女性を贈り物として献上するほどに女性の地位は低かった。また、後宮というものはこの時代にも存在し、王は、複数の女性を囲っていた。その中の一人として、彼女が友好の印として贈られたというわけだ。彼女の美貌は王を虜にしたけれども、当然、後宮の女性は嫉妬し、また自身の命の危機感を募らせた。
「どうしましょうか?」
「このままでは私たちの未来はないわ」
「ただでさえ、后様と夫人様のお力がお強いのに」
「お子様がお生まれになられたら、新しい勢力も加わってくるでしょうね」
後宮の中において、正室である后よりも格が一つ下がる役柄に、夫人、というものがある。鄭褏夫人はその一人で、当時、后である南后とで、楚の国において、政治的に、また経済的に、二大勢力を築き上げていたのだ。
そんな権力を持っている鄭褏夫人だが、新しく入ってきた女性を、王以上に可愛がった。ありえないことだった。もしも、その女性に子どもができたなら、後継者争いや権力争いなどから、これまで築き上げてきた絶対的な地位が脅かされることは目に見えてわかることであったからだ。しかし、夫人は、服も、雑貨品も、ひどいときには家すらも、哀れな彼女の趣味に合わせて作らせたのであった。当然、よくしてもらっている彼女は、夫人と仲良くなっていった。金もなく、コネもなく。身一つで他国に来た彼女に、たった一人、唯一、親身になって受け応えたのだ。自然な成り行きであった。
彼女らの仲睦まじい二人の穏やかな姿に、王は、ひどく感心した。
「妻は、その美貌によって、夫に仕えるものだ。となるならば、嫉妬することは当然なことだ。ところが、鄭褏は、私が新入りの女を気に入っていると知っているにもかかわらず、嫉妬せずに、なんと私以上にかわいがっているではないか。これこそ、人のあるべき姿であり、真なる忠臣の姿である」
と、絶賛した。
それを聞いた鄭褏夫人は扇子で口元を隠した。
ふふ。
思惑通り。
あの愚鈍な王は、何もご存知でない。
後日。大金と絶大な権力を維持したい夫人は、新しく入ってきた若く純粋な女性に、そっと耳打ちした。
「王は、あなたの美しさを愛でております。すばらしいことですわ。それが続くように、私も願っております。けれども、そうですね。少し、言いにくいのですけれど……」
「どうなさいました?」
この女性。
後宮内では敵ばかりで、心が休まるところなどほとんどない。だからこそ、いつもよく面倒を見てもらっていることを感謝しているために、たとえなんという批判であっても、真摯に受け止めようと、真剣に耳を傾けた。
「どのようなことでも、言っていただけたら嬉しいです」
「そうですか……。では、あなたのことを想って言います。確かに、あなたはお美しいです。けれど、王は、あなたのお鼻がおきらいなのです」
それぐらいなら、と身構えていた彼女はほっとした。
すわ後宮内での揉め事かと、戦々恐々としていたのである。
「ご忠告、ありがとうございます。では、どうしましょうか?」
「お鼻をお隠しになられたらどうかしら。たとえば、その煌びやかな袖で、覆うとか」
なるほど、と彼女は素直に言うことを聞いた。
どんなときでも、王の前では、鼻を隠すようにしたのだ。
しかし王は困惑した。
「鄭褏よ。一体どうして、あの新参の女は私に目通りするとき、鼻を隠すのだろうか。仲の良いそなたなら知っておるであろう」
「ええ。知っています」
だが、夫人は次の言葉を躊躇った。
疑問に思った王は優しく促した。
「どのような理由であろうと、申してみよ」
では、と夫人は意を決した様子で言った。
「君王のにおいをクサイと嫌がっているのです」
「なんとけしからぬヤツだ! 鼻切りの刑を科す。問答無用で叩き斬れッ!」
激昂した王により、無残にも鼻をそぎ落とされた彼女は、首を吊って自殺した。
鄭褏夫人は敵を騙して排除しただけでなく、見事に自身の評価をも上げたのである。