1.僕は彼女に出会う
ある日のこと。
僕は教科書を忘れた。現代文の教科書だ。
前回の授業で教科書の新しい小説を読み始めたばかりだったから、今回だけ都合よく使わないということはないだろう。
となると。僕は他のクラスの友人とか友達とか親友とか呼べる気の置けない人にそれを借りるべきなのだろうが、残念なことながらというかなんというか、僕とそんな関係を結んでくれている人はいなかった。
考えた結果に僕が導き出した答えは「隣の子に見せてもらう」だった。
僕の席は一番後ろの列、窓際の席の隣――かなりいいポジションだと個人的には思っている――で僕の席より快適な隣席の主は一人の女の子。
名前は知らない。顔も知らない。特別目立たない子だったと思う。僕の記憶なんてあてにならないことは確かだけれど、確かそうだったと思う。
ちらりと横を見てみると、その子は窓かカーテンか窓の外を眺めていた。秋の空は綺麗だみたいなことを誰かが言っていたっけ。
もちろんのことながら、位置関係的に僕にその顔は見えない。ただ、僕の美的感覚が一般的だとするならば、彼女の後ろ姿は美人だったと言える。
濡れ羽色の髪とでも言うのだろうか。真っ黒で艶のある長い髪だ。
その子は頬杖をついて、僕から顔を背けたまま固まっている。机の上には前の授業だった数学の教科書も筆箱も、僕が求める現代文の教科書すら出ていない。
問題は、今彼女に話しかけるべきかどうかということだ。
もし僕が彼女なら、黄昏ているときに見知らぬ男から話しかけられれば、間違いなく鬱陶しいと思う。そして、教科書をポンとそいつに向かって投げ捨て、「あげるから話しかけてこないで」という。間違いない。
あぁ、そうか。
つまり今話しかければ、僕は教科書をもらえるんじゃないか?
などという下らない、論理性の欠片もない考えを持ってはいなかったけれど、何故か僕は彼女に声を掛けていた。
「ねぇ、君」
無反応。
僕の声が聞こえていない。もしくは自分が呼ばれたと思っていない。または全てをわかったうえで無視を決め込んでいる。
三択かな。
ここからどうするかというのは僕の精神力によって変わるのではないだろうか。少なくとも、僕の軟弱なメンタルではすぐにもう一度彼女に話しかけるということが出来なかった。
弱ったな。
僕がそう思った瞬間、声が聞こえた。
「空が何で青いか、知ってる?」
あまりに唐突なことだった。だからそれが彼女の言葉で、それが僕に対して言われた言葉だと気づくのに時間がかかってしまった。
僕からの返答がないことに、少なからずの苛立ちでも感じたのだろうか。彼女はゆっくりと振り返って、僕をその黒曜石のような真っ黒な瞳で見た。
それは彼女にとってはただの確認作業だ。自分に話しかけ、自分が問いを与えた人間が誰なのかという。そこには怒りも悲しみも興味もなかった。
きっと。彼女は誰でもよかったのだろう。
僕はとっさになけなしの理系知識を振りかざして、彼女の問いに答えようとした。
「えー太陽の光が――」
「――あぁ、もういいわ」
すると彼女はうんざりした様子で目を瞑り、パタパタと力の入っていない右手を振った。
そしてまた僕に背を向けて訥々と話始める。
「光の錯乱がどうのなんて言葉で説明した気になっている人の気がしれないわ。それで納得したつもりの人の気もね」
「じゃあ君は何て説明する? 空は何で青い?」
僕の好意を無駄にしてくれた彼女に、意地悪のつもりでそう言い返すと、彼女は薄い唇を上に押し上げた。僕には見えていなかったけれど、多分そうだ。
「そもそも空は本当に青いの? 青空とか言うけれど、それは正しいの? 私には黒く見えるわ」
「目の病気かい? それとも頭?」
「どっちもだといいわね。裏の裏は表よ」
そう言って彼女はやっとこちらに身体を向けたかと思うと、そのまま席を立った。
身長はそんなに高くはないようだ。一般的な女子高校生くらいだろう。彼女の髪は思った以上に長くて、毛先が椅子についていた。
「私が正しくて貴方たちが間違っているっていうことも考えられるわよ?」
彼女の顔は少し、ほんの少しだけニヤついていた。
その顔で座ったままの僕を見下ろしている。
「それは他人だけでなく、自分さえも盲目的に信じてはいけないっていう教訓かな?」
僕は彼女の言葉の意味をそう理解した。きっと彼女はこういうことを言いたかったのだろうと。
すると彼女は口に手を当てたまま上品にクスリと笑って、僕の背後に移動した。僕は視線を彼女に合わせて移動させていたため、座ったまま顔を上にあげた随分とおかしな恰好になってしまう。首が痛い。
「――いいえ、ただの悪ふざけよ」
彼女はその言葉を残して、颯爽と教室を後にした。話は終わりだとでも言わんばかりの態度だ。「勝手な人だ」という評価を彼女に下した僕は間違っていないと思う。
彼女が去った瞬間。チャイムの音がした。次の授業が始まる。
現代文の授業だ。
僕は教科書を持たないまま、授業を受けるはめになったが、右隣の席の子が教科書をみせてくれたため何とか乗り切ることが出来た。
彼には感謝しきれない。
その日、彼女は帰ってこなかった。
それからというもの、彼女はよく僕に話しかけてくるようになった。その話は彼女の思いつきで始まって、彼女の気分で終わる。そこに僕の意思が介在する余地はなくて、彼女にとって僕はお人形遊びのお人形のような存在だったに違いない。
彼女の話は「結局のところ何が言いたいのか」と疑問を抱くようなものばかりで、そこに深い意味を見出そうとする僕は愚かだったと思う。きっと彼女はそれを見るのが一つの楽しみだったのだろうけど。
彼女と僕の席が隣同士だったのは、当然のことながら一定の期間内のことだ。少しすると席替えというイベントが起こって、僕と彼女の席は離れた。都合のいい物語なら、きっと彼女と僕の席はずっと隣同士なのだろうけれど、確率を計算してみればわかる通り、そんなことにはならなかった。
離れ離れになってみると、彼女と会話をすることはなくなった。わざわざどちらかが席を立って話をしに行ったりするなんてことはなかった。
そのことについて、僕は別段どうとは思わなかった。彼女との会話は楽しかったのかどうかを考えたことがなかった。空気や水のようになくてはならないものでは、当然のことながら、ない。
それに随分と馬鹿にされていたようなので僕としては少なくとも愉快ではなかった。かといって、別に不愉快でもなかったけれど。
対して。彼女はどう思っているのかはわからない。彼女のことだから僕と同じように何とも思っていないのかもしれないし、すごく悲しんでくれているかもしれない。
あー。うん。きっと、それはないかな。
まぁ、何にせよ。彼女がどう思っていようとも、僕が彼女と話をすることはなくなったという事実はかわらないわけで。僕はまた彼女という存在が僕の前に出現する前の、ありきたり楽しい日常に身を置いていた。
それで、僕らが高校に入学して早八ヶ月が経った頃の話。僕はいつも通りに学校に行き、いつも通りに自席に腰を下ろし、いつも通りに授業を受けていた。他の皆も同じような感じだったと思う。ただ、彼女がどうだったかは覚えていない。
というか。特定の個人の行動なんて相当インパクトがあることくらいしか覚えていない。
ともあれ。僕と彼らは、僕視点で見たところは、至って普通の高校生活を満喫していたと言っていいだろう。
で。「その時」になった。その時も確か、そう、現代文の時間だった。
急に。世界は変わった。
僕がいたのは冷たい石の壁で囲まれた大きな部屋だった。壁には等間隔に青い光を灯したランタンのようなものがいくつも掛かっている。そのせいか石の壁も青く見えた。
上を見上げてみれば、天井が見えないくらいに高い。真っ黒だ。下はいわゆる石畳というやつだろう。規則的に正方形のタイルが並んでいる。
「ど、どこだよここ!!」
ここにいるのは僕だけではない。広い部屋には僕の学校の制服を着た子供たちがいる。皆はほぼ同じ瞬間に目を覚ましたようだ。その後、数秒は静かだった空間に誰か一人の男子生徒の大声が響いた。
「何が起きたの!?」
「俺たち皆、教室にいたはずだろ!?」
その声を皮切りに、混乱が起こった。明らかな異常を感じ、大声を上げる者もいれば、泣き出す者さえいる。
僕は辺りを見回して、彼らのことを見ていたけれど、冷静な様子を見せていたのは一人だけだった。
――彼女だ。
彼女だけが彼らの中で、まるで黒い背景の中の白い点のように、浮いていた。真っ黒な髪を振り乱したり、真っ白な顔を青く染めたりしていない、あるがままの彼女だ。
彼女はぼうと突っ立ったまま、彼らを興味深そうに観察している。
僕も彼女を見習って、冷静でいることに決めた。まずは状況の確認だろうと思って、再び辺りを見回してみた。
騒ぐ男子生徒。泣き崩れる女生徒。彼女。壁。ランタン。石畳。見えない天井。
さっきと何の変化もなかった。あるとすれば、クラスメイトたち(だと思う)の立ち位置とか表情とかその程度の違いだろう。
一体ここはどこなんだろうか。
彼らはそんな疑問を持っているのだろう。
ちらりと彼女を見る。もし彼女にそれを聞いてみれば、一体なんて返ってくるのだろうか。少し興味が湧いた。
「快適なところでしょう? ここ私の部屋なの」とか「何を言っているの? ここは教室よ?」とか「天国か地獄だと思うわ。どっちかはわからないけれど、どっちでも同じよね」とか、きっとそんな何が言いたいのかよくわからない言葉が返ってくるに違いない。
僕は彼女の元に行こうとした。行こうとした、というのは結局彼女のもとには行けなかったということだ。何か障害があったわけではないし、他の誰かに呼び止められたとかいうわけでもない。
僕が足を動かし始め、数歩歩いた時に、壁に穴が開いたのだ。
穴と言うのは語弊があるかもしれないが、僕はそれらを穴と呼ぶ以外、なけなしの語彙と相談したが見つからなかった。二つのランタンの間に一つの穴がぽっかり開いている。それが連続して石の壁にあった。
それに目に入れて、僕は足を止めた。穴はうっすらと青い。それはランタンのせいではない。穴そのものが青い。
穴の上にはこれまた青で数字が書かれている。というか浮かんでいるのだ。
1、2、3、4、5……と順に穴に番号が付けられている。
「おい……何だよ、あれ……」
「ゲームにあんなのあるよな……?」
「ワープゲート……みたいな?」
「は? あ、有り得ねぇだろ……」
「……何か番号ついてるぞ?」
穴に気付いたらしい人たちが口々に話し始める。あの穴が何かはわからない。だが、この状況であれの存在を無視することは出来ないだろう。
「あの穴、最後の番号が40だ」
「……最初は1、ね」
全ての穴を見てみれば、確かに一番大きい番号は40、小さいのは1だった。となると。あの番号が意味することは一つだろう。
「出席番号」
誰かが呟いた。
偶然ではなく、僕と同じ答えだ。何故ならその誰かとは僕だったから。
僕以外にも結構な数の人が同じ結論にたどり着いたようだった。ただ、あの番号が出席番号であるとしても、あの穴は何なのだろうか。その疑問には答えが出ていない様子。
ワープゲートではないかいう意見を出した彼は、僕としてはなかなか慧眼だと思っている。そもそも壁にある穴という時点で、他のどこかの場所に繋がっていないとおかしくはないだろうか。どこにも繋がっていなければ、壁にぶつかることになってしまうのだし。
冷静さを取り戻したクラスメイトたち数人はあの穴について議論を交わしていた。決定的な答えは出ていないようだが、何にせよ出席番号と穴に関係性があるのだという予測がある以上、どういう結論に行きつくかはわかっていた。
「……入ってみる?」
一人の女生徒がそう言った。
誰かが自分の出席番号の穴に入ってみる。
誰でもそう思いつく。話し合いを進める彼らは落ち着いてきた生徒たちを徐々に巻き込んで、話し合いの輪を広げていった。
僕は傍で聞き耳を立てていた。どうやら彼女もらしい。
「で、でもよ、危なくないか?」
「……だったらどうするんだ?」
「あの穴以外に何もないのよ?」
この部屋には出入口というものがない。
あるのは壁とどこに続くかわからない多数の穴のみ。
「お、お前行けよ」
「い、いやよ! あんたが行けばいいじゃない!! 男でしょ!!」
「ちょっと落ち着けよお前ら!!」
皆は尻込みをしていた。仕方のないことだとは思う。急に見ず知らずの場所に飛ばされて、不思議な穴に囲まれて、蛮勇を持つ続けることは難しいだろうから。
しかも僕らは今までずっと平和に、平穏に過ごしてきた高校生。漫画に出てくるような戦士でも、何でもないのだ。
けど。このままじゃあ埒が明かないな。
あの様子を見るに、誰かが穴に入るまでに結構な時間がかかりそう。ダラダラとここに残り続けるのは、よろしくない。
誰かが先陣を切る必要があるけれど、僕はキャラじゃないな。ここは誰か格好いいイケメン君に任せたい役だけど。
とは言っても、誰も行かないなら仕方ない。
そう思って自分の出席番号がうたれた穴に近づこうとしたとき、驚いたような声が耳を打った。
「お、おい! お前入るのかよ!?」
「だ、大丈夫!?」
その声のした方向に顔を向けてみれば、話し合いをしていた人たちが焦った様子である一点を見ている。僕もそれに倣って見てみれば、彼女が一つの穴の前に立っていた。
彼女は穴に向かい合っているため、その表情を窺い知ることは出来ない。自身にかけられた声をいつかの時のように無視している。
「は、入る前にもうちょっとここ調べようぜ。な?」
ちょっと前は「誰か入れよ」とか言っていたのに、何を心配しているのだろうか。なんだかんだ言って、足並みを揃えないと嫌なのだろうか。
それとも残された自分たちに何かあるかもとでも思っているのかも。
「大丈夫よ」
最初に彼女に声がかけられてから三分後。だんまりを決め込んでいた彼女が返答を返した。くるり、と振り向いて、その黒い瞳を群集に向ける。
「ことわざでも言うでしょう? 穴があったら入りたいって」
そう言い残して、彼女は後ろに跳んだ。
そしてそのまま、穴の中へ消えていってしまったのだった。