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鏡よ鏡の私の呪い  作者: 大橋狭間
嘘つきと、狼少女と、
8/21

第七話:七月八日の花菜とお姉さん

「明日香が死んで、もう虐められなくなるとでも思ってた?」

 彼女が亡くなってしばらくすると、彼女の死を嘆いていた生徒も落ち着きを取り戻し、またいつものような学校生活が再開した。

 そう、いつものように、わたしが後ろ指を指される学校生活が。

 明日葉明日香がいなくなったら、次に、彼女の取り巻きだった女子生徒が嫌がらせをしてきた。そうすることで、クラスの中心に成り替われるとでも思ったのかもしれない。

「私は明日香みたいに優しくはないから」

 目の前の彼女は私の前髪を引っ張り、そしてそのまま体を廊下の壁に押し付けた。

 あーあ、わたしのオシャレなショートボブが台無しじゃないか。

 五分くらい言いたいことを言わせれば、満足してどこかへ行くかもしれない。

 わたしはあくびを噛み殺しながら、彼女たちの言葉に耳を傾ける。

「変なカオしちゃってさ」

 わたしの――骨折した足とは反対の足――左足を踏みつけながら、その子は話しかけた。

 先月に続き、今月もまたわたしの骨を折ろうというのだろうか?

 左手で杖を握りしめていると、

「何とか言ったらどうなの?」

 そう言って、彼女はわたしの持っていた杖を蹴り払った。

 不意に杖を失った私は、廊下の床へと崩れ落ちる。

 骨折していた左足は咄嗟に庇ったため、叫び声を上げるほどのことではない。

 夏場でも、床は案外冷たいんだなあ。

 彼女たちのことなんてお構いなしで、床に突っ伏していると、

「死んだふりしてんじゃねーよ」

 彼女はわたしの脇腹を蹴り上げた。

 やはり、いじめの仕方にも、人それぞれ個性が出るんだな。

 明日葉明日香からされたことを思い返しながら、しみじみと考える。

 何の反応もすることなく、床に倒れこんでいると、

「もうこれくらいにしとかないとヤバくない?」

 わたしのことを心配したのか、取り巻きのうちの一人が、彼女にそう進言した。

「そうだね。ま、こんなんじゃあまだ遊び足りないけど、部活もあるし行こっか」

 まるで犬とじゃれていたかのように彼女は呟き、私の前からいなくなった。

 わたしは上体を起こし、杖を頼りに立ち上がる。

彼女はおそらく、わたしをいじめていると思っているだろう。

けれど、それは違う。

明日葉明日香がやっていたのは、他の生徒にだってできる程度のものだ。

しかし、さっきの子がやっているような暴行を、他の生徒に向けたとすればどうだろう?

他の生徒は耐えきれず、そのことはいずれ明るみに出る。

彼女の行動が大きな問題になることは明白だ。

 きっと、あの子も、たくさんのストレスを内に抱え込んでいるに違いない。

 そのことは充分察せられる。

つまり、彼女がしているのは『いじめ』ではなく、『依存』。

彼女の存在は、わたしによって生かされていると言っても過言ではない。

『いじめられている』のではなく、『いじめさせてあげている』のだ。

だからわたしは悔しくも恨めしくもない。

悲しくないのだから、悲しくないのだ。

やれやれ。

わたしはため息をつき、セーラー服についている埃を払った。



 隠されていた教科書を見つけ終わると、時刻はもう五時を過ぎていた。

 空にはもう、綺麗な夕焼けの色が広がってるだろうか。

 そんなことを思いながら、わたしは杖を片手に校舎を出た。

目的地は、駅の向こう側にある公園だ。

わたしの中学の近くにある西剣ヶ峰(ニシツルギガミネ)という駅は、丁度この前改装工事を終えたばかりの大きな駅だ。南側の人通りは激しいけれど、反対に北側は閑散としている。

今わたしが向かっている公園は、まさにその駅の北側――閑散としたサイドにあった。

 駅に向かうほど周りの賑わいは増していく。

聞いた話によれば、わたしが生まれる前はここまでの賑わいはなく、今とは反対に背の低い建物群が立ち並ぶだけだったらしい。

数年前の宅地開発で、この辺にあった古い建物は一掃され、全て新しくなったそうだ。

そのため、この駅の周りには、建設中のビルなんかも幾つかある。

賑やかな空気が濃くなれば濃くなるほど、数刻前、わたしの身に起きたことを想起させた。

 今まで――明日葉明日香が生きていた時は、わたしに暴力的な嫌がらせをしてきたためしはなかった。物を隠しはしても、捨てるようなことはしない。どの嫌がらせも、わたしが告発できないようなギリギリのラインを見極めた上でのものだった。

 だから、教科書を隠す際はいつも「私がただ落としただけ」と言い張れるような、目につきやすいところに隠されていた。でも、今は違う。

教科書探しが一筋縄に行かず、こんな時間までかかったのはそのせいだ。

前までなら、大抵が落とし物として職員室に届けられていたのだが……。

 結局、わたしの探す教科書は図書館にあった訳だけれど、そこに辿り着くまでは短くない時間がかかった。

 はあ。

と、少し嘆息。

 心優しい二年生の先輩が教えてくれたから助かったけれど、もしその人がいなければ、私は今もまだ校舎内を彷徨っていたことだろう。

 何て名前だったかな? 確か、生徒会に入ってる人だった。

 少し考えてみるが、思い出せない。

 まあ、別にいいや。覚えてないならしょうがないし。

 左手の杖を強く握る。

 例え何が隠されようと、この杖を隠されるよりはマシだ。だから、陽が暮れたくらいじゃあ文句は言わない。むしろ、そのお陰で、学校のことを更に詳しくなれたと考えれば、悪いことばかりでもない。

 やっぱりわたしは幸せじゃないか。

 左手にある杖をもう一度強く握りしめる。

 そして、

かつ。

と、少しだけ強く地面を打った。


 わたしがその一歩を踏み出したのは、そんなことを考えていた時だった。

 カンカンカンカン――

 警報機の小高い無機質な音は、前と後ろの両側から聞こえた。

 どうして気付かなかった?

 必死に考えを巡らせる。

 考え事に夢中で、踏切が下がる音を聞き逃していたのだろうか?

 いや、原因解明なんて後にしよう。そんなことを思案している場合じゃあない。

 早く向こう側に行かなくちゃ。

 こういう時こそ落ち着かなければいけない。

 そんなことは分かっているはずなのに、

 理性とは裏腹に、わたしは焦燥に身を任せ駆け出していた。

 右側からは、ガタンガタンという、線路を揺らす音が迫ってきている。

 早く遮断機を潜り抜けなくちゃ。

 その一心で私は体を動かした。

 そして、全身の鈍い痛みとともに、躓いてしまったことを理解した。

 当然、まだ向こう側には辿り着いていない。

 線路を揺らす音は、どんどんと近づいてる。

 立ち上がろうとするが、

杖は手の届かないところまで転がってしまったようで、

 次第に大きくなっていく音にわたしは、

 半分諦めてしまっていた。

 駄目だ。

 踏切の向こう側へは辿りつけない。

 わたしは死んでしまうのだろうか?

 こんなことで?

 こんなところで?


「そんなところで何をやってる?」


 緊張感のない声とともに、わたしの右手はぐい、と引き上げられた。

 けれども、わたしは何が起こったのか分からなくて、思わず目をぱちくりさせていたら、後ろで電車の通り過ぎる音が聞こえた。

「踏切の上は寝心地よかった? そりゃあもう、永い間眠ってられるだろうけどさあ」

 わたしの手を握る誰かは、気の抜けた声で私に問いかけて、

「ぷぷぷ」

 と楽しそうに笑った。

 わたしはびっくりした気持ちのまま、彼女の声が聞こえた方を見上げる。

 助かった……のかな?

 違う。

 助けられたんだ。

 誰かに助けられるだなんて思っていなかったわたしは、あまりのことに、何と返すべきか決めかねていた。

 わたしよりも身長は高いみたいだ。年上だろうか?

 まあ、年上と言っても声は若い。さすがに社会人ではないだろう。

 風に揺られ、彼女の長い髪がわたしの鼻をくすぐった。

 結局分かったことと言えば、彼女が身長の高い長髪の女性だということと、

少しおどけた性格だということだけだった。

 頭の中で情報を整理していると、もう一つだけ読み取れる情報があったことに気付く。

 微かにだが、この人からは血のにおいがしたのだ。

 私を助けた時にどこか怪我をしたのだろうか? けど、彼女はただ私の手を引っ張ってくれただけ。なら、どこを怪我するというのだろうか。

「あ、あの――」

 何よりもまずお礼を言わなきゃなと思い口を開いたが、再び遮断機の音が聞こえ始めたために、わたしの言葉は彼女から制止された。

「とりあえず、場所を移そう。このままじゃあ、地面との間に挟まれちゃうからね」

 彼女は握ったままの手を引き、そこわたしを連れ出す。

「挟まれて嬉しいのは、ハンバーガーのパティと美女のおっぱいだけだろう?」

 彼女はふざけながら、また楽しそうに笑った。

 何だろうこの人は。

「人生において、やっちゃいけないことが二つある。一つは、親より先に死ぬこと。もう一つは、空気を読まずに寒いギャグを連発することだ。こういう風にね」

 彼女はまた吹き出しながら、わたしの頭に手を置く。

 何だか少しおかしくなって、わたしも吹き出すと、

「ああ、やっと笑ってくれたね。よかった」

 笑うわたしを見て安心したのか、小さくため息をつき、

「じゃなきゃあ、『釣り合い』が取れないからね」

 と言った。

 『釣り合い』?

 何のことだろう。

「まあ、気を付けるこった。人が死ねるのは、一度だけなんだから」

 くしゃりと撫でられる髪の毛。

 人から撫でられるなんて、いつぶりだろうか。

 きっと、わたしがもっと小さかった頃――父がいた頃以来だろう。

 けど、別に嬉しいってわけじゃあない。

 そもそも、頭を撫でるくらい自分でもできるし、頭を撫でたからって、転んでできた傷が治るわけでもないのだ。

知らない人から撫でられて、嬉しいわけがないのだから、わたしは嬉しくない。

わたしがそう思うのは、別に不自然なことではないのだ。

「じゃあ、気を付けて帰りなよ」

 そんな言葉とともに彼女の足音が遠ざかる。

「あ、あの……」

 わたしは彼女の腕を掴む。

「痛たた。何なのもう」

 露骨にテンションを下げながら、彼女が応えた。

 別に、そこまで強く掴んだわけでもないのにな。

 ともかく――

「ありがとうございます」

「いいよ別に」

 彼女はぶっきらぼうに言った後、何かを思い出したかのように、わたしの肩を叩いた。

「ところで、確かさっき、杖持ってたよね?」

 わたしは頷く。

 彼女が帰ってしまったら、杖を無くしたわたしは帰れなくなってしまう。

「じゃあ、別れる前にその杖を探してあげるよ。ちょっと待ってて」

 そう言うと、彼女は小走りで離れていった。

 どうして彼女は見ず知らずのわたしにここまで親切をしてくれるのだろう?

 中学に入って以来、誰かから親切にされることなんてあったろうか?

 いや、無かったハズだ。

 隠された教科書を一緒に探してくれた生徒会の人といい、彼女といい、今日はやけに人から助けられる。きっと、何か裏があるに違いないんだ。嬉しいと言うよりも逆に怖い。

 怖いんだ。

 下心のある思いやりに触れて喜ぶ人なんていない。

だから、わたしは喜んでなんかいないのだ。

喜んでないのだから、喜んでいない。

わたしがそう感じることは、何もおかしくない。

「お待たせ」

 戻ってきた彼女は、再びわたしの頭に手を乗せた。

「残念ながら、杖は轢かれちゃったみたいなんだ、さっき電車が通った時にね」

 さっきと同じように、わたしの頭はくしゃくしゃと撫でられる。

「けど、しょうがないよ。別れはいつだって突然さ。いつ突きつけられるか分からないのが、人の死と離婚届。その身代わりになってくれたと思って、納得するんだ」

「わ、わたしのエリザベスが――!」

「おいおい、名前つけてたのか。かわいいな」

 半分驚きながら、そして半分呆れながら、彼女は返した。

 まあ、壊れてしまったものは仕方がないだろう。

 たとえ、杖に愛着が湧いてようとも、物が壊れるのは当然のことなのだから。

 それが今だった――ただのそれだけに過ぎない。

 客観的に考えて、物が壊れれば新しいものに買い直せばいいだけなのだ。

 だから、悲しいわけがない。

 にしても、この後どうやって帰ろう。一応電話をすれば迎えに来てくれるだろうけど、それはできるだけ避けたい。

「仕方がない。家までおぶってあげよう。ほら」

 彼女はそう言って、自分の背中にわたしをもたれかけさせる。

 杖が無くちゃロクに歩けもしないため、ここはありがたく好意に甘えよう。

 わたしはしゃがむ彼女の両肩に腕を回した。

「家はどっちだい?」

 彼女はわたしの両足を抱え、立ち上がる。

「えっと……」

 家に帰りたくない人なんて、そうそういない。

その例に漏れず、当然わたしも家に帰りたいのだけれど、今はどちらかと言うと公園に行きたい気分である。公園で遊んでいる子どもたちの声を聞くと、元気が出るタイプの人間なのだ。

 そういう性格の人ならば、公園に行きたいと思うのが普通に決まっている。

「公園まで送ってもらってもいいですか?」

「そこからの帰りはどうするんだい?」

「それは……」

 何も考えてないけど、わたしにとってまだ家に帰る時間ではない。

せめて、日が落ちるまでは公園に居たいのだ。

 わたしが何と答えるか決めあぐねていると、

「仕方がない。今日一日――家に帰るまで付き合ってあげるよ」

 そう言って彼女は歩き始めた。

「この辺の地理にはあまり詳しくないんだ。だから、公園まで道案内してくれないか?」

「えっと、公園は駅の西側にあって――」

 説明すると、彼女はわたしをおぶったまま、公園まで連れて行ってくれた。



 公園に着き、彼女はわたしをベンチに降ろす。

 そこは、都心近郊であるにもかかわらず、ちょっと大きな公園で、普段から近所の子どもたちで賑わっている。ただ、今日は暑かったからか、子どもが遊ぶ元気な声なんて全く聞こえないけれど。

 ともかく、ここがわたしのお気に入りスポットだった。

 いつも座るベンチは、傍らで繁る木々のお陰か、夏なのに暑さを感じさせない。

 現に今も、風に揺られ、涼しそうな音を奏でている。

これだけでも充分、暑さを忘れさせてくれるだろう。

 にしても、どうして彼女は初対面の人にここまで親切ができるのだろうか。

中学生とはいえ、おぶって移動するのはそこまで楽なことじゃあない。ましてや、彼女は女性だ。いくらあの場所――駅から公園までの距離が近くとも、きっと相当疲れたことだろう。

 自己犠牲の精神は褒められるべきことかもしれないが、それにも限度って言うものがあるハズだ。無私な態度で他人に接したとしても、相手が申し訳なく感じるだけである。

 つまり、それに倣って、わたしが罪悪感を抱いてしまうのも無理はない。

「ときに、どうして公園に行きたかったんだい?」

 朗らかな声色だ。

 丁度、心の中で彼女を批判しているタイミングで話しかけるだなんて、わたしに罪悪感を植え付け、馬車馬のようにこき使っていることを後悔させる策略だろう。

 なんて人なんだ。こんな人に対して好意を持つことは間違っている。たとえ、命を助けられようとも、それがその人の素晴らしさを保証するものではないのだ。

そんな悪い人を好きになるなんてありえない。

 一般的に見て、わたしが彼女のことを好きになることは間違っている。

 だから、わたしは彼女を好きになってはならない。

 それは間違っているから、間違っているのだ。

「公園が好きだから、公園に来たかっただけですよ」

 わたしはぼんやりと上を見上げながらに答えた。

「本当に?」

 わたしの顔の傍までグイと近づき訊ねる。

 彼女が頭を揺らす度、長い髪がわたしの首をくすぐった。

「本当に」

「嘘じゃなくて?」

「嘘じゃなくて」

 すると、彼女は少し黙ってから。

「そっか」

 とだけ呟いた。

 うん?

 どこに引っかかるところがあったのだろう。

 公園に行きたいから公園に行きたい。

 わたしの感情は誰にも否定できないハズだ。

「じゃあいいかな?」

 彼女は優しくそう言ってから、

「私は嘘をついていないのに、お前が嘘をついたら、『釣り合い』が取れなくなるだろうが」

 わたしをベンチに押し倒した。

 何が何だか分からないまま呆然としているうちに、彼女の手がわたしの制服にかかる。

 彼女はいきなり何を?

 さっきまで何事もなく親切にしてくれたのに、一体何が気に触れたというのだろう。

 口調も変わって何だか怖い。

 嘘なんてついていないのに。

 わたしが嘘なんてつくはずないのに。

 あわあわと狼狽えていると、抵抗する間もなく、制服は脱がされてしまった。

「これからあなたを犯す」

 彼女はそう言って、わたしのへその周りを撫でた。

 急転直下過ぎて、わたしは何が何だか分からない。

「えっ? えっ? えっ?」

 命の恩人だから何してもいいってこと?

 いやいや、そんな道理は通らないよ。

「もちろん嘘さ。これで釣り合いが取れた」

 はあ?

 今一度考える。

 わたしはどうしてあの時助けられてしまったのだろうかと。

「そもそも、わたしは嘘なんてついてませんけども」

「また嘘をつくのかい? そんな体でよく言うね」

 彼女はそう言って、再びわたしのお腹を撫でた。

「打撲傷だ。太ももにもある。普通の家庭なら、こんな風になっている娘を放っておくかい?」

 彼女は同じようにわたしの太ももも撫でた。

 痛いような、くすぐったいような、不思議な感覚だ。

「つまりテメエは、公園なんて好きでも何でもない。家が嫌いなだけなんだ」

 違う。

 嘘なんかじゃない。

 わたしは嘘をつかない。だから、嘘じゃないのだ。

「違うよ」

「それは嘘だろう? あんたが嘘ついてばかりだと、自分が困るんだ」


 『バランス』が取れなくなるじゃないか。


 怒っているような、悲しいような、どっちつかずの声色だ、

「生きていくうえで大事なのは『バランス』さ」

 彼女はそう言って、わたしの額に一指し指をあてる。

「例えばそっちが笑ったら、こっちも笑う。こっちが泣いたら、そっちも泣く――そんな、『釣り合い』こそが大切なんだ。分かるかい? 情けは人の為ならず。人を助けたら、その人も誰かから助けられないと『バランス』が悪いだろう?」

 わたしの前髪は、彼女によって右と左に分けられた。

 これもきっと、彼女の言う『釣り合い』というものなのだろう。

「だから、嘘をついていない人間に対して嘘をつくのはやめるんだ。いいかい?」

 彼女の指がわたしの唇に触れる。

 きっと、傍から見れば、昼間からいかがわしいことに興じる女性カップルだろう。

 幸い、わたしたち以外誰の声も聞こえない。

 誰かが来る前に服を着せてもらえるといいけれど……。

 ごくり。

 唾を飲み込んだ。

「家が嫌いなんじゃないよ」

 わたしが言うと、

「理由は?」

 彼女が訊ねる。

「だって……、家は嫌いじゃないから」

「理由になってないだろう?」

 彼女は冷ややかに、両のほっぺたをつぶしてきた。

 ぐに、と。

「じゃあ、質問を変えるが、その傷はいじめによるものかい? それとも――」

 少し言い澱んでから、

「親からの虐待かな?」

 わたしに問い掛けた。

「いじめが原因だよ。けど、別にいいんだ。わたしは幸せだから」

「幸せ? そんなにも青痣を作って幸せ? そうは見えないけどね」

 わたしが殴られることであの子たちの精神衛生が保たれる。

 つまり、あの子たちはストレスの無い、幸せな学校生活を送れるんだ。

 人を幸せにすることができる。

 世間一般から見て、人を幸せにすることは尊ばれることで、褒められるべきこと。

 ならば、わたしがいじめられるということも、素晴らしいことなのだろう。

 素晴らしいことができる。それは幸せなことである。

 わたしは幸せだ。だから幸せだ。

「幸せだよ。だって、誰が虐げようと、わたしはわたしの存在を肯定してる。だから――」

「気付いていないのかい?」

 彼女はわたしの頬を撫でた。


「今、キミは泣いているんだよ?」


 そんなわけはない。

 悲しくないのに、泣く人なんていない。

 だから、わたしは――

「わたしの前で嘘をつくのはやめろって言ったろう?」

 彼女はまた、わたしの頭に手を置く。

「もう自分に嘘をつくな」

 そして、くしゃくしゃと頭が撫でられた。

 きっと、それが彼女の癖なのだろう。

「わたしは……」

 言葉を紡ぎ出そうとしたけれど、口から出てきたのは乾いた息だけ。

 そう。

 わたしは嘘なんてついていない。

 嘘をつくことは悪いことだ。

 貶しこそすれ、誰も褒めはしない。

 嘘を好んでつく人なんていない。

 だから、わたしは嘘をついていない。

 嘘をついていないのだから、嘘をついていないのだ。

 それはつまり、

わたしは幸福だってことは、嘘じゃあないって意味なのだ。

 幸福だから、幸福だ。

だから、わたしは――


「これほど自分の運命を呪ったことはない」


 そう言った。

「へえ」

 彼女はどこか嬉しそうに呟いて、

「キミも、なんだね」

 と応える。

「さしずめお前は、真実と虚実があべこべになってしまう呪い――ってところか」

 わたしは黙ったままに、そっぽを向いた。

 呪いなんかじゃないよ。

 これはただの、悪癖だ。

「まるで、鏡に映ったみたいに嘘と本当が逆さだ」

 彼女はまた、

ぷぷぷ。

 と笑ってわたしの上から退いた。

「面倒くさいヤツ」

 わたしの元に脱がされた制服が投げられる。

 訊くだけ訊いておいて、そんなこと言われるのは癪だ。

 わたしは上体を起こし、制服に腕を通す。

「けど、私はそういう面倒くさいヤツのこと、嫌いじゃあないよ」

 ベンチが揺れる。

 わたしの隣に彼女が腰を下ろしたのだ。

「そうだね。だって、あなたみたいな面倒くさい人と一緒にいるのは、わたしみたいな面倒くさい人じゃあないと『釣り合い』が取れないからね」

「ぷぷぷ、言うじゃあないか」

 彼女はわたしの頭に手を置く。

 知らない人から撫でられたって嬉しくないのに――

 知らない人から優しくされても嬉しくないのに――

 わたしは大きく息を吐いた。

 動けない少女を公園に連れ込み、服を剥いで泣かせるだなんて、相当の悪人だ。

 撫でられ、優しくされた程度で、彼女の悪事を許せるだろうか?

 いや、許せるわけがない。

 客観的に見て、今この状況、わたしが幸せであることはあり得ないのだ。

 そう。

 わたしは不幸である。

 不幸なのだから、不幸なのだ。

「ねえ、お姉さん」

「どうしたんだい、生意気娘」

 楽し気に笑いながら、お姉さんはわたしの頭を撫でた。

 くしゃくしゃと。

「名前教えてよ」

「嫌だね」

「恩人の名前を知っておきたいってのは、世間一般の意見だと思うけど?」

「じゃあ、テメエの意見はどうなんだい?」

「それはもちろん、あなたみたいな悪人の名前に、全くと言っていいほど興味が無いからだよ」

 ――と喋り終わる前に、お姉さんはわたしの頭を小突いた。

「言ってくれるねえ。けど駄目だ。自分の名前は教えられない」

 うーん。

 どうしてそこまで嫌がるのだろうか。ただ、名前を訊きたいだけなのに。

 けれど、わたしにだって考えがある。

「わたしの名前は若草花菜(ハナナ)

「へえ、だから何だい?」

 お姉さんは、わたしを試すような口調で訊き返す。

「ここでお姉さんが自己紹介をしなかったら、『釣り合い』が取れないんじゃあないのかな?」

「面白いねえ」

 お姉さんはそう言って、

 ぷぷぷ。

 と笑った。

「いいかい? 一度しか言わないから、よーく聞くんだ。けど、メモは取っちゃ駄目だよ?」

 じゃり。

 お姉さんはベンチから飛び上がり、砂の音をさせ、地面へと着地する。

「私の名前は(カケ)(ガエ)(イクサ)。すぐに忘れてくれて構わない」

戦さん、か。

「今日は色々付き合ってくれたけど、全部お節介でしかなかったよ、戦さん」

「本当に面倒な子だねえ。不器用なお礼の言葉だと受け取っておくよ」

 お姉さんはわざとらしく、大きなため息をついた。

 わたしの性格も大概だけど、彼女の性格も大概だと思う。

 まったく困ったものだ。

「さてと」

 ぱたぱたと、服に付いた埃を払い、

「キミには酷なことかもしれないが、そろそろ帰る時間だ」

 わたしの手を握った。

「家までおぶって行くよ」

 まだ公園にいたかったけれど、こうやってつきあってくれているのは彼女の善意だ。

 流石に、これ以上迷惑をかけることはできない。

「うん」

 わたしは彼女の肩に両腕を回す。

「じゃあ、しっかり道案内してくれよ」

 お姉さんはわたしの足をしっかりと抱え、家へと歩き始めた。


 お姉さんは最初と同じ調子で冗談を言いながら、弱音を吐くことなく送ってくれた。

 家に着いた時、時刻は七時になろうとしていて、少し寒かったことを覚えている。

 お姉さんは門の前で降ろしてくれて、別れる前に住んでる場所について訊きたかったのだけれど、いつの間にかいなくなってしまっていて……。

 仕方なくインターホンを押すと、『彼女』いつものように出迎えてくれた。

「どうしたの? 膝がすりむけてるじゃない! 転んだりしたの? ほら、花菜のかわいい足に傷痕が残ったりしたら大変だわ。今すぐ消毒液持ってくるからじっとしていてね? 女の子はそういうところまで、ちゃあんと気をつけないといけないんだから、転んだりしちゃダメよ? やっぱり、花菜を一人で学校に行かせるのは危ないことだったんだわ。あなたは、お母さんがいないと何にもできないんだからね。ああ、でも、怪我をしたのが顔じゃあなくてよかったわ。顔にできた傷はなかなか治らないから。私のかわいい花菜の顔に、一生残る傷ができたら、お母さん気がどうにかなっちゃうもの。だから、怪我をしたのが顔じゃあなくて本当に良かった。不幸中の幸いだわ。母さんね、元々花菜が一人で学校に行くなんて反対だったの。だって、ここなら転ぶような物は何もない。段差だってちゃんと取り払ってもらったし、床には何も置かないように気をつけてる。花菜が怪我しないよう、家中のものは全部捨てたのよ? 花菜のために。それに、ここなら母さんがいるからね? 花菜は一人じゃあ何もできないけれど、ここなら母さんがずっと見ていられる。何も言わなくても、花菜のことは母さん全部分かってるんだから。だから、花菜は何も難しいこと考えなくていいのよ?」

 その騒音をやり過ごして、洗面台に向かって歩く。

 家の中の短い距離ならば、杖なんてなくても移動くらいはできる。

 わたしは、手を洗った後はすぐさま自分の部屋に籠った。

 こんなにも娘のことを心配してくれる母親は、世間一般では素晴らしい母親なのだ。

 そう、『彼女』が言っていた。

 なのだから、わたしはとても幸せな家庭に生まれ育っているということである。

 ああ、わたしはなんて幸福なのだろう。

 こんな家庭に生まれたことを、わたしは心より祝福したい。

 そんなことを考えながら、一人ベッドの上で笑う。

「ぷぷぷ」

 目をつぶり、今日あったことを思い返していると、

いつの間にかわたしは眠ってしまっていた。


結局、最後まで、彼女から仄かに感じる血の匂いについて質問することはなかった。

 この時、失礼にあたったとしても、わたしは彼女に訊いたほうがよかったのだろうか?

 どうして血のにおいがするのか、と。


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