第三話:七月十二日の白乃と烏帽子
一時間目が終わり、私は廊下で次の授業――美術の準備をしているところだった。
美術は選択科目の一つで、緋色と朱々は別の授業を取っているため、少しの間お別れだ。
ロッカーから絵筆と絵具を取り出し、準備は完了。
あとは、あの子の準備ができれば……、
「お待たせだな、しろのん!」
女の子にしては低い彼女の声は、落ち着いた印象と共に安心感を与えてくれる。
振り向くと、そこには絵筆をビシと構え、吊り上がった大きな目で私を見つめる女の子がいた。私が待つ――鴉羽烏帽子――その人だ。服装は学校指定のブレザー。夏服なので当然半袖だ。ポニーテールが風に揺れてかわいらしい。
ただ、それら全てを差し置いて存在感を放っているのが、工事現場などでよく目にする黄色いヘルメットだった。
「一応礼儀だと思うから訊いておくけれど、どうしてそんな恰好をしているの?」
「よくぞ訊いてくれた、しろのん! これは、もしもの時のため備えてるんだ」
烏帽子ちゃんはそう言って、勢いよく私に絵筆を突き付ける。
「芸術が、爆発した時のためにね!」
「はぁあ?」
あまりの間抜けさ加減に、素で返してしまう。
「国語力ゼロなの?」
いやいや、友人に何てこと言ってるんだ私は。
「でも、美術力は高そうだね」
キメ顔をしている烏帽子ちゃんに対し、私は笑いながら誤魔化した。
「冗談はともかく、ボクはもう準備万端だ。さあ、美術室へ急ごうか」
被っていたヘルメット外し、器用そうに人差し指でくるくると回す烏帽子ちゃん。
この子はたまに、冗談なのかどうか分からないことをするからなあ……。
私たちの住むマンションに来たときはパラシュートを担いできたし、
朱々たちと一緒に魚釣りへ行った時なんて、
「魚が釣れなかった時のために、スーパーで何匹か買ってきたよ!」
とか言っていた。
つまり彼女は、突き抜けた心配症なのだ。
常識が欠けているけども、悪い子ではない。
バレー部の次期部長と言われているだけあって、人望はあるみたいだからね(こんな非常識な子を部長に選ぶ部活がおかしいのかもしれないけれど)。
「烏帽子ちゃんの言う通りだね。とりあえず、美術室まで行こうか」
私と烏帽子ちゃんは、隣の校舎にある教室へと歩を進めた。
暑い日の移動教室なんて大概面倒なものだけれど、美術室へは渡り廊下を渡るだけで済むため幾分マシだ。それに、別館の三階にあるから風通しが良い。教室のこもった空気よりもずっと心地よいだろう。
「よいしょっと」
私は一番後ろの席に荷物を降ろす。
黒板から見て一番後ろの左端――私が左で烏帽子ちゃんが右――その二つの席が私たちの特等席だ。教卓からそれなりに離れているため、お喋りをするには打ってつけなのである。
「やっぱりこの席が一番だな」
烏帽子ちゃんも机の上に教科書と絵具セットを置き、にこにことしながら呟いた。
どうやら彼女も、今まさに、私と同じことを考えていたようだ。
「だよねだよね。先生の目とか気にする必要ないし、私もこの席が一番快適だと思うんだ」
「そうだな。ボクもここが一番だと思う。概ねしろのんに賛成だ。だが――」
烏帽子ちゃんは、その凛々しい目で私を見つめる――
誰も映っていないまっすぐな二つの目で、
「何より、ここからならば、いつ何時テロリストが入ってきても対応できる」
ファイティングポーズを取りながら。
「中学生男子の妄想かよ」
そんな事例は建国以来起こっていない。
「けど、もしかしたら、そういうことも起こるかもしれないもんね! 大切だと思う、烏帽子ちゃんのそういう気遣い。だから、もし、そういう事件が起こった時は、頼りにしてるね!」
そう取り繕うと、烏帽子ちゃんは嬉しそうに、
「ありがとう、しろのん。何があっても君を守るよ」
と、私の手を握りしめた。
ちょっと照れくさいんだけど……。
けど、私が口を滑らせ、取り繕ったことで彼女が喜んでくれたのなら良かったのかな?
つまり、私の選択は間違っていなかったということなのだから。
「テロリストからしろのんを守る……。ふふ、安心してくれ。そうなるような気がして――」
烏帽子ちゃんはそう言って、ブレザーを脱ぎ捨てた。
「今日は鉄板を装備してきたんだ!」
私の目の前で露わになっているのは、彼女の豊満な胸と、服の下になら仕込めそうな程度の金属のプレート。教室にいた他の女子生徒も、彼女の動向に唖然としている。
一体どうなるような気がしたんだ、烏帽子ちゃんは。
「何? その鉄板、装備すると賢さがゼロになる呪いでもかけられてるの?」
「しろのん、そんなことを言ってる場合じゃあない。ほら、授業が始まり、テロリストが来る前に、この鉄板をしろのんのまな板の上に――」
「わ、私の胸は別にまな板じゃないしっ!」
烏帽子ちゃんの言葉を受け、私は思わず自分の胸を両手で押さえる。
「例えまな板だったとしても純金製だしっ!」
急に胸のことをつつかれたからか、わけの分からないことを口走る自分。
それでいいのか私。
「そうだったな。しろのんの胸はまな板じゃなかったよ、ごめんね。ともかく、ボクはこの、まな板をしろのんの鉄板の上に――」
「逆だよ逆! いや、逆じゃないけれども! ともかく、それじゃあ、私に胸が無いってニュアンスが変わってないから!」
「そうだったな、しろのん。申し訳なかった。許してくれ。」
烏帽子ちゃんは反省した様子で私に頭を下げた。
「けど、この鉄板ならしろのんの胸板にピッタリ――」
「そっちの逆じゃないよ! 男女逆って言ってるんじゃないよ!」
私は烏帽子ちゃんに肩を揺すり、訴えかける。
「胸板じゃなくてまな板! いや、誰がまな板だよ!」
そうやって揺さぶられる度、ポニーテールと一緒に彼女の胸も揺れるが、私にとってそれは何の価値も持たない。何故なら、そんな脂肪があったところで夏場蒸れるし、肩は凝るし、下着のサイズ合わなくなって悩むことになるしで、何の得もしないからだ。
損ばかりじゃないか。
むしろ、一度も経験していない私は勝ち組なんじゃあないだろうか?
そうに違いない。
私はそんなことを考えながら、両頬を伝い落ちる一対の汗をぬぐった。
「まあ、その……何だろう」
烏帽子ちゃんは心苦しそうにしながら私の背中をさする。
「これでもあげるから元気を出してくれよ」
そう言って渡されたのは、彼女が身に着けていた鉄板だった。
「これが原因で元気が出せないの!」
まだ二時間目すら始まっていないというのに、今日はなんて疲れる日なんだ……。
朝は緋色にからかわれ、今は烏帽子ちゃんの非常識さ加減に振り回されている。
いや、確かに二人ともいい子なんだけどね。
でも、七月も中旬に差し掛かるこの時分だ。朝からこのテンションを維持していたら、体がもたないだろう。今日の帰りは緋色の実家に行ってお料理を作るというのに、だ。
ひとまずはここらで冷静になろう。
「もういいから、服着てよ。客観的な目線で考えてみて? 上半身下着だけの女の子が美術室にいたら、烏帽子ちゃんどうする?」
問い掛けると、烏帽子ちゃんはハッとしたような顔で、口に手を当てた。
「バランスが悪いから下も脱いだ方がいいかな?」
「上を着てよ! どうして脱ごうとするの?」
それに、顔赤らめて恥ずかしそうにしないでよ。
私がそう促しているみたいで罪悪感抱いちゃうじゃないか。
にしても、これじゃあ拉致が明かないな。
じれったさに耐えかねた私は、机の上に脱ぎ捨てられてたブレザーを彼女に無理矢理着せる。
「ほら、もう授業始まるから!」
そう言って、私は烏帽子ちゃんを急かす。
彼女がブレザーを着ると、教室にいた他の子たちも心なしか安心した様子だった。
あの子たちにとっては、烏帽子ちゃんこそがテロリストだったのかもしれない。
烏帽子ちゃんが服を着て少しすると、始業時間より数分遅れて先生が教室に入ってきた。
大きな段ボール箱を教卓の上に置き、
「今日は皆さんに『自画像』を描いてもらいます」
と、その箱から卓上鏡取り出し、配り始める。
自画像?
鏡を使って?
じわり。
汗が噴き出す。
どうしよう。
目の前にしている真っ白なキャンバスのように、私の頭も真っ白になっていく。
ことり。
私の目の前に鏡が置かれる。
黒板の前に立ち、先生が何やら説明してはいるが、その言葉の何もかもが頭に入ってこない。
だって私は、水面にも、誰の瞳にも映らないのだから、
当然、鏡にも映ることはない。
私のキャンバスは、いつまでたっても真っ白のままなのだ。
頭が痛い。
不安感が募り、どうしようもなくなる。
息苦しい。
胸を押さえ、呼吸を整える。
すると、
「しろのん、顔が真っ青だけど大丈夫か?」
烏帽子ちゃんが私に声をかけてくれた。
「う、うん」
私は精一杯の笑顔で、
「大丈夫だよ。暑さのせいかな? ちょっと頭がくらっとしただけ」
いつものように取り繕う。
「それならいいんだけど……」
烏帽子ちゃんは少し腑に落ちない様子だが、とりあえずのところ、納得してくれたようだ。
「うん。だから、気にせずお喋りしよ。何か話題無い?」
何とかして話題を変えなきゃな。
自分が鏡に映らないなんて話をして、烏帽子ちゃんから嫌われたくはない。
「んーと……」
烏帽子ちゃんは、斜め上の虚空を見つめながらに考える。
「そういえば、白乃はさっき『呪い』だとか言ってたな」
「あー、確かに言ってたけど、それがどうしたの?」
「どうやら最近、うちのバレー部で『呪い』――いや、どちらかというと『おまじない』かな」
烏帽子ちゃんは、普段の性格とは真逆の、穏やかな声で語りかける。
『呪い』や『おまじない』だなんて、小学校の時流行って以来、話を聞かない。
精神年齢が上がれば当然、誰だって非科学的なものに対する興味は薄れるだろう。
それに、本の虫(というより精霊だろうか?)な緋色と比べ、私は『呪い』のようなフィクションの存在に触れる機会は少ない。
「へー、何だか懐かしいね」
「その話なんだけど、丁度、これ――」
彼女が示すのは、さっき配られた卓上鏡だ。
覗いてみても、私がいるべきところに、私はいない。
そのままジッと見つめていると、鏡に吸い込まれてしまいそうな気がする。
無性に怖くなって、私は目を逸らした。
「鏡を使うおまじないなんだ」
「へえ、どうやって使うの?」
鏡が私を嫌っているように、私も鏡が嫌いだ。
だから、鏡を使ったおまじないなんて、正直興味の対象ではないんだけどね……。
私はできるだけ鏡が視界に入らないよう注意しながら、烏帽子ちゃんを見つめ返す。
「おまじないには手順があるんだ」
「確かに、ちょっと面倒くさい方が、何て言うか、おまじないっぽいね」
「まず最初に、おまじないをする場所の電気を全て消すそうだ。例えば、家なら家中の、学校なら学校中の灯りを消す――と言っても、おまじないをする部屋さえ真っ暗であるなら、他の部屋にちょっとくらい灯りが点いてても大丈夫らしい」
確かに、電気を消すと雰囲気は出そうだ。
「次に、おまじないをする部屋の鍵を全てかける。つまりは、誰も入ってこないよう――邪魔をされないよう、密室にするんだ」
「黒魔術って感じするね」
小学生の頃に流行ったものは、どれもかわいらしいものだったが、これは少し本格的な気がする。それこそ、この怪しげな雰囲気に興味を持つ女子高生がいてもおかしくないくらいには。
「部屋を密室にしたら、おまじないをする部屋の時計を一日進める」
時計を一日進める?
一見意味のない行動のように見えるけれど、それが『おまじない』というものなのだろう。
だから、重要なのは、おまじないをする人が『その行動にどんな意味を持たせるか』なのではないか――烏帽子ちゃんの話を聞いて、私はそう感じた。
「最後に、火のついた蝋燭を鏡にかざし、鏡に映る自分のことを吹き消すんだ。おまじないはこれで終わりかな。こういうのが一個年下の部員のうちで流行ってるんだよ」
「へえ、もうすぐ夏だし、こういうのが流行るのも理解できるね」
無論、鏡に映らない私には、全くもって関係のないおまじないだけれど。
緋色ちゃんなんかは好きかもしれない。
「ところで、流行った切っ掛けは何だったの? やっぱり夏だから?」
「夏だったからというのもあるだろうけど、根本的な原因ではないと思う」
「じゃあ、その――根本的な原因って?」
「しろのんは聞いたことない?」
烏帽子ちゃんは片手で鏡を弄りながら続ける。
「この街の都市伝説」
「都市伝説?」
そんな話は聞いたことがない。
まあ、自分の所属しているコミュニティが狭すぎるからだけれど。
友好関係が一番広いのは朱々だろう。でも、あの子都市伝説とか興味なさそうだからなあ。
「ボクたちが住んでいる区のどこかに、幽霊の出る廃ビルがあるだとか、例を挙げたらキリがないんだけどね。こういう話が流行り始めた一番の理由って――」
烏帽子ちゃんは、先ほどから触っていた鏡で自身の顔を隠す。
「『ドッペルゲンガー』の話が広まったからなんだ」
そう言って彼女はにやりと笑う。
けれど、烏帽子ちゃんの持つ鏡の中に『私の分身』なんてものはいなくて、
ただただ、空っぽの鏡が私のことを見つめ返しているだけだった。
ドッペルゲンガーというと、あのドッペルゲンガーだろうか。
誰かとまったく同じ姿形をした人物が、同時刻に二ヶ所で目撃されるという現象だ。
聞くところによると、かの有名な芥川龍之介という作家が、自分自身のドッペルゲンガーを目撃したせいで亡くなってしまったとか何とか。
もう一人の自分――
会えるものなら会ってみたいくらいだ。
私を知らない私は、もう一人の私に出会ったら、どう思うのだろう?
私のキャンパスはまだ、真っ白のままだ。