廃墟に置き去りにした友人
息が白く染まる冬休みの夜。
僕ら中学3年生の生活は、受験という見えない重圧に塗りつぶされていた。
周囲には娯楽施設など何もない田舎の学習塾。
連日の冬期講習と、その後の居残り勉強。
自習室の常連だった僕、ユウト、イツキ、そしてマサの4人にとって、合間に一緒に食べる晩ご飯の時間だけが唯一の息抜きだった。
マサは4人の中で一番小柄で、些細なことでも肩を跳ねさせるような臆病な性格だったが、僕とは一番馬が合い、よく隣で笑い合っていた。
その日の晩ご飯の最中、ユウトがふと声を潜めて言った。
「そう言えばさ、塾の近くにあったパチンコ屋の店長、1ヶ月くらい前に夜逃げしたらしいぜ」
「今はどうなってんの?」と誰かが尋ねると、ユウトはニヤリと笑って「廃墟になってる」と答えた。
そして、勉強の気晴らしにこれから肝試しに行こうと言い出したのだ。
暗くて何も見えないだろうと反論しかけた僕らの前で、ユウトは鞄から大きな懐中電灯を取り出した。
最初からそのつもりで準備していたのだ。
冷たい夜風の中、連れ立って歩いた先には、黒々とした四角い影が沈黙していた。
入口のガラス戸には太い鎖が巻かれ、頑丈そうな南京錠がぶら下がっている。
「残念だけど、中には入れなそうだな」
僕がそう言うと、名残惜しそうにイツキが鎖に触れ、ガチャガチャと揺らした。
——ジャラッ。
重たい金属音が響き、南京錠が外れて地面に鎖が滑り落ちた。
「まじか、取れちゃったよ」
「せっかくだから、中に入ってみようぜ」
誰かの声に背中を押されるように、僕らは扉に手をかけた。
マサだけが青ざめた顔で後ろに下がっていたが、鍵のかかっていない扉は拍子抜けするほどスッと開いた。
不法侵入になるのではと引き留める僕を、「管理してる奴なんていないから大丈夫だ」とユウトが適当な言葉で丸め込み、僕らは中へと足を踏み入れた。
懐中電灯の光が切り取るのは、埃を被った古びたパチンコ台の列だった。
ストッパーのない入口の扉を渋々閉め、奥へと進む。やがて、床の一部が不自然に区切られている場所を見つけた。
持ち上げてみると、そこには暗い地下へと続くハシゴのような階段が口を開けていた。
深さはそれほどない。
ユウトが「ジャン負け2人が下に降りる」というルールを提案し、渋々じゃんけんをした結果、言い出しっぺのユウトと、一番怯えていたマサが負けた。
ユウトが先にハシゴを下り、震えるマサがそれに続く。
懐中電灯を持ったままでは下りられないと言うユウトのために、僕が上から光で2人を照らした。
「すごいぞ! めっちゃパチンコ玉が積んである! これ換金したら、いくらになるんだ!」
下まで辿り着いたユウトの興奮した声が響く。
しかし、そこにはただ古い玉が積まれているだけで、他には何もなさそうだった。
マサが震える声で「そろそろ上がろう」と促し、ユウトが先にハシゴに足をかけた、その瞬間だった。
すーっと、地下の空気が急激に冷たくなった。
誰も触れていないはずの暗がりから、ジャラジャラジャラジャラッ! と、パチンコ玉のケースが雪崩のように崩れ落ちる鼓膜を破るような轟音が響き渡った。
上から見下ろしていた僕とイツキは、その状況の異様さに全身の産毛が逆立つ感覚を覚え、即座に逃げ出せるよう身構えた。
だが、誰よりもパニックに陥ったのはハシゴの途中にいたユウトだった。
「どけ! 早く!」
ユウトは下で怯えすくむマサを完全に置き去りにし、獣のような勢いで這い上がってきた。
「早く逃げないとやばい!!」
その悲痛な叫びを合図に、僕ら3人は弾かれたように走り出した。
暗闇の廃墟を抜け出し、冷たい夜の街を全力で駆け抜ける。
走っている最中、「マサを置いてきてしまった」「懐中電灯は僕が持ったままだ」という事実が頭を過った。
しかし、それ以上に得体の知れない恐怖が僕の理性を完全に支配し、ただ「ここから離れたい」という生存本能だけが脚を動かしていた。
塾の自習室に逃げ込み、肩で息をしながら、やがてユウトが震える唇を開いた。
「俺、見ちゃったかも……黒い手、みたいなものが……」
「やばいよ、マサを置いて来ちゃったし、俺、懐中電灯持ったままだし……!」
錯乱気味に叫んだ僕らは、しばらく自習室でマサが追いついてくるのを待った。
しかし、いつまで経っても彼は現れなかった。意を決して廃墟の入り口まで戻ってみたが、マサの姿はどこにもなく、僕らは逃げるようにそれぞれの家へ帰った。
翌日の冬期講習。
僕はユウトを見つけるなり駆け寄った。
「マサ、昨日ちゃんと帰ったかな? 何か聞いてる?」
すると、ユウトは不思議そうな顔で僕を見た。
「マサ? 誰だそれ。本名はなんて言うんだ?」
僕は絶句した。
確かにマサの本名は誰も知らず、ただマサと呼んでいた。
だが、それにしても、あんなことがあった翌日に知らないフリをするなんて、いくら何でも薄情すぎる。
そこにイツキがやってきたので、すかさず尋ねたが、イツキもまた「マサ? なんの話?」と首を傾げるだけだった。
やがて僕は悟った。
マサは、みんなの記憶から完全に消え去ってしまったのだと。
中学生の僕にできることなど何もなく、圧倒的な不条理を前に、僕は次第に「マサなんて、最初からいなかったのではないか」と自らの記憶に重い蓋をした。
——それから10年。
僕は社会人として働き始めていた。
ある残業終わりに、たまたまいつもとは違うルートで車を走らせていた時のことだ。
かつてパチンコ屋の廃墟があった場所には、真新しいコンビニが建っていた。
「そう言えば、牛乳を切らしていたな」
ふと思い立ち、車を停めて店内に入る。
買い物を終えて外に出た時、ひんやりとした冬の夜風が、10年前の記憶を唐突に呼び覚ました。
(そう言えば……ここって、昔肝試しに来た場所だよな)
時刻は23時を回っていた。
ふと、あのパチンコ屋の奥、地下へと続く階段があった場所のことが気になり、僕は吸い寄せられるようにコンビニの裏手へと回った。
薄暗い搬入口の影。
そこに、小学生か中学生くらいの男の子が一人、膝を抱えて座り込んでいた。
昔から子供好きで世話焼きな性分の僕は、見過ごすことができずに声をかけた。
「なぁ君、こんな遅い時間にどうしたの?」
ゆっくりと顔を上げた男の子は、無機質な声でポツリと言った。
「……友達に、置いてかれたんだ」
胸の奥で何かが嫌な音を立てたが、僕は努めて優しく微笑みかけた。
「そうなのか、それは可哀想だ。よかったら車で送って行こうか」
そう言ってしゃがみ込み、彼の肩に慰めの手を置こうと腕を伸ばした。
ギチッ。
僕の右手首を、男の子の真っ黒な手が万力のように掴んだ。
骨が軋むほどの力に息を呑んだ瞬間、男の子の口元が三日月のようにつり上がり、冷たい声が耳元にへばりついた。
「今度は、ちゃんと待っててね」




